本能寺の変 その時光秀は… 3 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。




天正10年、武田氏を滅ぼした信長はその戦後処理を

終えました。
武田領だった駿河を奪うことに成功した徳川家康はその

軍功により信長から駿河を拝領されています。
その御礼として家康は、安土に戻る道中の信長を駿府に

おいて接待しています。

信長は家康領を見回って観光しているかのように上機嫌で

接待を受けました。
家康は莫大な私財を注ぎ込み、信長の通る街道や宿泊する

宿を整え大いにもてなしました。
この盛大なもてなしに対する返礼のため、信長は家康を

安土に招きました。
甲斐から戻った光秀にその家康の接待役が仰せつけられ、

光秀は京や堺から山海の珍味を集め、豪華な宴を

しつらえました。
これが安土大饗応 と呼ばれるものです。



家康が安土に到着した5月15日から17日までの3日間に

わたり振る舞いが行われましたが、17日、光秀は信長より

西国出兵を命じられたために饗応役を退いています。
俗説にこの饗応で振る舞った魚が腐っていたことで光秀は
信長の怒りを買い、饗応役を罷免となったという話が

ありますが、これは現在ではほぼ否定されています。
ですが小説やドラマなどではいまだにこれを真実であるかの

ように描くことが多々あります。



5月17日、西国出兵を命じられた光秀はその準備のため
安土から坂本へ帰城します。

このあたりから本能寺の変勃発に至る間の光秀に関する

記録は、『信長公記』と『明智軍記』の記録がよく

使われています。
光秀関連書籍に載っている年表も、『信長公記』

『明智軍記』の二つによるものが載せられています。


『信長公記』は信長の家臣の太田牛一の筆になるもので、

どうして牛一が本能寺の変に関する光秀の動向を

知り得たのか疑問です。
これはわたしが知らないだけでどこかに答えが書かれて

いるのかもしれません。これからの研究課題です。



悪名高い『明智軍記』は元禄期に成立したとされる

作者不詳の創作物で、他の比較的信憑性の高い史料には

見られず『明智軍記』にだけ見られる記述が多いことで

知られています。
『明智軍記』のすべてがウソとも言い切れないようですが、

まず疑って注意深く使わなくてはいけない史料でしょう。

というわけで、今後もその点をふまえて拙ブログをお読み

いただくことをお願いします。



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