海を渡る高速バス~平成4年 相模鉄道 横浜発札幌行き直通バスが走った夏~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

「パシフィック・ストーリー」という商品がある。
別名を「東京・札幌連絡切符」と言う。
高速バスとフェリーを乗り継いで東京と北海道を結ぶ割引切符である。

その内訳は、

東京駅14時00分発・水戸駅15時53分着 高速バス「みと」号
水戸駅16時14分発・大洗FT(フェリーターミナル)16時40分着 路線バス「50系統」大洗FT経由アクアワールド大洗行き
大洗FT18時30分発・苫小牧FT翌朝13時30分着 商船三井フェリー大洗-苫小牧航路
苫小牧FT13時56分発・札幌駅15時45分着 高速バス「高速とまこまい」号

と、船中1泊、所要25時間45分の行程である。
運賃は時期によって異なるが、最安値で9900円であるという。

日本本土の4島は、航空機はもとより、鉄道でも結ばれているが、道路交通では北海道だけが繋がっていない。
それでもなお、高速バスを使って北海道へ旅をしたいというニーズは、少なからず存在するらしい。
以前は、池袋と新潟を結ぶ関越高速バスと新潟-小樽航路を乗り継げば、諭吉さん1枚以下で北海道へ渡れると、バスファンの間で評判になったことがあった。
僕も、バスとフェリーを乗り継いで渡道したことが何回かある。

「飛行機も鉄道を使わないで、遙々やって来たぜ」

という行為は、冷静に考えれば、どのような意味があるのかと馬鹿馬鹿しくなる可能性がある。
それでも、どこか、意欲を掻き立てる魅力と、不思議な達成感があるのは確かだ。

全国津々浦々を高速バスが走っているのだから、フェリーを介して東京と北海道を直通する路線があってもいいじゃないか、と夢想するようになれば、バスマニアとして重症の部類に入る。
東京と徳島や熊本と長崎、広島と大分の間で、高速バスをフェリーに積んで運行した例はある。
東京発札幌行き高速バスは、不可能ではない。
日常的に利用する人がいるのかどうかは、別の話である。

そのような夢物語を実現した高速バスが、四半世紀前に実在した。

連日うだるような暑さが続き、盆の帰省ラッシュのニュースも聞かれるようになった、平成4年8月11日のことである。
午前10時前に、横浜駅西口に近い鶴屋町の相模鉄道高速バスセンターの発券カウンターで、

「札幌行きのバスに乗らせていただく者ですが」

と申し出ると、係員さんたちが顔を見合わせて、

「じゃあ、手続きを始めてしまおうか」

とうなずき合い、僕を「札幌行 受付」と書かれた奥のテーブルに招いた。
そこで予約の確認がてら、前もって購入しておいたクーポン券を渡す。

「出発の時間になりましたら放送で案内しますので、それまでお待ち下さい」

との言葉に従って3階の待合室に入ると、大きな荷物を抱えた数名の先客が、手持無沙汰そうに座っていた。

この時間帯は他に高速バスの発車がないはずだから、共に北の大地までの道中を共にする乗客であろう。
羽田空港や上野駅のような賑わいとは程遠いものの、この日だけ、相鉄バスターミナルが北海道への玄関口になっているのだ。



ふと窓の下に目をやると、停まっている路線バスを圧するように、白地に青い波模様が入ったスーパーハイデッカーが構内に進入し、ターンテーブルで一回転しているところだった。
車体の正面と側面に「LAPUTA」の文字が描かれている。

相鉄バスの横浜と金沢を結ぶ高速バス「ラピュータ」号として活躍した車両で、車両の更新に伴って続行便としての余生を送っているらしいが、「YOKOHAMA-KANAZAWA」のロゴも添えられたままだった。

2階のカウンターでは、この長旅のドライバーを務めるMさんとHさんが、運行管理責任者と点呼を行っている。
8月11日に出発し、戻ってくるのは15日の夜と言う長い勤務であり、盆の帰省ラッシュのピークにも重なる訳だから、打ち合わせにも熱がこもっているように見受けられた。

発車の10分前に、

「乗っても構いませんよ」

と声を掛けられたので、僕は真っ先にバスに飛び乗った。

この車両には、平成元年に、横浜から金沢へ向かう夜行便で乗ったことがあるから懐かしい。
横4列の座席は若干狭苦しかったが、腰をすっぽり包み込むバケットシートで、リクライニングも深く、足置き台やレッグレストも付いていたから、ぐっすりと眠れた記憶がある。
定期運用からはずれても、トイレや車内電話、セルフサービスのコーヒーやお茶のパックが置かれているサービスコーナー、マルチチャンネルステレオ、おしぼり、毛布、読書灯など夜行バスの標準装備はそのまま残されているから、今回もゆっくりくつろげる。

