関越高速バス池袋-金沢線で行く北陸の旅~加えて横浜-金沢ラピュータ号・松本-金沢特急バスなど~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

東京・池袋から金沢まで直行する高速バスが開業したのは、北陸自動車道が新潟と富山の県境を隔てる峻険・親不知付近の難工事を終えて、ようやく全通した直後の、昭和63年12月のことである。



当時、この路線には愛称がなかった。

3年前の昭和60年に、池袋と新潟を結ぶ「関越高速バス」が西武バスと新潟交通バス・越後交通バスの共同運行で開業し、昭和61年には、西武バスと富山地方鉄道バスが、池袋と富山を結ぶ高速バスを登場させている。
金沢行きの高速バスも、池袋を起点にして西武バスと北陸鉄道バスが運行する、何かと共通項の多い路線であったから、僕は勝手に「関越高速バス 池袋-金沢線」と呼んでいた。
平成元年にはJRバス関東と西日本JRバスが加わり、平成18年には起終点を新宿に変更、平成19年には北陸鉄道バスが共同運行から離脱して、まるで別物のような運行形態の路線に変貌した上で「金沢エクスプレス」と名乗ることになる。



営業距離506kmという長距離を、7時間半もかけて走破する路線でありながら、夜行便だけではなく昼行便が設定されている点も、新潟線や富山線と同じであった。

当時、西武バスが絡む高速バスは、北陸方面だけではなく、池袋と津や伊勢を結ぶ路線も、池袋と大津を結ぶ路線も、かなりの長距離にも関わらず昼行便があって、日中の車窓を大いに堪能させてくれたものである。
2泊で折り返す夜行便だけの運行ではなく、乗務員や車両を昼間に折り返させて1泊の運用で済ませた方が、効率が良いと判断したのであろうか。
しかも、池袋-金沢線では、当初は1往復だった昼行便が、翌年に3往復へ増えている。

本州の中央部に連なる飛騨山脈に遮られて、北陸地方は、首都圏との直通交通機関に恵まれなかった。
鉄道を使って東京から金沢に行くためには、東海道新幹線で米原まで行き、北陸本線に乗り換えるか、はたまた上越新幹線の長岡で乗り換えるより他に方法はなかったのである。
航空機も、最寄りの小松空港から金沢市内までの距離が長く、リムジンバスで1時間以上を要していた。
かつては、上野から長野経由金沢行き特急「白山」や、夜行寝台特急「北陸」、夜行急行「能登」などの直通列車が、のんびりと走っていた。
「白山」は平成10年の長野新幹線開業と同時に廃止され、「北陸」と「能登」も、平成23年の3月に消えてしまったが、時間がかかっても、乗り換えのない手段を選ぶ需要が、金沢には厳然と残っていた。

待ってました、とばかりに、僕が待望の乗車を果たしたのは、池袋を午前9時に発車する便である。

目の前に現れたバスの容姿を見て、少しばかり意外に感じた。
東京から関越道を通って北陸へ向かう高速バスは、当時、頑なまでに3軸車の導入に拘っていた。
新潟線で目にした日産ディーゼル・スペースウィングの武骨なスタイルは、アメリカのグレイハウンドバスを想起させて、旅の楽しさを一段とかき立てる思いがしたものである。






その後、「北陸道高速バス」京都-金沢線に参入した京阪バスも、三菱ふそうの3軸スーパーハイデッカーを投入し、難波と富山を結ぶ高速バスを富山地鉄と運行する南海電鉄バスまでが、関越高速バスと同じスペースウィングを使っていた。
実現は遅れたものの、大阪-金沢間の高速路線を計画していた阪急バスも、京阪バスと同じく三菱ふそう3軸車を用意するという徹底ぶりであったから、後発路線の関越高速バス金沢線も、てっきり3軸車だと思っていたのである。
関越高速バス金沢線に参入した西武バスや北陸鉄道バスは、新潟や富山線と同じスペースウィングを採用していた。

同時に参入したJRバスグループも三菱3軸車を調達したと聞いていたのだが、僕が予約した池袋9時発の昼行便を担当するJRバス関東の車両は、普通の2軸スーパーハイデッカーだったので、拍子抜けしたのである。


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乗ってしまえば、3軸車も2軸車も乗り心地にそれほど差異があるわけではない。
きちんと目的地に運んでもらえるならば、どのような車種であろうが構わないではないかと、正常な乗客だったら気にもしないことであろう。

