神功皇后伝承が今も色濃く、仲哀陵伝承、10月に馬駆神事
[住所]大阪府河内長野市小山田町453
[電話]0721-52-5345

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、大阪府河内長野市小山田町にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

神功皇后が三韓征伐の時、深く三神に祈願し、凱旋の後、摂政11年4月上の卯の日に摂津住吉に祀った。

摂政52年、天下を巡行した神功皇后が、和泉国の逆瀬川の上に謄陀船という地に到着した。そこから河内国の行幸が始まった時、弓を射て、この矢の落ちた地を定めたという。

その時、国境沿いに名主興三五郎という者が迎えに出で、先導して高天原という現在地の一小丘に到着、4月中の卯の日、当地にて奉斎した。これが当社の起源だという。

現在も、毎年1月中の卯の日に弓を射る神事があるが、この神功皇后の射弓の故事にちなむもの。また、高天原にちなみ、現在境内に高天原神社がある。

泉北郡神谷村に通じる河泉両国境に鉾立と呼ばれる地があり、神功皇后の征韓凱旋時、鋒を勢揃いした地とされている。

その側には旗の坂と呼ばれる、皇后が凱旋の際旗を立てて、休息したと伝わる坂がある。また、軍用の壷をひき登ったとされる壷ひき坂もある。

また、当社では今も続く「馬駈神事」があるが、これも神功皇后が凱旋した際に行われた裸馬の競争にちなむという。

祭典の神輿渡御に際し、「小山田人足揃ったか」と口々に唱える慣習があった。これも神功皇后の三韓征伐以来の由緒だという。

神功皇后に関する伝承は関西以西、全国各地に点在しているが、それでも当社のこの分量は異常で、他に例を見ない。

そもそも、『日本書紀』仲哀天皇の条では「9年、仲哀天皇が筑紫香椎宮で崩御」「斎宮を小山田邑に造らせられた」とある。

また、『日本書記』神功皇后の条では「摂政2年冬11月、仲哀天皇を河内国長野陵に葬った」とある。

これに対応するように当社の高台の南端に、仲哀天皇陵と伝わる古墳がある。夫である仲哀天皇の陵があったのであれば、神功皇后の当地に対する執着も理解できる。

その皇后の執着が、現在も多くの皇后に関する伝承を残すことになった、とも、理解できる。市内の西代神社に合祀された西山神社にも仲哀陵の伝承があったという。

もっとも、仲哀天皇陵は『古事記』には「河內惠賀之長江にある」とあり、「惠我長野西陵」とも表記され、宮内庁により藤井寺市の岡ミサンザイ古墳に比定されている。

鎮座地は小山田の東南尾上山の丘陵で、もとは豊浦神社とも、清崎神社とも、小山田宮とも呼ばれた。「豊浦」は仲哀天皇のもう一つの皇居である穴門豊浦宮を連想させる。

往古は住吉大社との関係も深く、当地も住吉大社の神領だったともされる。近世には両部住吉五社大明神と称され、薬師・阿弥陀・大日・観音・地蔵を祀るとされた。

江戸時代後期の文化10年(1813年)12月、本殿が造営された。これが現在の本殿で、江戸後期の特徴を残す優れた神社建築として評価されている。

明治5年(1872年)、郷社に列し、明治40年(1907年)には神饌幣帛料供進社に指定され、市内随一の社格を有した。

現在、当社の西北西約300メートルの地に元宮と称する建造物があり、五社大明神が奉斎されている。明治の神仏分離時に切り離されたもの。

明治、あるいは昭和になり、現社号に改称。現在までに御祭神は、底筒男命中筒男命表筒男命の住吉大神で、氣長足姫命・武内宿禰・國津神・高龗神を合祀する。

例祭は10月12日で秋季御例祭、現在は体育の日に行われ、馬駆神事が有名。

神馬を先頭にして氏子がぞれぞれ奉納した馬の手綱をとり、たくさんの観衆が見守る中、約200メートルの馬場を駆け抜ける勇壮な神事である。

もっとも、かつては農耕馬を各家から出していたというが、現在では馬を飼う家もなくなり、例祭に合わせて乗馬クラブから馬を借り、神事を行っているという。

【ご利益】
安産、子育て、諸願成就、五穀豊穣、地域安全
住吉神社 大阪府河内長野市小山田町
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