相鉄バスの横浜 - 札幌直行バスは、平成3年の夏と年末年始に1往復ずつ運行され、いわゆる「帰省バス」として企画された会員制乗合バスの範疇に入る。
1回目の利用は47人で2台運行、2回目は29人だったそうだが、いずれも横浜から札幌への片道だけの募集であった。
3回目となる今回は、初の往復運行となったが、往路の客は20人弱と少なめだった。
36人乗りの「LAPUTA」車両では勿体ないくらいであるが、利用者としては長時間過ごす車内に余裕があるのは大変にありがたい。

何よりも、北海道への航空券や座席指定券などが24時間キャンセル待ちという異常な繁忙期に、バスが暖かく手を貸してくれるという意気込みが嬉しいではないか。
1回目や2回目の便も利用したというリピーターも、何人か見受けられたのである。



「これ、どこに積もうか」

運行管理者がひょっこりと乗降口から顔を出し、非常食用のカップラーメンの箱を2つ差し出したから、身が引き締まる思いがした。
渋滞などで長時間車内に閉じ込められた場合に備えて、当時の長距離バスは、非常食を積んで走っていたものである。
僕がこれまで経験したことのない壮大なバス旅が始まるのだという興奮に、全身がゾクゾクした。

定刻午前10時30分、「LAPUTA」は、1000km余り彼方の札幌に向けて、所要23時間20分の旅に出発した。
窓から眺める横浜の街並みは、ぎらぎらと照りつける日差しの下で、陽炎のようにゆらゆらと揺らめいていた。



「LAPUTA」は、しばらく第1京浜国道を北上してから、神奈川ランプで首都高速横羽線に駆け上がった。
大して距離を稼がないうちに、早くも浜川崎で渋滞につかまってしまう。
電光掲示板では「渋滞5km」の表示が出ている。
このあたりの渋滞は日常茶飯事のこととは言え、旅の鳥羽口からこの調子では先が思いやられる。

「まず、どこまで行きますか。蓮田までのしてしまいますか」
「うーん、そうだな、蓮田か羽生だな」

と、最初の休憩地点の確認をする声が聞こえた。
コクピットからHさんがひょっこりと顔を出し、挨拶を兼ねて車内設備と運行経路及び休憩地点の説明を始めた。

過去2回の運行は、東北自動車道を青森まで走り、東日本フェリーで函館に渡ってから、国道5号線と37号線で噴火湾沿いに室蘭、道央自動車道で札幌、と言うオーソドックスな経路だった。

今回は、協力を依頼した東日本フェリーから、大畑-室蘭航路の利用を強く推奨されたという。
ただし、大畑-室蘭航路は大畑発2時30分と15時30分の2本だけの運航で、万が一、バスが遅延した場合に備えて、便数の多い青森-函館航路の予約も入れるという条件で了解したという。
新しい経路では室蘭からそのまま高速道路に入るから、フェリーに乗れさえすれば見通しは明るい。
しかし、この時期、下北半島の突端に近い大畑まで、果たして16時間でたどり着けるのだろうか。

折しも、持参した携帯ラジオでは、東北道下り線鹿沼ICでの14kmの渋滞を報じている。

5kmのはずの渋滞がどんどん同じ方向に移動したらしく、多摩川を渡って東京都内に入ってからも、暫く付き合う羽目になった。
首都高速横羽線と羽田線は、臨海工業地帯の真ん中を突っ切る高架だから、ひしめく幾何学的な工場群と、大型船を浮かべる東京港、画一的なアパートが並ぶ八潮団地、視点を転じれば高層ビルが林立する都心の景観などが次々と繰り広げられて、少々渋滞しても飽きが来ない。

広大な羽田空港を望む連絡路で、羽田線から湾岸線に渡ると、ようやくスムーズな走りを取り戻した。
翼を煌めかせながら離陸していく航空機が、空の彼方に見える。
あれが千歳空港行きならば、2時間後には札幌か、という邪念がついつい胸中に去来した。

煤で汚れた東京港海底トンネルをくぐり、台場、有明、夢の島と埋立地を次々と走り抜けてから、「LAPUTA」は、葛西JCTで荒川の東岸に沿う中央環状線に舵を切る。



ごちゃごちゃした下町を見下ろしながら走るうちに、対向車線を、品川と弘前・五所川原を結ぶ「ノクターン」号の回送便が何台もすれ違っていく。
盆の前半には下り便の需要が多いから、必然的に上り便はカラで走ることになるのであろうが、 700km近い長距離の回送とは想像を絶している。
この時期の我が国の交通機関の過熱ぶりを象徴する光景である。