池袋を定刻に発った金沢行きの車内では、大いに車窓を楽しんだ。
当時は、上信越自動車道が開通しておらず、関越自動車道で長岡を回るルートである。

前半部分の関東平野は、いつも冗長に感じてしまうのだが、谷川連峰を1万メートルを超える関越トンネルで抜ける迫力は、3年前に乗車した関越高速バス新潟線で体験した時と同じく、目を見張らされた。
本州を縦に二分する脊梁山脈を越え、米どころの越後平野を快走して日本海側に出れば、柏崎付近の波打ち際を走る区間では、黒々とうねる波の太平洋とは明らかに異なる暗い色調に、遠くまで来たものだとの思いを強くした。

富山線に乗車した時には未開通だった、名立谷浜ICと朝日ICの間を遮る親不知の難所は、いったいどのように道を造ったのかと身を乗り出した。
海に張り出した真新しい高架橋が姿を現し、かつての難所などなかったかのように一気呵成に走り抜けてしまう構造には、心底度肝を抜かれたのである。





厳しくも荒々しい地形をところどころのアクセントにしながら、関東平野、越後平野、砺波平野といった、実り豊かで穏やかな田園風景が次々と展開される様は、出来の良い芝居を観賞しているようで、欠伸をする暇すらない。

源平合戦で平家の軍勢が追い落とされたという断崖はどのあたりにあるのだろうか、と思いをめぐらせる倶利伽羅峠が、この路線最後の見所だった。
鉄道では、線路際まで山裾が迫り、古びたトンネルをくぐったり、峠越えの雰囲気が強く醸し出されている区間である。
北陸道で超える加越の国境は、なだらかな曲線を描きながら難なく越えてしまう。
大して地形の険しさを感じさせないところが、少しばかり意外だった。
道幅は広いし、自動車が鉄道より勾配に強いことも、あっけなく感じる理由かもしれない。

黄昏が迫る加賀平野が車窓に映り出した時には、ついに高速バスでここまで来られる時代になったのか、という感慨がこみ上げてきた。

北陸道の金沢東ICと金沢西ICは、一般的なインターとは異なる構造で、美しい曲線を四方に描く出入路は見られない。
高架の本線と平行して側道を出入りする直線の出入口があるだけの、都市高速のような素っ気なさである。
7時間以上にも及ぶ高速走行を終えて、側道に降りた時には、簡素なインターの造りと相まって、誠に呆気ない終幕のように感じた。
金沢駅前に降り立てば、航空機も鉄道も使わずに金沢の地を踏みしめていることが、とても不思議なことのように思えてならなかった。

到着は午後の4時半であるから、車中で、昼の時間の大半が費やされてしまった訳である。
それでも、全く飽きが来ない、心躍る7時間半だった。



百万石の城下町である金沢は、僕にとって、亡き父と母の思い出につながる街である。

父は、信州飯田の農家の次男として生まれ、医学部を志して金沢の大学へ進学した。
大学院在学中に見合いをして、長野市近郊の造り酒屋の次女だった母と結婚し、金沢で僕や弟が生まれた。

後になって、母の実家の知人から、父と母が結婚する時には小型トラックに嫁入り道具を満載して、あんたのお母さんを乗っけて長野から金沢まで走ったんだよ、と聞かされたものだった。
母は、自動車免許を取得してから1度もハンドルを握ったことのない完璧なペーパードライバーで、車酔いをしやすかったから、大丈夫だったのだろうかと心配になったものである。
母が、どのような経路をたどってトラックの助手席に乗って金沢に行ったのかと考えることは、なかなか楽しい。
長野から国道18号線で直江津に出るのが、最もオーソドックスなコースであるが、母の実家は長野市より西方にあったから、白馬に出て大糸線沿いに糸魚川へ出た可能性も否定できない。

小・中学校の頃は、何かと金沢へ連れて行ってもらった記憶がある。
大学生になって1人旅をするようになっても、自然と金沢へ足が向くことが多かった。
北陸道の全線開通が遅れ、鉄道または飛行機で往復するより他に手段がない時代が続いていた。
昭和62年に開業した名古屋と金沢を結ぶ「北陸道特急バス」や、京都と金沢を結ぶ「北陸ハイウェイバス」を使って、西回りで金沢へ向かったこともある。



家族揃って長野から金沢に行く場合には、特急「白山」に何度もお世話になった。
父が1人で行く時には、長野経由で上野と福井を結んでいた寝台急行「越前」を、よく利用していたようである。
長野の発着時刻が深夜の午前2時から3時前後だったから、父は、いつも僕たちが寝静まっている間に出かけ、たくさんのお土産を抱えて未明に帰ってきてくれたのである。
一緒に連れて行って貰えないことは恨めしかったが、朝に目覚めれば、少し旅疲れした表情だったものの、父に会えるのが嬉しかった。
食卓に並べられた土産の「鱒の寿司」や、老舗の「森八」の銘菓「長生殿」、園八の「あんころ餅」を食べることも、無上の楽しみだった。





