天橋立を歩く[4] 廻旋橋から智恩寺文殊堂へ〜冬至丹後元伊勢行(18・最終回) | 日々のさまよい

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大天橋から小天橋へと渡る大天橋…
分かりにくいですね〜(苦笑)

天橋立は砂嘴の切れ目によって、大天橋、小天橋、第二小天橋という3つの砂嘴に分けられます。
そして、
砂嘴の大天橋と砂嘴の小天橋を繋ぐ橋が大天橋、砂嘴の小天橋と文殊地区とを繋ぐ橋が廻船橋(小天橋)、ということです。

大天橋や小天橋という砂嘴名と、海をまたぐ本当の橋の名が同じになっているため、混乱してしまいます。


さて、もうかなり、太陽が西へと傾いてきました。
時刻は14:30ごろで、まだまだお昼間なんですけれど、さすが冬至翌日です。




砂嘴の小天橋を横切って廻船橋(小天橋)を渡るとスグに通行止めとなり、橋が回り始めました。
動いているのは手前ではなく向こう側で、赤い帽子にジャンパーを着たおじさんは係員の方です。

右手が外海側の
宮津湾方面、左手が内海側の阿蘇海方面となります。




ここは当初から砂嘴が切れていたところで、九世戸(くせど)あるいは切戸(きれど)と呼ばれています。
昔は水面がもっと広く橋もなかったため、船による「九世戸の渡し」で天橋立に渡っていたそうです。

今では整備された文珠水道(天橋立運河)となり、内海の阿蘇海と宮津湾を結んでいます。
ニューカレドニアのニッケル鉱石を積んだ大型タンカーが宮津湾に停泊し、その鉱石は小型の運搬船に積み替えられ、阿蘇海奥にある須津の冶金工場へと運ばれます。

旋回橋の稼働概念

Wikipedia/可動橋/旋回橋

文珠水道の対岸は、ここから南島に延びる小天橋の松並木。
その右向こうには、早くもこちらへ向かって来る運搬船が見えています。




ニッケル鉱石を積んだ運搬船が通過するところ。
回った廻船橋が、向こう岸にピッタリと寄り添って水路を開けています。




まるで飛び乗れそうな近さで、目の前を通り過ぎる運搬船。
甲板には山積みのニッケル鉱石が見えます。

Wikipedia/ニッケル
光沢があり耐食性が高いため装飾用のめっきに用いられるほか、導電性も高い(鉄、クロムより優れるが銅には及ばない)ため電気接点のめっきにも好んで使われる。ステンレス鋼や硬貨の原料などにも使用される。日本で2010年現在発行されている50円硬貨や100円硬貨は銅とニッケルの合金(白銅)である。




また来ました。
何艘かが、タンカーから同時に出発しているようです。

日本三景のひとつ、この天橋立で、鉱工業の流通現場へ目の当たりに遭遇するとは思いませんでした(笑)


しかし、もともとニッケル精錬所は、阿蘇海の一番奥に軍需工場としてあったため、天橋立そのものを切断し大型船舶を通そうという計画が日中戦争時にあったそうです。
それ以前にも、江戸時代の享俣、元文、寛延、慶応に、漁業と海運のため橋立切断の企てがあったとのこと。
さらには第二次大戦後にも、江尻での切断案が京大舞鶴海洋研究所から発表されました。

このように天橋立には、なかなか際どい生き残りを賭けた危機が続いたようですけれど、その都度、切断へ反対する人々の尽力によって今があるようです。

丹後の地名/日本三景・天橋立(主に自然編)宮津市文珠~江尻
天橋立の切断計画小史
一方では破壊も企てられた。天橋立は湾口を塞いで往来の邪魔になるので、途中で切断して、舟や魚を自由に通そうというもくろみも実は何度かあった。

ですから廻船橋での光景も、日本三景としてあり続けたサバイバルの結果として、とても感慨深いものがあります。




90度回って水道を開けていた廻船橋が戻ってきました。
係員のおじさんは慣れたもので、まだ動いている橋から歩速を変えず、ヒョイとこちらへ乗り移ります。




廻船橋を渡ると、文殊港の灯明台がありました。
かつて港として賑わった時代の灯台がそのまま残っています。




・・・文珠港の灯明台

この橋のあたり、昔は船着場で、文珠の港であった。ことにかつての岩滝港や須津港へ出入する船は、すべてここ文珠の水道を通ったから、いま私たちが想像する以上に、当時の港「文珠」は賑わった。
さてここに建てられた「石灯篭」は、天保十五年(一八四四)、大阪の商人・大和屋藤兵衛という人が、当時宮津の有力商人・宝来屋儀八と酒見屋弥兵衛の二人を世話人にたのみ、ここ文珠・船着場の灯明台とすべく寄附したもので、この台石に「照海夜白」とあることからも、当時の港を照す「灯台」であったことが知られる。
その後、ここ文珠が天橋立とともに発展し、むかしの港風景は知るよしもないが、この「灯篭」だけは土地の人々に愛され、いまもその場所を変えることなく、幕末の姿をそのまま、かくも立派に名勝「天橋立」を見守りつづけている。

宮津市教育委員会・・・
宮津市文化財保護審議会




「天橋山 智恩寺」

廻船橋から歩いてスグです。




山門。

足掛け7年の工期によって、1767年(明和4年)に上棟されたとのこと。
上層には釈迦如来や十六羅漢を安置しているそうです。

扁額にある「海上禅叢」とは、海の上で座禅を組むための叢(草むら)、という意味かと思われます。
智恩寺は臨済宗妙心寺派ということで禅宗ですから、海に向かって座禅したりするのかも知れません。
あるいは、海を観想するのでしょうか。