小菅JCTで都心からの6号線と合流する手前から、車の流れがつっかえ始める。
車窓の遥か彼方には、池袋や新宿の高層ビル群が霞んで見える。
首都高速川口線は荒川の広い河川敷に沿って西へ向かい、明治通りを跨ぐ鹿浜橋ランプの先で、荒川と別れて北へ向かう。



一定のリズムを刻んでいた路面の継ぎ目の間隔が長くなり、路肩が広くなって2車線から3車線に広がると、ようやく東北道である。
「LAPUTA」は、峡谷から平野に躍り出た大河のように元気を取り戻して一気に加速した。
「栃木-宇都宮 渋滞中」との表示が掲げられた浦和料金所をくぐったのは、正午を回った12時23分だった。
都心の縦断に2時間もかかったことになる。

東北道の車の密度は高かったが、流れに滞りはなかった。
「LAPUTA」は追い越し車線に乗って、これまでの鬱憤を晴らすように快調に飛ばしていく。
この先に渋滞が生じていることがわかっているだけに、少しでも距離を稼いでおきたいのだろう。
座席に収まって眺めているだけの僕でさえ、肩に力が入る。



30分ほど走った12時50分頃、最初の休憩地である羽生PAに滑り込んだ。

「昼飯にちょうどいいな」

と、Mさんがサイドブレーキを引きながらつぶやく。
Hさんが客席を振り返り、

「では、ここで休憩致します。 10分ほどで発車したいのですが、よろしいでしょうか」

と乗客の顔色を窺った。
誰もが、少しでも先を急ぎたいという気持ちに変わりはないようで、異論は出なかった。
僕は、内心、休まなくてもいいと思ったが、運転手さんはそうはいかない。
先は長いからこそ、疲れが残らないようにきっちりと交替して休んでいただかなければならない。

「では、1時ちょうどに出発したいと思います。お戻りの際にはバスをお間違えになりませんように。まあ、この車は目立ちますので大丈夫と思いますが」

とのHさんの言葉に、車内に笑い声が上がった。
確かに「LAPUTA YOKOHAMA-KANAZAWA」などと横っ腹に大きく描かれたバスは他にはあるまい。



バスを降りた乗客は、一斉に小走りで建物に向かう。
この際、トイレよりも、昼食の確保が先決である。
幸い、レジに行列が出来ている店内だけでなく、外のテントでも弁当がたくさん売られていたので、飲み物を自販機で買った上に、用足しまで済ませる余裕も生まれたのである。
僕が買ったのは、米八のおこわ弁当だった。
後で知ったのだが、羽生PAでは名物の1つなのだという。



前途の状況が読めないだけに、夕食の分まで手に入れる乗客も見受けられた。

「LAPUTA」の隣りには、浜松町発山形行きの東北急行バスが休憩している。
この路線の休憩地は10kmほど手前の蓮田SAのはずだが、満杯で入れなかったのかもしれない。



13時きっかりに乗客全員が揃い、ハンドルを交替したHさんに代わって、Mさんが、次の休憩予定は那須高原SAである旨を告げた。

しばらくは坦々とした平地が続くが、びっしりと高速道路の周囲を埋め尽くしていた建物に、いつしか隙間が目立ち、鮮やかな緑の穂が揺れる田園が広がり始める。
関東平野が尽きると急勾配やトンネルで山越えに差し掛かる東名高速や中央道のような、劇的な変化ではないけれど、 鄙びた雰囲気が漂い始めて、少しずつみちのくの味わいが醸し出されてくる。

思い出したように現れる「栃木-宇都宮 渋滞中」の表示に変わりはない。
どんどん伸びている気配がないだけ、マシなのであろう。
宇都宮の手前には車線が減少する鹿沼ICがあり、ここでの数十kmの渋滞は盆暮れの風物詩のように言われているが、今年はどれくらいつながるのだろうか。

心配している間に栃木ICが過ぎ、「鹿沼 2km」の標識のあたりで、前方の車がハザードランプを点滅させ始めた。
ついに引っかかったか、と緊張したが、Hさんは、鹿沼から流出する左車線がガラ空きと見るや、すかさずバスを移動させ、一気に2kmを稼いで、インターの手前で要領よく右車線に合流した。



