内宮門前町の鎮守神を祀る宇治神社〜2016冬至伊勢行(2) | 日々のさまよい

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宇治橋の斜め向かい、県道12号を挟んで内宮と対面するように鎮座する宇治神社。

神宮125社のひとつではありませんけれど、少し控えめながら堂々たる立地です。

私たちの訪問に先立って、11月26日に御神遷があったということですから、鳥居をはじめ本殿やその拝殿など、社殿や建造物のいくつかが新たに造替されていました。





一の鳥居を入ってすぐ左に手水舎。
こちらも新しく、清々しい姿。





手水舎に掲げられた近々催行される神事。
月次際・・一日・十五日午前十時
天長祭十二月二十五日午前十時
十二月三十一日午後一時
除夜際十二月三十一日午後四時





境内の様子。

右手が社務所で、正面の石段を昇って二の鳥居をくぐった先に、本殿前へ建つ拝殿が見えています。




 

宇治(うじ)神社

・・伊勢市宇治今在家町字丸山
//大山祇神(おおやまずみのかみ)

ほかに御裳須曽姫命(みもすそひめのみこと)・素戔嗚尊(すさのうのみこと)・菅原道眞公・荒木田守武命などを合祀

・・八月二十一日
特殊神事一月十七日弓の事始式

六月三十日茅輪(ちのわ)神事(夏越祓(なごしのはらい))

 
創祀に二説あります。その一つは、皇大神宮末社那自賣(なじめ)神社の跡地に土地の神をまつったというもの(宇治昔語など)。その二は、万治三(一六六〇)年七月二十九日宇治洪水の時、神路山にあった小祠がここに漂着したというもの(五十鈴遺響など)。
明治四十一年三月以降近隣の数十社を合祀して、宇治四ヶ町の鎮守社となってきました。
主祭神の大山祇神(おおやまずみのかみ)は山の神、そして合祀されている神々は水の神や火の神から菅原道眞や藤原鎌足など歴史上の人物も加えてまつってきました。人々はこうして、自然の力と人間の智慧を尊崇してきました。
なお、当社奉祀の「足神さん」は、祈願者が多く、わらじを献ずる慣習もつづいています。





境内を奥へと進みます。
「足神さん」の幟が立ち並んでいました。

先に良く知らないと、この「足神さん」が宇治神社の主祭神かと勘違いしてしまいますね(苦笑)





二の鳥居。
奥に拝殿、右に蓬莱稲荷神社。





そして、二の鳥居すぐ左脇に足神神社。





何だかカワイイ祠に、「足神さん」と大きく記された木標。
右奥には、草鞋の絵馬も奉納されています。




 
足神神社
「神宮典略」によると、本社は「皇大神宮末社」葦立弖(あしたて)社に擬し、一説には宝暦年間(一七五一〜一七六四年)磯部街道笹原茶屋の亭主が、老狐が足を傷して治療に手を尽くしたが、その効無く悶死(もんし)したが亭主は、之を厚く葬(ほうむ)り山神に祖霊と祀り崇敬した。
/足の疲労平癒(ひろうへいゆ)を祈れば必ず加護ありと遠来より祈る者が多くなり草鞋(わらじ)を献ずる慣例があった。
/今尚、宇治神社に其の信仰状態を表し多くの陸上選手や足の悪い人達が健脚・健康を祈って訪れる。

アテネ五輪のマラソンで金メダルを取った野口みずきさんも、出場前にここへ参拝されたそうですから、誠に霊験あらたかな神さまです(笑)





撫石。
自分の足とこの石を交互に撫でることで、痛んだ足の平癒や健脚を祈願するとのこと。




 
撫石
(みそぎ)や祈祷のとき、からだを撫でて、穢(けが)れや災いを移して身代わりとして川に流す形代と同様にこの石を撫でて足の平癒を祈って、足神さんのご加護をいただいて下さい。





サチエも生真面目に撫石を撫でていました。
けれど、自分の足は撫でないまま、石だけを撫でていたようですから、どうなんでしょう?





