ガウスの旅のブログ

学生時代から大の旅行好きで、日本中を旅して回りました。現在は岬と灯台、歴史的町並み等を巡りながら温泉を楽しんでいます。

旅の豆知識「暗夜行路」

2017年07月22日 | 旅の豆知識
 明治時代後期以降の日本の近代小説を読んでいると、作者が直接に経験したことがらを素材にして書かれた私小説や心境小説と呼ばれる作品があり、日本の文学史上にも大きな役割を果たしています。
 これらの小説は、作者が直接に経験したことを素材として、創作されていますので、作者の実際に住んだところや生活の様子がよく描かれ、成長過程をたどることもでき、足跡を訪ねてみると、小説の場面とマッチしている所も多く、なかなか感動できるのです。
 その中で、志賀直哉著の長編小説『暗夜行路』は、作者の住んだところや行った場所、成長過程がよくたどれて、足跡を訪ねる旅には、うってつけの作品なのです。

〇{志賀直哉}とは?
 明治時代後期から昭和時代に活躍した小説家で、1883年(明治16)2月20日に宮城県石巻市に生まれ、学習院から東京帝国大学文学部に学びました。
 1910年(明治43)に武者小路実篤、有島武郎、有島生馬、里見弴らと『白樺』を創刊して、リアリズムとヒューマニズムに基づく小説を発表し、注目されるようになります。その後、色々な文学者に影響を与え、日本的私小説の完成者とされています。
 『網走まで』『和解』『小僧の神様』『清兵衛と瓢箪』『灰色の月』などの作品で知られていますが、代表作は『暗夜行路』です。
 戦後も活躍しましたが、1971年(昭和46)10月21日に88歳で亡くなりました。

〇小説『暗夜行路』とは?
 志賀直哉の唯一の長編小説で、長期の構想を経て、大正時代の1921年(大正10)から雑誌『改造』に連載され、1937年(昭和12)に完結するまで17年の歳月が費やされました。
 序詞、第1~4部に分かれていますが、主人公時任謙作の苦悩とそれを克服していく生き方が描かれています。
 苦悩に直面したときに出かける旅のシーンが印象的ですが、最後に山陰の大山へ向かう旅が強烈です。小説全体のテーマを込めたもので最後に光明を見いだすのです。
<『暗夜行路』時任謙作最後の旅の行程>
(1日目)
 ・京都の花園駅から山陰本線に乗り、城崎駅へ
 ・城崎温泉「三木屋」に泊まる
 ・城崎温泉「御所の湯」へ入浴にいく
(2日目)
 ・城崎駅から山陰本線で香住駅へ
 ・香住駅から人力車で、大乗寺(応挙寺)を見学する
 ・鳥取へ泊まる
(3日目)
 ・鳥取駅から山陰本線で大山駅へ
 ・車窓に湖山池を見て、長者伝説を思う
 ・車窓から東郷池を見る
 ・大山駅から人力車と徒歩で大山に登る、途中分けの茶屋で休む
 ・蓮浄院の離れへ逗留する
(4日目~)
 ・蓮浄院に逗留しながら、阿弥陀堂など周辺を散策し、思索しながらすごす
 ・大山の山頂に登ろうとし、山中を彷徨し、九死に一生を得る
 ・蓮浄院で重病となって寝込む
 ・妻の直子が看病に来て、光明を見いだす

☆小説『暗夜行路』の関係地
 
(1)東京<東京都>
 志賀直哉は宮城県石巻の出生ですが、その後、東京で少年期から青年期を過ごすことになります。父の直温は、総武鉄道や帝国生命保険の取締役を経て、明治期の財界で重きをなした人物で、直哉が、14歳から住んだ東京麻布三河台町(現在の東京都港区六本木4-3-13 )の邸宅は、敷地1,682坪(5,550.6㎡)、建坪300坪もあり、雑木林の趣さえうかがえる広大なものでした。しかし、学習院から東京帝国大学文学部に入学後、いろいろと葛藤しながらも、放蕩生活の末に大学を中退することになります。そして、1912年(大正元)には、文学上の悩みや父との仲違いから東京を離れ、広島県尾道に移りました。また、1913年(大正2)年に、尾道から帰京した後は、山手線の電車にはねられ重傷を負い、しばらく兵庫県の城崎温泉で療養し、その後の落ち着き先が、 東京府下大井町鹿島谷(現在の東京都大田区)だったのです。
 小説『暗夜行路』には、この間の経緯や自身の体験が投影されているものと考えられ、また、東京の繁華な様子が、随所に表現されています。直哉が青少年期に住んでいた邸宅は、1945年(昭和20)の東京空襲で全焼し、今はブリジストンアパートとなっています。跡地には、説明板があるだけで、二本の欅の木を除いて往時を偲ぶものはなにもありません。没後、志賀直哉は、青山霊園にある志賀家一族の墓所に葬られました。