その後は暫くノロノロ運転が続いたが、鹿沼から13kmの宇都宮IC付近で、時速90km程度まで回復した。
周囲の車の密集した団子状態は変わらず、走行車線も追い越し車線も全く同じ速度で流れている。
これでは、いつ詰まってもおかしくない。
どの車も関東のナンバーで、どうやら帰省の集団の真っただ中に巻き込まれているようだ。

しかし、コクピットからは、

「大した渋滞じゃなくて良かったですね」
「流れているねえ。こりゃあ、青森には9時か10時には着いちまう」
「夕食は1時間くらい休んでも大丈夫でしょう」

などと、のんびりした会話が聞こえてくる。



左窓に那須の山々が近づいてきた14時26分、那須高原SAで2度目の休憩となった。
発車は14 時40分で、その10分後には、白河ICの出入路が窓外を過ぎ去った。
いよいよ、みちのくに足を踏み入れたのである。

いつしか、空は厚い雲に覆われて、あたりの風景は物悲しいほどの翳りに包まれた。

高村光太郎が、

「阿多多羅山の山の上に 毎日出てゐる青い空が 智恵子のほんとの空だといふ」

と詠んだ青空も安達太良山も、雲に隠れてしまっていたが、空調が効いた車内にいながら、ふっと冷気が感じられるような爽やかさが感じられる。
アスファルトを溶かさんばかりに、灼熱の太陽が照りつけていた首都圏とは大違いである。
路肩の温度計は、22℃を示していた。



郡山ICを過ぎると、東北道はなだらかな山岳地帯に足を踏み入れる。
山襞が左右から高速道路に迫り、そろそろトンネルを穿たないと向こう側へ行けないぞ、と思うたびに、カーブで巧みに山裾をよけていく。
そのような肩すかしが何度か繰り返された後に、起点から241kmで、初めてのトンネルをくぐる。

昭和47年に建設された東北道は、できるだけトンネルを避けようとしたのか、曲線と勾配がきつい。
「LAPUTA」はギアを落としてエンジン音を轟かせながら上り坂に挑んでいくが、速度が落ちた車がひしめいて、かなり走りにくそうである。
登坂車線も多く、大型トラックが目の前を右往左往する。

右手下方には福島の市街地が広がり、その向こうに阿武隈川が銀色の帯となって流れている。
阿武隈の流れが彼方に遠ざかり、国見峠を越えれば、宮城県である。

「北緯38度」と書かれた標識が目に入った。
細長い東北地方の地図が脳裏に浮かぶ。
東京や横浜は北緯36度線の南側、下北半島の大畑は北緯41度線のやや北寄り、札幌は北緯43度に当たる。
横浜と札幌を結ぶバス旅は、緯線を8本も越えていくことになる。



田園地帯の真ん中を一直線に伸びている東北新幹線が、小さな丘を短いトンネルで突き抜けているのが見える。
白亜の高架橋があまりに立派なので、団子に串を刺したようで、何だか痛々しい眺めである。

立ち塞がる障害物をモノともせず、時速200kmで目的地に急ぐのも爽快であろうが、バスで、みちのくの情緒をのんびりと味わいながらの道行きも悪くない。

「川口から300km」の標識を過ぎ、仙台の手前の菅生PAで3度目の休憩をとったのは、16 時21分だった。
バスを降りると、背筋がぞくっとするほど涼しくなっていた。

手洗いに往復して戻ってくると、バスのそばで一服している運転手さんたちの周りに人の輪ができていた。

「バスは北海道中央バスの車庫に置きっぱなし。俺たちは出勤扱いの休暇が取れるんですよ」

と、Hさんの声が聞こえる。

「北海道中央さんの協力が決まっても、問題はトイレだったみたいだね」

とMさんが続ける。

「バスの汚物タンクの容量が限られているから、出来れば、北海道中央さんの車庫で中身を捨てて来たいんだけど、このバスのタンクのホースの口金に合う設備があるのかどうかって話が持ち上がってね。あの件、向こうに問い合わせたみたいだけど、どうなったんだっけ?」
「さあ?いざとなれば、横浜まで積んで帰るしかないんじゃないかってとこまでは聞いてますけど」

と、Hさんも首を傾げた。

「え?じゃあ、あんまり車内でトイレに行かない方がいいんスかあ?俺、さっき、たっぷり出しちゃったッスよ」

と若い男性が素っ頓狂な声を上げたから、みんな吹き出した。

「いやいや、大丈夫ですよ。北海道中央さんだって都市間路線をいっぱい持っているし、このバスと同じ三菱ふそうの車もあるんだから。うちの会社だって、近鉄さんの日野や、北鉄さんの日産、羽後交通さんのボルボなんかが全部処理できるんだもの。だから、存分にどうぞ」