平成元年7月には、横浜から東名・名神高速を経て、米原JCTから北陸道へと西回りで走る「ラピュータ」号が登場した。

横浜から金沢へ行くには、長岡よりも、米原経由の方が近いのか、と、少しばかり驚いたものだったが、営業距離は583.7kmと、池袋発着の関越高速バスよりも長い。

僕は、開業直後の横4列シートだった時代に、金沢まで初めての夜行バスの旅を経験している。
幸い、隣席に相客は来なかったので、のびのびとくつろいだ夜を過ごすことができた。
夜の帳が開き切らない午前6時前の金沢駅は、雨が降りそぼっていた。
早朝の金沢に降り立ち、節々が痛む身体を伸ばしながら、夜行急行「越前」を降りた父も、この光景を見たのだろうかと、感慨にふけったものだった。



平成4年の3月に、横3列シートに改造された「ラピュータ」号の、昼の上り便に乗った時のことも忘れ難い。
金沢駅前を、昼過ぎの13時10分に発車したバスは、8時間40分かけて横浜まで走る予定だった。
金沢から西側の北陸道の車窓風景には、名古屋から金沢まで「北陸道特急バス」に乗った時以来、虜になっていた。
松任から小松付近を延々と波打ち際を走る区間や、遙か下方に敦賀湾を見下ろしながら木ノ芽峠を越えていくあたりの眺望は、何度通っても心がはずんだものだった。

最初に休憩した南条SAを発車した直後に、1号車の乗客が取り残されたとの連絡が入り、僕たちが乗る2号車が、次の今庄ICから引き返すこととなった。
引き返すと一口で言っても、方向転換すれば済む一般道ではないから、なかなか一筋縄ではいかないのである。
下り線を、南条SAを横目に見ながら通り過ぎて武生ICまで戻り、料金所の外でUターンしてから、再び上り線を走らなければならない。

南条SAで恐縮しながら乗り込んできたのは、品の良さそうなお婆さんだった。
なかなか得がたい体験をしたと思っている。
2号車の乗客は少なくて、1号車が引き返せばいいじゃないか、などと文句を言う人は誰もいなかった。
災難でしたね、という温かい笑顔でお婆さんを迎える車内の雰囲気に、何となくホッとした。
このようなハプニングがあるのも高速バスならではだよねえ、などという声も聞こえる。
僕も含めて、のんびりとバス旅を楽しむ人ばかりだったのである。



平成4年には八王子発着の夜行バスや、千葉を起終点にしてTDL・西船橋を経由する夜行バス、平成13年にはさいたま新都心や群馬県内を発着する夜行バス、平成17年には東京駅から関越・上信越道を経由する夜行バス「ドリーム金沢」号など、首都圏から続々と、金沢に向けての高速バス路線が開業していった。
時刻表で新路線を見つけるたびに、僕は暇を見つけては片っ端から乗りに出かけた。



もちろん、自分が生まれた街のたたずまいが好きだった、という理由もある。
加えて、金沢は、亡き父と母が出逢った青春の街、という思い入れもあった。
北陸の古都を何度でも訪れて、若かりし父と母の足跡に触れてみたかったのだと思う。

父は、金沢の街が大好きだった。
長野とくらべて、金沢の便利なところを幾つも並べ挙げるのが、父の口癖だった。
門前町より城下町が好みという理由もあったようだ。

普段の父は、子供に優しかったけれど、癇癪持ちでもあった。
いったん怒り出すと、それだけで僕らは泣きべそをかいてしまうくらいに恐かった。
夫婦喧嘩をしても、母はいつもやり込められて黙ってしまうのが常だった。

夜中に、患者さんから往診の依頼の電話がかかってくると、

「おめえ、今、何時だと思ってやがるんだ!」

と、名古屋弁に似た南信の訛りを丸出しにして、受話器に向かって怒鳴っているところを見たこともある。

「まあ、夜中の往診は、保険診療外のお金が入ってくるからな」

などとぶつぶつ呟きながら、車を自分で運転して出かけていったものだった。
僕たち子供には、

「医者になりゃ、金も入るし、嫁さんにも苦労しねえぞ。日本がまた戦争することになったって、医者を軍人にとることはねえからな」

と言うのが口癖だった。
政府を全く信用せず、政治家を見れば口汚く罵り続けていた。

「あいつらは、国民のことなんか、これっぽっちも思ってねえ。何かあれば、すぐに国民を裏切るはずなんだ。必要とあれば、戦争だって始めるに違いねえさ」

僕は、そんな父に表立って逆らうことはできなかったけれど、内心では反発し続けていた。
子供心にも、成金趣味で、他の職業の人間を見下したような態度が目立ち、医者などやっていてはいけない人種に映ったものだった。
日本がまた戦争を始めるなどと、僕には、発想が時代遅れとしか思えなかった。
中学・高校生と成長するにつれ、絶対、父みたいにはならないぞ、と心に決めていた。