(2)尾道<広島県尾道市>
 志賀直哉は、1912年(大正元)11月、文学上の悩みや父との仲違いから東京を離れ、友人が賞していた尾道の地に移住しました。住んだのは、三軒棟割長屋の東のはじの一軒で、6畳と3畳の2部屋と土間の台所だけの平屋で、1913年(大正2)11月まで、1年間いました。ここで代表作である『暗夜行路』の構想を練り起稿したと言われています。現在は、近くにある文学記念室(国登録文化財)、志賀直哉旧居、文学公園、中村憲吉旧居の4施設を「おのみち文学の館」として有料で公開し、内部には、林芙美子、中村憲吉、行友李風、高垣眸、横山美智子、山下陸奥、麻生路郎の書籍・原稿や遺品等を展示公開するなど、尾道ゆかりの文学者たちの顕彰をしています。
 小説『暗夜行路』の中にも、主人公時任謙作が移り住んだ地として登場し、下記のように、尾道の町並み、特に、千光寺のことが詳しく書かれています。千光寺公園の文学のこみちには、「暗夜行路」の一説を刻んだ石碑が立っています。

「・・・・・・・・
 六時になると上の千光寺で刻の鐘をつく。ゴーンとなるとすぐゴーンと反響が一つ、また一つ、また一つ、それが遠くから帰つて来る。そのころから、昼間は白い島の山と山との間にちよつと頭を見せてみる百貫島の燈台が光り出す。それはピカリと光つてまた消える。造船所の銅を熔かしたやうな火が水に映じ出す。
 十時になると多度津通いの連絡船が汽笛をならしながら帰って来る。舳の赤と緑の灯り、甲板の黄色く見える電燈、それらを美しい縄でも振るように水に映しながら進んでくる。もう市からはなんの音も聞こえなくなって、船頭たちのする高話の声が手に取るように彼の所まで聞こえてくる。
 ・・・・・・・・」小説『暗夜行路』より

(3)京都<京都府京都市>
 志賀直哉は、若いころから京都を何度も訪れているとのことですが、最初に住んだのは、上京区南禅寺町で、1914年(大正3)のことでした。その年に、勘解曲小路康子(武者小路実篤の従妹)と結婚、翌年には、一条御前通西五丁の方へ転居しています。その後、群馬県の赤城、千葉県の安孫子と転々とし、1923年(大正12)に再び京都に住み、その年の10月から山科村(現在の京都市東山区山科竹鼻立原町)に転居し、1年半ほど暮らしていました。
 そんなわけで、志賀直哉の作品「山科の記憶」「痴情」「晩秋」「瑣事」などにもいろいろと登場し、小説『暗夜行路』後篇の主要な舞台ともなっています。下記のように、特に、銀閣寺、法然院、南禅寺、円山公園、祇園、高台寺、清水などの地名が出てきて、その周辺を巡っている雰囲気というか、愛着が伝わってくるのです。現在では、山科の居宅跡だけは、家屋は無くなっているものの、旧居跡の碑が立っています。

「南禅寺の裏から疏水を導き、又それを黒谷に近く流し返してある人工の流れについて帰って行った。並べる所は並んで歩いた。並べない所は謙作が先に立って行ったが、その先に立っている時でも彼は後から来る直子の身体の割にしまった小さい足が、きちんとした真白な足袋で褄をけりながら、すっすっと賢気に踏み出されてくるのを眼に見るように感じ、それが如何にも美しく思われた。そういう人が――そういう足がすぐ背後からついてくることが、彼には何か不思議な幸福に感ぜられた。
 小砂利を敷いた流れに逆らって、一匹の亀の子が一生懸命にはっていた。いかにも目的ありげに首を延ばしてはっている様子がおかしく、二人はしばらく立ってながめていた。
 ・・・・・・・・」小説『暗夜行路』より

(4)城崎温泉<兵庫県豊岡市>
 城崎温泉の「三木屋」は、1913年(大正2)電車事故で重傷を負った志賀直哉が養生に訪れ、名作『城崎にて』を執筆したことで知られている、江戸時代から続く老舗旅館です。
 後の代表作『暗夜行路』の中にも、下記のように描かれていて、主人公時任謙作が泊まって、すぐ前の“御所の湯”に入ったとあります。この外湯は、堀河天皇の皇女安嘉門院が入浴したことにちなんで名付けられた美人の湯とのことで、とても立派な造りとなっていて、大理石で囲われた 湯船で旅の疲れを癒すことができ、志賀直哉を偲んでみることも可能です。
 また、この温泉地には古来より、多くの文人墨客が訪れていますが、そんな風情を感じられる文学碑が各所に建てられています。その中に、志賀直哉の文学碑も城崎文芸館前にあり、小説「城崎にて」の一説が刻まれていますし、「城崎文芸館」内には、志賀直哉に関する展示があります。