と、Mさんが笑いながら種明かしをする。
バスならば、道路さえあればどこにでも行けるものとたかを括っていたのだが、裏では細々とした準備が必要なのだなと思う。



本線に戻ると、車の数がぐんと減った。
郡山や福島などの目ぼしいインターの手前では車の流れが鈍ったものだったが、仙台南と仙台宮城のインターでは、速度を落とすことなく通過できた。

ここに来て初めて、大畑到着予定が23時30分頃という、はっきりとした見通しが告げられた。

「津軽サービスエリアは8時半頃かな」
「じゃあ、そこで、青函フェリーのキャンセルの電話を入れましょう」

という会話が、コクピットから聞こえてくる。
聞いている僕も、胸を撫で下ろした。

岩手県に入ると、右側に衣川が見えてくる。
芭蕉が「つわものどもが夢の跡」と詠んだ古戦場は、鬱蒼と繁った木々に覆われた丘陵の奥である。
藤原3代のミイラが安置されている中尊寺で有名な平泉や、座敷童子や河童の伝説が伝わる遠野の里も近い。
宮沢賢治が自分の作品の舞台とした架空の土地「イーハトーヴ」も、北上地方がモデルだという。
日常とかけ離れた世界に足を踏み入れたような気がして、遠くまで来た感慨がこみ上げてくる。

「青森まで 240km」の標識を過ぎた頃から、徐々に日が暮れ始めた。
北上や奥羽の山並みや、綺麗に稲が生え揃う緑の水田や点在する集落が、ゆっくりと色褪せて、黄昏の中に溶けるように消えていく。
ハイウェイにも、ヘッドライトをつけた車が点々と目立ち始めた。



18時27分、紫波SAに停車すると同時に、Mさんが客室に向き直り、

「夕食はどうしましょうか。予定では津軽サービスエリアで摂るつもりだったんですが」

と聞くと、すかさず乗客の1人が、

「津軽に着く頃には、レストランや売店は閉まっているかもしれませんよ。ここで食べませんか」

と提案した。
他の乗客もうなずいたので、ここで30分の大休憩となった。

これがサービスエリアかと目を疑いたくなるほど、紫波SAのレストランは小さかった。
ごった返している客席を横目に見ながら、食券売り場でウェイトレスさんに、

「時間がかからない品は何ですかね」

と聞いてみると、

「カレーか牛丼、それと、うどんです」

「LAPUTA」の乗客のほとんどは、その3つから選んだようだが、席を見つけるのにひと苦労だったから、諦めて売店の弁当で済ませた人もいた。



夕食を終えて本線に戻ると、とっぷり日が暮れて、窓外は真っ暗になっていた。
それを見計らったように、Hさんが、

「これからビデオを放映します。先日亡くなられた松本清張さんにちなみまして、プログラムは『天城越え』にしました」

と案内する。
なかなか粋な選択じゃないかと思う。

「石川さゆりの歌と何か関係があるの?」

と、ハンドルを握りながらMさんが尋ねる。

「いえ、それとは違うんですけど、いい映画なんですよ」

とHさんが強調した。



映画の間に盛岡ICが過ぎ、続いて八戸自動車道を分岐する安代JCTを通過した。

その年の 8 月に開業したばかりの、仙台と下北半島のむつ市を結ぶ夜行高速バス「エクスノース」号は、安代JCTから八戸道と国道338号線を北上するが、「LAPUTA」は、十和田湖の南側を回り込むように奥羽山脈の懐に踏み込んでいく。

暗闇に目を凝らせば、黒々と立ちはだかる山々の輪郭がおぼろに見え、少しずつ高度が上がっていくのが体感できる。
トンネルが断続して、きついカーブで身体が左右に揺さぶられる。

大鰐弘前ICの手前で、細かな光の粒が散りばめられた津軽平野が眼前に広がった。
本州最後の休憩地である津軽SAに到着した時には、映画のエンドタイトルが流れていた。

「天城越え」の魅力は、何と言っても主演女優の田中裕子であろう。
曲がりなりにもミステリーであるからネタバレは避けたいが、警察に連行される彼女の、主人公の学生に別れを告げる表情に魅入られた僕は、その後、DVDを手に入れた。



津軽SAは、レストランも売店も閉まっていて閑散としていた。
車も数えるほどしか見当たらない。
建物の明かりだけが煌々と眩しかった。
耳を澄ませば、周囲の草叢から虫の声が聞こえる。