鉄湯船。

手水鉢として使用されていますけれど、これは元々、寺院の大湯屋で寺僧の施浴に用いる湯船として制作されたものだそうです。

その名前と形、由来や素材、現在の使用方法まで成相寺の鉄湯船とそっくりですが、こちらも同じく重要文化財ですから、完全にガップリ四つですね(笑)




本堂の文殊堂。


智恩寺

山号:天橋山(てんきょうざん)
宗派:臨済宗妙心寺派
本尊:文殊菩薩創建:808年(大同3年)伝
開基:平城天皇(勅願)伝
札所:日本三文殊

Wikipedia/文殊菩薩

智恩寺ホームページ
Wikipedia/智恩寺_宮津市

丹後の地名/天橋山智恩寺(ちおんじ)宮津市文珠
丹後の地名/文珠(もんじゅ)日本三景天橋立の名所 宮津市


実は今まで、文殊さまがご本尊のお寺へお参りしたことがありませんでした。
記憶を辿っても、比叡山延暦寺の文殊楼くらいしか思い出せません。

日本三文殊で、この智恩寺文殊堂と並び有名なのが奈良桜井の安倍文殊院ですが、そちらは三輪の至近にもかかわらず行ったことがありませんので、これが文殊さまご本尊参拝の初経験だと思います。

しかしながら、この文殊堂にはじめてお伺いしたのにもかかわらず、はじめての気がしませんでした。
それは、この文殊堂の大きな写真を、ある時期には何年も毎日のように見ていたことがあったからです。
思い起こせば30年くらいに渡り、この文殊堂を写真で見て来たことに現地で気がつきました。

その写真とは、大阪市営地下鉄の東梅田駅ホームに掲示された電飾看板です。
どのような機縁でそのような広告掲示が継続されているのか分かりませんけれど、とにかく数十年前からずっと文殊堂の巨大な写真が、同じホームの同じ位置に今もあり続けているのです。

ですから何となくこのお姿を拝見し、懐かしいような気持ちになりました(苦笑)




多宝塔。

丹後国守護代で府中城主延永修理進春信によって建立さ れたこの多宝塔は、室町時代のものとして丹後地方唯一の遺構、とのこと。
下重には来迎柱が立ち、前方に須弥壇をつくって中央に大日如来が安置されているそうです。
智恩寺ホームページ/智恩寺めぐり/多宝塔

当初、智恩寺は真言密教の寺院で、南北朝時代以降に禅宗へと改宗されたとのことですから、その由緒によって、真言密教で最高仏とされる大日如来がここで祀られているのでしょうか…




天橋立 三所詣(さんしょもうで)

西国巡礼第28番札所  成相寺(なりあいじ)
丹後一宮元伊勢・・籠神社(このじんじゃ)
日本三文殊・・・・・智恩寺(ちおんじ)

「天橋立三所詣」というものを、この境内に掲げられた幟ではじめて知りました。
このような幟は、籠神社や成相寺にはなかったと思いますし、ネットで検索してもあまりこれといった情報はヒットしませんから、もしかしたら智恩寺が独自に提唱しているのかも知れません。

何しろ文殊地区は天橋立の玄関口で、観光客のほとんどが先ずここに到着し、その大半が対岸の府中まで行くことなく去ってしまうようですから、この地でこのように籠神社や成相寺までの参詣を奨励することは、地域全体の振興にとって重要なことかと思われます。



この後、文珠水道にある智恵の輪石灯籠を見ようと境内の外に出て観光船のりばの方へ行ってみましたが、少しウロウロするも見つからないまま諦めました(泣)

Google Map/智恩寺

上に引用した写真の真ん中あたりにあるんですが、見えますでしょうか?
後で調べると、こんな感じでボート乗り場にまぎれてしまい、知らないとどこにあるか分かりにくい状況です。orz


そうして最後に、天橋立ビューランドの「飛龍観」を見て帰りたいと思っていましたが、すでに時刻が15:30ごろとなっており、天橋立駅前16:45発の高速バスまであまり余裕がありませんでしたので、それも残念ながら諦めました。
天橋立ビューランド/飛龍観・股のぞき



そこでバスを待つ間、どこかで軽く直会でもしようということになりました。
ところが、これもやはり予習が足らないばかりに、手頃なお店の見当がつきません。

すると駅前に唐揚げを売っている小さなお店があり、どうやら店内で食べられるようになっているみたいで様子を伺うと、他におでんやら牛スジの煮込みやら居酒屋料理も豊富なようで、もちろん酒類も揃っていましたから突入します。


Google Map/府道2号線

この田舎の小さな民家みたいな一戸建てですが、私たちの入った時は新規開店したばかりとのこと。
以前ここはタコ焼き屋だったそうで、未だ居抜きそのままの状態で、もっと派手でした。

店主に店の写真を撮っていいか尋ねると、今は外装が
タコ焼き屋のままなので撮らないで〜と頼まれます(笑)
そのため、お店の名前が不明のまま。




看板メニューの若鶏唐揚げと、寒さを癒やす焼酎お湯割り。

お店は若いご夫婦で切り盛りされており、他愛ない世間話しにお付き合いを頂けて、小一時間ほど気楽にくつろげました。




そしてバスは定刻通りに出発し、ようやく大阪への帰路につきました。
丹後海陸交通/高速乗合バス/大阪線(丹後〜大阪)



(おわり)  
 
 
 
 

 

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