「城崎では彼は三木屋というのに宿った。俥で見て来た町のいかにも温泉場らしい情緒が彼を楽しませた。高瀬川のような浅い流れが町のまん中を貫ぬいている。その両側に細い千本格子のはまった、二階三階の湯宿が軒を並べ、ながめはむしろ曲輪の趣に近かった。また温泉場としては珍しく清潔な感じも彼を喜ばした。一の湯というあたりから細い道をはいって行くと、桑木細工、麦藁細工、出石焼き、そういう店々が続いた。ことに麦藁を開いてはった細工物が明るい電燈の下に美しく見えた。
 宿へ着くと彼はまず湯だった。すぐ前の御所の湯というのに行く。大理石で囲った湯槽の中は立って彼の乳まであった。強い湯の香に、彼は気分の和らぐのを覚えた。
 出て、彼はすぐ浴衣が着られなかった。ふいてもふいても汗がからだを伝わって流れた。彼は扇風機の前でしばらく吹かれていた。そばのテーブルに山陰案内という小さな本があったので、彼はそれを見ながら汗のひくのを待った。
 ・・・・・・・・」小説『暗夜行路』より

(5)大乗寺<兵庫県香美町>
 この寺は、行基菩薩が聖観世音菩薩立像を祀ったのが始まりといわれる古い寺で、戦乱の余波で一時衰退しましたが、安永年間、密蔵法印が伽藍を再建したとのことで、西国薬師霊場第二十八番札所に選ばれています。しかし、なによりも有名なのは、円山応挙とその弟子達による165面の障壁画(国重要文化財)があることで、俗に応挙寺と呼ばれているのです。
 小説『暗夜行路』の中では、下記のように主人公時任謙作は城崎の次に立ち寄り、丸山応挙一門のふすま絵におおいに興味を示し、その様子が詳述されています。寺は現在もそのままで、障壁画も見学することができますので、それらを見ながら、志賀直哉の感動を追体験することも可能です。

「十時ころの汽車で応挙寺へ向かう。香住駅から俥で行った。
 応挙の書生時代、和尚が応挙に銀十五貫を与えた。応挙はそれを持って江戸に勉強に出た。その報恩として、後年この寺ができた時に一門を引き連れ、寺全体の唐紙へ揮毫したものだという。
 応挙がいちばん多く描いていた。その子の応瑞、弟子の呉春、蘆雪もあり、それぞれおもしろかった。
 応挙は、書院と次の間と仏壇の前の唐紙を描いていた。書院の墨絵の山水がことによく思われた。いかにも律気な絵だった。次の間は郭子儀、これには濃い彩色があり、もうひとつは松に孔雀の絵だった。
 ・・・・・・・・」小説『暗夜行路』より

(6)大山<鳥取県西伯郡大山町>
 志賀直哉は、1914年(大正3)7月に、大山寺を訪れ、塔頭寺院の一つ蓮浄院に10日間滞在し、大山にも中腹まで登山したらしく、その後、8月初めに山を下っています。
 小説『暗夜行路』の中では、主人公時任謙作は、最後のところで、大山の山頂への登山を試みますが、途中から引き返し、下記のように、すばらしい朝日を見るものの、疲労して、病気となるのです。そこに、妻直子が看病に来て、妻への憎悪が薄らいでいくところで、小説は終わっています。しかし今でも、雄大な自然が残り、小説の情景を彷彿とさせてくれるところです。

「・・・・・・・・
 中の海の彼方から海へ突き出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はっきりと浮かび出した。まもなく、中の海の大根島にも陽が当たり、それが赤鱏を伏せたように平たく、大きく見えた。村々の電燈は消え、そのかわりに白い煙がところどころに見え始めた。しかし、麓の村はまだ山の陰で、遠いところよりかえって暗く、沈んでいた。謙作はふと、今見ている景色に、自分のいる大山がはっきりと影を映していることに気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上ってくると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気づいたが、それは停止することなく、ちょうど地引き網のように手繰られて来た。地をなめて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張り切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地にながめられるのを稀有のこととし、それから謙作はある感動を受けた。」小説『暗夜行路』より

☆小説『暗夜行路』の冒頭部分

 私が自分に祖父のあることを知ったのは、私の母が産後の病気で死に、その後ふた月ほどたって、不意に祖父が私の前に現れて来た、その時であった。私の六つの時であった。
 ある夕方、私は一人、門の前で遊んでいると、見知らぬ老人がそこへ来て立った。目の落ちくぼんだ、猫背のなんとなくみすぼらしい老人だった。私はなんということなくそれに反感を持った。

 (後略)

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