本能寺の変 その時光秀は… 9 | 始めのはじめは一(ハジメ)なり

始めのはじめは一(ハジメ)なり

先祖・家系調査の具体的な方法をご紹介します。
大好きな新選組隊士・斎藤一を調べていたら
自分の先祖に関係があった!
そして知った先祖とは、なんと明智光秀だった!
そこから広がる史実と閨閥の世界。

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※「光秀冤罪説を考える」シリーズの記事をはじめて
お読みくださる方は、まずこちら の「はじめに。」から
お読みください。





本能寺の変と呼ばれる事件の詳細、というよりも天正10年

6月2日の光秀の行動について光秀側から記された

信憑性の高い記録というものはほとんど存在しませんが、

光秀軍にいた兵士が語り残したとされる話がいくつか

伝わっています。



『川角太閤記』という江戸時代初期に成立した史料は、

安土桃山時代に生きた田中吉政という武将の家臣・

川角三郎右衛門が記したとされるもので、そこに

明智家旧臣から聞いたという話が載せられています。
真偽のほどはわかりません。

元禄年間に成立したとされる『明智軍記』は明智家と関わりの
あった人間が編集に携わったのではないかとする説が

ありますが、これも真偽は不明です。

ですので本能寺の変当日の光秀の動きを確かめることは
不可能だと思うのですが、現在多くの研究者、特に小説家は
以上に挙げた史料の他、信長の家臣だった太田牛一が

書いた『信長公記』、秀吉の家臣・大村由己

(おおむらゆうこ)の『天正記』など、秀吉側の人間によって

書かれた記録などを元に、本能寺の変について

書き顕しています。
ただ、これらの史料に書かれた光秀に関する記述のすべてが
ウソやデタラメといいきれない部分もあり、どう読みとれば
いいのか苦心しています。



『川角太閤記』には、光秀が亀山を出立し京へ向かう様子、
そこで光秀自身が語ったという謀反の理由などが
記されています。
それらは光秀の家臣だった山崎長門守と林亀之助の

二人から聞き取った話だと、川角太閤記の著者は

記しています。


川角太閤記とは、秀吉に関する逸話をまとめたものです。
その内容には多くのフィクションが含まれていると、
川角太閤記現代語訳版の解説に書かれてあります。
わたしは光秀亡き後の秀吉についてほとんど知らないので
川角太閤記全体の信憑性について判断することは

できませんが、光秀に関する箇所を読んだ限りでは

大部分が真実とかけ離れているという印象を持ちました。



川角太閤記の著者・川角三郎右衛門は太田牛一の

『信長公記』を読んでいたらしく、「これより先は信長記

(=信長公記)に詳しくございます。」とか「『信長記』に

書かれていることと世間の取り沙汰の相違はこれまでに

ございました。
二説があるようにお考え下さい。」などと書かれた箇所が
いくつかあります。
当時すでに本能寺の変に関するいくつかの説というか噂話が
飛び交っており、真相を知ることが困難だったことが

わかります。



近年の研究により川角太閤記に記された内容のうち、

あきらかに事実と違う記述があることがわかってきました。
例えば光秀が語ったとされる謀反の理由のうち、信長に

武田氏征伐の折り諏訪で折檻された話や、安土饗応で魚を

腐らせてこれまた信長に折檻された話などは、現在では

否定されています。
これらのようにはっきりフィクションだとわかる話が載せられて

いるのですが、それを語った人物二名が実在の人物らしいと

いうので話がややこしくなっています。



光秀は本能寺の変勃発の三日前、山陰の国人へ向けて
「信長の命令どおり中国へ向かう」という内容の書状を書いて
いて、それは少なくともその時点では謀反をおこす気など

なかった証明になるのではないか?という記事 を前回

拙ブログにアップしました。
川角太閤記にはそれを裏付けるような記述があります。


山崎長門守・林亀之助の二名が語ったところによると、
5月29日、光秀は「中国へ出陣いたす。明日より人足などを
お出しなされ。」と言って、弾薬、その他長持ちなど軍需品を
合計百個ばかり中国へ向けて送り出したというのです。

これも多くの研究者からは謀反を隠すカモフラージュだと

片付けられてしまっています。



光秀が信長に折檻されたとされる虚構の話。
そして、妙に信憑性のありそうな軍需品を送り出した話。
この二つは同じ人物たちが語った話だとされています。
これはどう考えればよいのでしょうか。



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