昭和59年に入った頃から、父の体調がおかしくなり始めた。
顔や足がむくんで、何をするにも苦しそうに息をついていた。
母も僕や弟も、心配して病院を受診するように勧めたけれど、頑として首を縦に振らなかった。

3月に、僕は大学受験を失敗して浪人が決まった。
どれだけ怒られるかと覚悟していたけれど、不思議なことに、あまり激しく叱責された記憶がない。
ただ、どこか疲れたような、悲しげな父の顔だけが、今でも脳裏に残っている。

僕が、東京の予備校に入学するために出発する前の夜のことだった。
父は、診察室に僕だけを招き入れた。
分厚い封筒を取り出しながら、

「いいか、ここにお金が入っている。お母さんには内緒だけれど、お前だけに教えるからな」
「わかったけど、お父さん、早く病院へ行って欲しいんだ」
「大丈夫だ。東京で頑張れよ」

それが、僕と父の最後の会話になった。
どうして、あの時、もっと強く言わなかったのかと思う。
浪人するという後ろめたさが、遠慮につながってしまったのだろうか。
父が僕を見つめる眼差しは、久しぶりに、有無を言わせない厳しい光を帯びていた。

東京に行ってから、母から、父がますます弱ってきたから、飯田の実家から祖母を呼んだ、という連絡を受けた。

5月15日の夜、予備校の寮にいた僕に、母から電話がかかっていると寮長が呼びに来た。

『こちら、○○病院です。しばらくお待ち下さい──』

予想に反して、聞き慣れない女性の声が受話器から聞こえた。
最初は、良かった、と安心した。
父がようやく病院に行ってくれたのか、と思ったのだ。
しかし、替わった母の声は、涙声で緊迫していた。
父が診療中に倒れて救急搬送され、医師の診立てでは、いつ死んでもおかしくないと言われたというのだ。
医師から病状の説明を受けた母は、その場で気を失ってしまったと、後に聞いた。

新幹線も高速道路もなかった時代である。
長野行きの在来線特急「あさま」の最終は、20時に発車した後だった。
僕は、23時59分発長野行きの夜行急行「妙高」に乗るために、上野駅に駆けつけた。
長野到着は翌朝の5時前になる。



それより他に手段がないものと思い込んでいたところを、連絡を受けた東京在住の叔父が、上野まで車で僕を迎えに来てくれた。
今から思うと、広大な上野駅構内で、よく僕を見つけてくれたものだと思う。

「最初から俺に電話すればよかったんだ」

一瞬、僕を睨みつけてから、叔父の車は飛ばしに飛ばした。
関越道を藤岡ICで下り、ひたすら国道18号線を走る以外に信州には行けなかった時代である。

上信国境にそそり立つ碓氷峠では、バイパスが混んでいるとのことで、九十九折りの旧道を疾走した。
見通しの悪い急カーブに差しかかると、叔父はヘッドライトを一瞬消しては、対向車の有無を確かめていた。
ライトを落とせば、細く曲がりくねった山道を囲む山々が、不気味な闇に塗り潰されている。
心細いけれども、この道こそ、かつては碓氷峠を越える唯一の幹線道路で、東京と長野を結んでいた長距離バス「信濃路」号も走っていたと考えれば、少しは不安な気持ちが慰められる。
こんな悪路をよくも、と思うような勢いで、カーブで大きく車体を傾けながら、バスが旧道を駆け上がる動画を見たことがあるが、叔父の運転も負けず劣らず果敢だった。



峠を登り切って気が緩んだのか、軽井沢で中央分離帯に危うく衝突しそうになりながらも、父が入院している長野市内の病院に滑り込んだのは、深夜の3時過ぎだった。
上野駅を出てから4時間弱、半分以上が下道にもかかわらず、よく着いたものだと思う。

病院のベッドに横たわる父の顔には、管が巻きつけられ、昏睡状態だった。

診察中に意識が朦朧となり、呼吸困難に陥った父は、それでも残っていた患者さんの診察を全て終わらせ、

「いいか、医院を閉めて職員を帰せ。それから救急車で俺を○○病院へ連れて行け。救急車に、ここに近づいたら必ずサイレンを消すように言うんだぞ。近所の迷惑にならないようにな」