一服しながら、Mさんと立ち話をしていた回送業者の運転手さんが、

「横浜から北海道へ!へえ」

と目を丸くしていた。

Hさんがポリタンクでサービスコーナーのお湯を補給している。
車内に戻ると、

「お夜食でございます」

と、カップラーメンが配られた。
もう、非常食の必要はないとの判断なのであろう。

発車直前に、営業所からの電話が鳴った。

「ええ、今、津軽サービスエリアです。函館行きのフェリーはキャンセルの電話を入れました」

とMさんが応対して電話を切ると、Hさんに話しかけた。

「これから帰省バスが出発するんだってさ。『もう津軽にいるの』って驚いてたよ」

余裕が出たのか、20分以上の長い休憩で鋭気を養ってから出発である。
残り少なくなった東北道は、津軽平野の東端を囲む山腹を走っている。
左手のやや下方に、真っ暗な田園地帯に家々の灯りが望まれた。

やがて、「終点」と書かれた標識が暗闇に浮かび上がり、ギアが次々と落とされる。
総延長679.5kmの東北道を走破して青森料金所をくぐったのは、横浜を発って11時間後の21時35分だった。



「徳山よりは近い気がするなあ」

と M さんのつぶやき声が聞こえた。
相鉄バスの最長距離路線である、横浜と徳山を結ぶ「ポセイドン」号の勤務を思い出したらしい。
夜行ではなく昼間の運転であることも一因であろうか。

一般道に降りた「LAPUTA」は、青森市街の南を迂回し、国道 4 号線を東へ向かう。
長時間に渡って高速道路を走って来たので、細かなギア操作や信号停車、小刻みな揺れ方などが、どこか懐かしい感じがする。
信号機が積雪に備えて縦長になっているのを目にして、北国へ来たんだという思いを強くする。

浅虫温泉街のネオンが車内を極彩色に彩る頃、窓ガラスを霧雨が濡らし始めた。
巨大なワイパーが動き出したが、フロントガラスにこびり付いた虫の死骸のために、油膜が張られたようで視界がぼんやりする。

野辺地で国道4号線と別れ、狭い路地をぐるぐると回って道を間違えたんじゃないかと不安に駆られるうちに、「下北半島」と書かれた案内標識が見えて、国道279号線に入った。
普通、案内標識には町の名前が書かれているものだが、随分と大雑把な標識だと思う。

半島を縦断する国道279号線は、殆どカーブがなく、真っ直ぐ暗闇の彼方まで伸びているが、起伏が激しい。
時折、対向車のヘッドライトが前方に見えると、何度も上下に消えたり現れたりする。
「LAPUTA」のヘッドライトに映し出されるのは、2車線の道路を覆って鬱蒼と枝を伸ばした木々と、ところどころに凹みがある錆びたガードレールだけである。



左に視線を転じれば、真っ暗な陸奥湾の遥か彼方に、青森の灯であろうか、金色の細い帯が、かすかに明滅しながら横に伸びている。
下北の夜は、あまりに寂しかった。
この先に、フェリーが発着するような街が本当に存在するのだろうか、と心細さが胸を締め付ける。
僕たちは、このまま、死者の霊が必ず赴くという恐山の賽の河原に迷い込んでしまうのではないだろうか。

その時である。

「おう、来た来た! JRさんだ」

と、Mさんの声が上がった。
つばめマークの青いバスが、一瞬、ヘッドライトの光の輪の中に浮かび上がった。
JRバス東北が運行する、田名部発仙台行き「エクスノース」号である。

「今、JRさんはどこでも走っていますよね。必死で稼ごうとしているんですねえ」

とHさんが感心したように呟いた。



「エクスノース」号との邂逅で、先程までの不安感は吹き飛んでしまった。
夜行高速バスが走っているということは、この先にも、人の営みがあるということである。
それだけで、死者の世界に思えた下北半島が、いっぺんに人間臭さを取り戻したように感じられた。

恐山の麓を回り込むように北上して、大畑フェリーターミナルに到着したのは、日付が変わる5分前の23時55分だった。
横浜を出発してから13時間25分。
「LAPUTA」は、見事に、僕らを本州の北端まで運んでくれたのである。



運転手さんたちは乗船手続きのために、簡素な造りの事務室に向かい、僕らは、午前1時過ぎに予定された乗船時刻まで自由行動となった。

車外に出ると、冷たく湿った海風が頬を叩く。
防波堤の上に登ると、真っ黒な津軽海峡が足元から果てしなく広がった。
打ち寄せる波の音に耳を傾けながら、ついに最果てまで来たのかと思う。
大畑から、本州最北端の大間岬までは、僅か30kmである。



