渡来の織物生産者の祖神、七夕伝説発祥の中心地、7月7日に七夕祭
[住所]大阪府交野市倉治1-1-7
[電話]072-891-4418

機物神社(はたものじんじゃ)は、大阪府交野市倉治にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

倉治(くらじ)の地は今から約1600年ほど前、大陸から渡来した漢人庄員(しょういん)によって開かれた。

その頃、すぐれた文化を持った大陸人は歓迎され、優遇された。渡来人のうち、織物をその専業とするものは、倉治を中心とした津田・寺村の山麓にその土地が与えられた。

機織は、その生産物の需要が多く、村は次第に繁栄し、その一族はこの地方で大きな勢力になったという。

飛鳥時代の白鳳元年(672年)、天智天皇の子である弘文天皇と、天智天皇の弟である大海人皇子が対立して戦った時、当地の機物生産者は、大海人皇子に味方した。

その戦勝の後、皇子は即位して、後に天武天皇と呼ばれるようになったが、恩賞として、倉治の機物の首長に交野忌寸(かたのいみき)の姓が与えられた。

当社の創祀・創建年代は不詳だが、機物生産者が庄員を祀ったのが起源だと考えられている。奈良時代の天平年間(729年-749年)、現在の神宮寺の東南に開元寺が建立された。

平安時代になると、京の人々が遊猟のために交野地方を訪れることが多くなり、天体崇拝思想や文学的趣味から、御祭神が織女星すなわち棚機姫になったと考えられている。

惟喬親王の供をして交野に来た在原業平が、七夕姫に託した里姫との、一夜の契りを願った下記の歌が伝わっている。
狩りくらし 七夕つめに 宿からん あまの河原に 我はきにけり
現在までに当社は、棚機姫、つまり天棚機比売大神(天棚機姫神・棚機姫命)の他、栲機千々比売神・地代主神・八重事代主神を祀る。

当社の経歴は不詳だが、卜部兼倶が奉幣した記録があることから室町時代にはすでに格式ある神社として認識されていたと考えられている。

織田信長は当社に特段の興味があったとされ、元亀3年(1572年)、兵士の狼藉、陣取、放火などを禁じた。

また、翌年の天正元年(1573年)には、神境を東西260間、南北67間あまりと定めた。さらに、神職16人の席次争いの調停、下知を行った。

江戸時代には神官家が18軒あり、宮座の席順、神主の人選は神前でくじによって決められたが、これは信長の下知以降の伝統だという。

さらに信長以降も、天正10年(1582年)には明智光秀が武運長久を祈り、初穂料として白銀100枚を、天正16年(1588年)には豊臣秀吉が神饌米100表を寄進したという。

例祭は7月7日で、七夕祭。七夕の祭りで、6日が宵宮、7日が本宮。七夕飾りで彩られた境内には多数の露店も出る。当日は多くの人で賑わう。

7日は神輿も繰り出す。竹笹に結ばれた短冊は、夜も更けた22時30分から天の川に流される。毎年関西のマスコミが取り上げ、市を代表する行事となっている。

交野市から隣の枚方市にかけての、いわゆる交野が原が日本における七夕伝説発祥の地とされており、当社はその中心。

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機物神社 大阪府交野市倉治
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機物神社 大阪府交野市倉治の御朱印