光秀冤罪説を考える 13 御霊神社について まとめ 3 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。



前回の記事では、奈良屋喜左衛門(常照寺旦越)と常照寺

日峰上人がともに謀り、奈良屋喜左衛門方の鎮守であった

光秀御霊神を紺屋町稲荷社に勧請したという話を
ご紹介しました。
この話が載せられた『御霊神系略』には、さらに次のような

記述があります。



「紺屋町稲荷社に光秀御霊神を勧請したが、元禄13年辰年

(1700)、町中大火災により丸之内へも飛火し、お城も危うく

殿様も城外へ避難した。
この火災のため、常照寺26世日遥上人は先々師(24世

日峰上人)の志を継いで宝永2年(1705)、光秀御霊神を

常照寺へ勧請した」



承応2年(1653)、奈良屋喜左衛門方から紺屋町稲荷社へ

光秀御霊神が勧請されましたが、その約50年後、今度は

常照寺内に光秀を祀る社殿が造られました。
つまり紺屋町稲荷社と常照寺、二ヵ所に光秀御霊神が

祀られたことになります。



元禄年間の1700年ごろから、福知山をまたも厄災が

襲うようになりました。
天災が相次いでおこり、さらに大火事にみまわれ、この

火事では当時の藩主だった朽木稙昌が城を焼け出される

という事態になりました。



先々代日峰上人の意志を受け継いでいた日遥上人と

福知山藩主朽木稙昌は、この災害は光秀の霊が鎮まらない

ことによるものだと考え、あらためて光秀を祀る社殿建設を

思い立ったのではないでしょうか。
謀反人光秀を表立って祀ることは、当然幕府の許可を

得てのことだと思われますが、外様大名でありながら幕府と

密接な関係を築いている朽木家としては念のため表に

立つのを避けたのでしょう、発願者は福知山住民ということで
社殿を建設しました。




前回の記事では、承応2年、福知山の寺社保護政策を

施行した松平忠房は、歴代の福知山藩主に幾人もの非業の

死を遂げた者がいることを光秀の祟りであると考えたのでは

ないかと書きましたが、歴代藩主たちの死が実際に光秀の

祟りであるかそうでないかは、実は重要ではありません。
紺屋町稲荷社の社殿改造を行わせるため、それが祟りで

ないとしても、忠房に祟りであると思わせることが

重要なのでした。


忠房と違い、この元禄年間の光秀社殿建設にあたった

朽木稙昌は、福知山を襲い城にまで火をかけたその真の

原因は光秀の祟りであるということを本当に信じていたと

思われます。
それは稙昌の先祖で、元亀年間の朝倉攻めの後、撤退する

信長を助けたこともある朽木元綱に関わるある秘密が

存在するからです。
これはまたの機会に記事に書きます。




日遥上人は稙昌に対し、紺屋町稲荷社に光秀御霊を

そのままにしておくことは光秀を無視していることになり、

光秀が稲荷社から出ようとして暴れ、災いは続くだろうと

いうような話をしたと想像します。
日遥上人から自分の先祖と光秀との関わりを聞かされた

稙昌は、そこであらたに常照寺内に光秀の社殿を造る

こととし、結果、紺屋町と常照寺に二つの光秀御霊社が

出来ました。



元文2年(1737)には当時の藩主・朽木玄綱が、福知山

住民から出願された光秀御霊会(ごりょうえ)執行の儀を

許可しており、この御霊会はその後光秀まつりとして

盛んになり、現在も毎年開催されています。



そうして再び時は流れ、寛保年間以降(1741~)、今度は

紺屋町稲荷社の摂社として常照寺光秀御霊神が

合併されました。
その後、合併した社が移転して、現在の

御霊神社となりました。



福知山は朽木氏が藩主となってから長くその時代が続き、

幕末まで朽木氏が治めて明治維新を迎えました。




ここまで御霊神社創建の流れをざっと説明してきましたが、

なんとややこしい経緯でしょう。
まだまだ説明が足りていないので、引き続き御霊神社に

ついて書いていきます。
どうぞよろしくお付き合いください。



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