午前1時を回ると、黒々と張られた幕のように深い闇の彼方に、ぽつんと光点が現れ、ゆっくりと近づいて来た。
低いエンジン音があたりの空気を揺るがし、見上げるような船の輪郭が浮かび上がる。
僕たちを北海道まで運んでくれる、東日本フェリーの「びなす」である。

バスに戻って見ていると、まずは室蘭から運ばれてきた車が船倉から吐き出され、続いてバイク、乗用車の順で乗船が開始された。
青森港ほどではないのだろうが、駐車場で待機している車はかなりの台数である。
総排水量3472tで、さほど大型船には見えない「びなす」丸に、魔法のように途切れることなく車が吸い込まれて行くのを眺めながら、

「全部、乗り切れるんでしょうかねえ」

と、顔見知りになった通路の向かい側に座る男性と顔を見合わせた。

乗用車が半分ほど積載された午前2時過ぎになって、ようやく、待機場の係員が「LAPUTA」に向かってライトを振り回し、誘導を始めた。
後ろに数台のトラックが続き、それから再び乗用車を乗せて、バランスを取るようである。









バスを降り、車両甲板の狭い階段で客室に上がると、驚いたことに、廊下もラウンジも毛布を敷いて横になっている人々で溢れ返り、歩くのにも苦労する。

「あっちがあいていますから」

と指をさす船員さんに案内されたのは、どうやら食堂か喫茶室のようで、カウンターやソファーの間の床にびっしりと毛布が敷き詰められ、先客が胡散臭そうに僕らを見上げる。
座敷や桟敷席を見つけるどころの騒ぎではない。
1人1人が身体を横たえる隙間を見つけるのがやっとであった。

「LAPUTA」に戻って安楽な座席で眠りたいと思うが、積載された車内で過ごすことは禁じられている。

床に寝るという経験は初めてだったが、エンジン音や小刻みな振動が徐々に大きくなる気配が身体に伝わってきて、出航したことがわかった。
さすがに疲れたのか、その音を子守唄のように聞きながら、いつしか深い眠りの中に吸い込まれた。

目を覚ますと、窓の外がすっかり明るくなっていた。
時計の針は、午前6時を指している。
僅か3時間半だったが、ぐっすりと眠れたらしく、意外と頭の中は冴えている。
揺れが少ない平穏な航海だったようだ。





眠りこんでいる人たちを踏みつけないよう気をつけながら、甲板に出てみると、鮮やかな緑色に覆われた陸地が見えた。
内地の燃えるような色合いと比べれば、どこか優しい印象である。
海鳥の群れが波間に揺れている。
これが北海道か、と思うと、寝不足など気にならない。
北海道には何度も渡ったことがあるけれども、今回ほど時間をかけて来たことはなかっただけに、感慨もひとしおだった。

「寒いなあ」

と、聞き覚えのある声がしたので振り向くと、「LAPUTA」の客たちが身を震わせながら足踏みをしている。

「夏の北海道って、こんなに寒かったっけ?」
「困ったなあ、セーターも何にも持ってきてないよ」

海峡を渡ってくる潮風に吹かれながら、険しい崖がそそり立つ地球岬をぐるりと回ると、ドックのクレーンや工場の煙突が林立する室蘭の街が見えてきた。

入港の案内がスピーカーから流れ、車両甲板に降りると、空調用のエンジンをつけっ放しにした冷凍トラックの排気ガスが充満している。
「LAPUTA」に乗車して座席に身を沈めると、快適さに溜め息が出た。

「やっぱりバスの方がいいなあ」

これは、乗客全員の一致した感想だったと思う。
例えば、横浜を夜に出て車内で夜を過ごし、朝にフェリーを利用する行程であれば、少なくとも床で眠らずに済んだのかもしれない。

8月14日に折り返した復路では、室蘭-青森航路を使ったらしい。
僕は利用しなかったのだが、札幌発が20時30分で、室蘭出航が23時30分。
6327tの大型船「びるたす」の枡席には「LAPUTA」の乗客専用の区画が設けられ、ゆったり快適な一夜を過ごした上にシャワーも利用できて、青森入港は翌朝6時25分だったそうである。
仙台を過ぎた村田JCT付近で若干流れが滞った以外には、目立った渋滞もなく、横浜到着は8月15日の19時30分だったという。