先に足神さんへの参拝を完了し、本殿へと向かいます。





なぜか、サチエがなかなか足神さんの前から動きません。
どうやらかなり、足神さんをお気に入りの様子でした。





御神遷での造替で真新しくなった拝殿と本殿。
右の向こうに見えているのは、古殿地に建つ覆屋か、もしくは元仮殿のようです。

宇治神社の御神遷については、↓こちらで詳しくご紹介されていますので、ご参照ください。
『神宮巡々2』『神宮巡々』/宇治神社





拝殿内に掲げられた御祭神名。
 
御祭神
大山祇神
宇摩志阿斯訶備比古遅神
宇迦之御魂神
玉移良比賣神
御裳須曽姫神
豊玉比賣神
素戔嗚尊
天兒屋根命
速秋津日子神
速秋津比女神
新川比賣神
火産靈神
水波賣神
石津賀神
応神天皇
天見通命
大職冠鎌足神靈
和気清麿神靈
菅原道真神靈
楠正成神靈
彌武彦神
羽倉東麿神靈
岡部真淵神靈
本居宣長神靈
平田篤胤神靈

何だか、やたら大勢の神々さま方ですけれど、これは明治末期の神社合祀政策で、このようにされてしまったようです。
 
明治41年3月、館町鎮座の求神社(中略)、足神社(中略)、水神社(中略)、今在家町鎮座の鏡石神社(中略)、石津賀神社(中略)、山神社(中略)、稲荷社(中略)、佐野姫神社(中略)、水神社(中略)、中之切町鎮座の蘭神社(中略)、浦田町鎮座の八幡社(中略)、稲荷社(中略)、秋葉社(中略)、瀧倉神社(中略)、山神社(中略)、崇忠神社(中略)を、同年7月、館町鎮座の荒木田一門神社(中略)を合祀し、明治45年5月、境内社弓場菅原社(中略)を合祀し、今日に至る。
三重県神社庁教化委員会/神社の紹介/宇治神社


宇治神社の氏地は、五十鈴川両岸の内宮門前町である宇治(進修地区:今在家町・中之切町・館町・浦田町)となっており、かつてその氏地に存在した上記18社の祭神が一斉に宇治神社へ合祀された、ということです。

それはつまり、宇治において古くから祀られて来た18社もの神社が、時の政府の方針によって忽然と消去された、ということになります。
 
神社合祀政策は1906年(明治39年)の勅令によって進められ、全国で1914年までに約20万社あった神社の7万社が取り壊された。特に合祀政策が甚だしかったのは三重県で、県下全神社のおよそ9割が廃されることとなった。
(中略)
この官僚的合理主義に基づいた神社合祀政策は、必ずしも氏子崇敬者の意に即して行なわれなかった。
(中略)
この合祀政策は、博物学者・民俗学者で粘菌の研究で知られる南方熊楠ら知識人が言論によって強い反対を示した。
(中略)
1910年(明治43年)以降には急激な合祀は一応収まった。しかし、時既に遅く、この合祀政策が残した爪跡は大きく、多数の祭礼習俗が消えてしまい、宗教的信仰心に損傷を与える結果となった。
Wikipedia/明治末期の神社合祀





拝殿の奥から、本殿を仰ぎ見ます。

ここに、25柱もの神々がスシ詰め状態で祀られていると思えば、何となく複雑な心境にならざるを得ません。

しかし神社合祀を進める際、具体的な判断は知事の裁量に任されたということですから、三重県が他都道府県に比べ格段に多くの合祀を行ったということには、やはり国家神道の本宗とされた神宮のお膝元であるこの地であるからこそ、ことさらに日本全国へ向け範を示す必要があったのではないか、などと思われます。

ともあれ、この本殿にはこの地の鎮守さまが一堂に会しておられるわけですから、それはそれで何とも有り難いことと思い直し、参拝させて頂きました。





蓬莱稲荷神社。
朱色が鮮やかです。




 
蓬莱稲荷神社
現在の五十鈴川郵便局と藤屋窓月堂との露地(宇治中之切町旧進修小学校地内)にあったものを移したものであります。
元来は、今在家町丸山にあったものを、(一六八四年〜一六八八年 林崎文庫設立時は、稲荷神社が有った)天明二年(一七八二年)修築時に移されたものであります。
内宮権禰冝で副物忌父職(そえものいみのちち)を兼帯したことから蓬莱家の社であったと思われる。





社名がなかなか味のある書体で刻まれた扁額。





あと数分で07:30、しばらくすると宇治橋に朝陽が届く頃ですから、参道を下って行きます。

この宇治神社は、かつて中之切町字森に鎮座して饗土ノ山神社とも称した、ということですから、おそらく神宮会館の裏手付近、その山腹あたりにあったのかと思われますので、その跡地は今、どのような感じになっているのでしょう。

ここより少し小高い場所だったのかな、とか、境内地をこちらへ遷した理由は何だったのか、など、ボンヤリとですけれど気になります。





ゆるゆると鳥居を抜けて、宇治橋前へと歩を進めました。



(つづく)→ 
宇治橋から冬至前日のご来光を遙拝する〜2016冬至伊勢行(3)




 

 

 

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