この時期の旅は運次第とはわかっているものの、羨ましいの一語に尽きる。

立錐の余地すらなかった往路の「びなす」でも、運転手さんたちには船室が与えられていたとのことで、お元気そうに見受けられたから安心した。
運転手さんたちまで寝不足になっては大変である。



船倉から外を伺うことはできないが、鈍い接岸の衝撃がバスを微かに揺らした。
定刻6時50分に船倉の扉が開けられ、差し込んできた朝の光が車両甲板を照らし出す。

両側を係員に見守られながら狭い下船口を通り抜け、「LAPUTA」は遂に北の大地へと上陸した。
フェリーターミナルに掲げられた「ようこそ北海道へ」の文字が眩しかった。

山に挟まれた室蘭市街を室蘭新道でショートカットし、国道36号線で海岸沿いに北へ進む。
北海道らしい広々と真っ直ぐな道路で僕らを向かえてくれたのは、早起きの客を乗せて走る路線バスだった。

正面の表示幕に「非営業」と掲げて通り過ぎるバスが見えた。

「『回送』よりも、絶対に乗せないぞという意思が固そうだね」

と、みんなで大笑いになった。



7時20分に室蘭登別ICから道央自動車道に入った。
ここから、およそ100km彼方の札幌まで、もうひと息である。

空は、今にも泣き出しそうな雲が覆っている。
ハイウェイを行き交う車は少なく、右手に太平洋を望みながらのドライブは爽快である。

「17℃」と表示された標識が見える。
横浜と比べて、およそ半分の気温まで下がっていることになる。
これ程、著しい気温の変動を体感できる高速バスに乗ったのは初めてだった。



苫小牧の手前の樽前SAで、最後の休憩時間となった。
白く塗られた瀟洒な建物の中に、トイレと自販機が並んでいるだけの設備だったから、

「これがサービスエリア?」

とがっくりしたのは、昨晩の紫波SAの比ではない。
どうも、北へ来る程サービスエリアの規模が小さくなる。

僕は、昨夜に配られたカップラーメンを朝食代わりにして空腹を凌いだ。
壮大な旅と言う割には、北へ進むに従って食事が侘しくなるが、あと1時間半程度で札幌に着くことがわかっているので、それほどの不満はない。
先が読めない道中で食事の確保に苦労した昨日に比べれば、雲泥の差である。
札幌では、せいぜい北の幸を賞味しようと思う。

苫小牧、千歳、恵庭と進んでいくうちに、ハイウェイの周囲にびっしりと繁っていた原生林が切り開かれ、赤土が剥き出しになって住宅地が増えていく。

「札幌 ○○km」

と書かれた標識の数字がどんどん減っていくに従って、車窓が賑わってくるのは、昨日と逆である。
旅の終わりが近いことがひしひしと胸に迫り、安堵感よりも名残惜しさがこみ上げてきた。

札幌南料金所をくぐると、前方に何棟も建ち並んだ高層アパート群が迫り、8時40分に、「LAPUTA」は大谷地ICから一般道に降り立った。

道路が碁盤目のように整備された市街地を、車の波を掻き分けるように進んでいく。
林立するビルの谷間にぽっかりと開いた敷地に、木立ちに囲まれた時計台が姿を現す頃、横浜の高速バスセンターから電話がかかり、札幌駅前のすぐ近所まで来ていることが報告された。
遅れもなく、無事の到着を目前にして、応答するHさんの声も心なしか明るい。
本当に御苦労様でした、と、MさんとHさんに対する感謝の念でいっぱいである。

次々と長距離バスが出入りする札幌駅前バスターミナルの前を左折し、終点の札幌東急ホテル前に横付けされたのは、予定より46分も早い9時04分であった。

乗降口のステップを降り、自分の足が踏みしめているのは本当に札幌の土なんだぞ、と実感するまでには、少々時間がかかった。



「リテ・ラトバリタ・ウルス、アリアロス・バル・ネトリール」

映画「天空の城ラピュタ」では、この呪文を唱えると眠りについていたラピュタが目覚め、飛行石が活性化して、地上に降りた王家の人間を城へ導いた。

振り返れば、ガリバー旅行記や宮崎駿の映画に登場する天空の城と同じ名を持つ、横浜ナンバーのバスが、札幌の街角に止まっている。
飛行石に導かれて降臨したと言ってもおかしくないほど、それは、突飛もない光景に感じられたのである。

残念ながら、横浜-札幌直通バスの運行は、これが最後だった。
首都圏と北海道を結ぶ、夢のような直通バスが走ることは、二度となかったのである。

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