と、事細かく母に指示してから、意識を失ったという。

昭和59年5月16日午前10時、父は意識が戻らないまま、息を引き取った。

不思議と涙は出なかった。
あまりに予想外の事態に対するショックで呆然としていたのと、長男として、喪主となって通夜や告別式を仕切らなければならない重圧感に、心が押し潰されていたのだろうと思う。
父に教えられていたお金は、母に渡して、葬儀費用に役立った。

告別式には、大学時代の恩師や同窓生、医師会や製薬会社の方々、そして、たくさんの患者さんが来て下さった。

「先生はねえ、そりゃあ、口は悪かったけど、私たち貧乏人から金をとらなかったよねえ」
「そうそう、窓口でも、自己負担分は払わなくていいって言ってくれたこともあったし」
「私のとこなんか、夜中に、ただで往診に来てくれたんだよ。山奥なのにねえ。お金渡そうとしても、絶対に受け取らなかった」

患者さんたちの言葉で、父に対するイメージが、ガラリと変わった瞬間だった。

父と同じ道を歩みたい。
父のようになりたい──

心から、そう思った。

全てが終わって、火葬場に父の亡骸を入れた後のことである。
建物の外から見上げた煙突から、黒い煙がポッポッと立ち昇るのを見上げながら、不意に、涙が止まらなくなった。
もう二度と父に会えないのだ、という寂寥感が、いきなりこみ上げてきたのだ。

医者になれって言ってたくせに、なる前に死んじゃうなんてずるいよ。
医者になってから、お父さんと、たくさんたくさん、話してみたかったのに──



それから7ヶ月が過ぎた昭和59年12月に、新宿と飯田を結ぶ中央高速バスが開業して、父の故郷への交通の便が、それまでに比して遥かに便利になった。
信州で最初に開業した高速バスである。

父の死後、初めて、僕は、中央高速バスに乗って父の実家へ出かけていった。
高尾から大菩薩、小仏、笹子と連なる山越えは、新宿と富士五湖や甲府を結ぶ高速バスで馴染みの風景だった。
しかし、甲府盆地から八ヶ岳山麓に向かって高度を詰めていく長い急勾配を登り切り、当時の日本の高速道路最高地点を仰ぎながら信州に足を踏み入れていく車窓に、僕の目は釘付けだった。
窓外を櫛の歯を引くように過ぎ去る木々の合間から諏訪湖を見下ろし、赤石山脈を遙かに見やりながら、木曽山脈の山麓を貫くハイウェイで伊那谷を走り込んでいけば、次々と現れる懐かしい故郷の情景に、胸がいっぱいになった。

子供の頃にはいつも父と一緒に出かけた街だったけれど、こうして独りで訪ねて行くのは初めてのことだった。
子供時代からの脱皮を余儀なくされて、大人への階段を昇っていかざるを得ない自分のことを、容赦のない時の流れと共に、僕は車内で噛みしめた。

父と行った時と同じく、親戚は暖かく歓待してくれた。
もち米を炊いてから、円盤状に固めて串に刺し、炭火で炙りながら、味噌ダレをとろとろと塗っていく、父も僕も大好物だった五平餅を齧りながら、父の思い出話に花が咲いた。



父が、最初は文系の大学に進学し、学徒動員で召集されたことや、兵役中に結核を患って手術を受け、片肺になっていたことを知った。
僕ら家族を、あちこち旅行に連れて行ってくれながら、目的地では決して歩いて散策しようとはしなかった父の姿が思い浮かんだ。
単なるズボラだと思っていたのだが、まさか、片肺だったとは考えもしなかったから、心が張り裂けそうになった。

「知りませんでした。父は一言も、そんなこと、僕たちに言いませんでしたから」
「俺たちにも、絶対、お母さんや子供には言うなって口止めしてたよ。学徒動員だから、軍隊ではかなりいじめられたみたいだ。戦争から帰ってきて、結核で何年も療養して、こんな身体じゃあ農業はできないからって、一念発起して医者になってな。弱い身体だったのに、歳をとってからできた、あんたら子供には精一杯サービスしてねえ」

その時に見せられたのが、父が出征する際に、恩師に宛てて書き残した遺書だった。
天皇陛下のためにお役に立てることを嬉しく思い、鬼畜米英を倒すため、この命をお国のために捧げます、という決意が記された、まるで戦争ドラマに出てくるような、几帳面な文字で書かれた原稿用紙5枚ほどの肉筆の遺書だった。

海行かば 水漬く屍と 知りながら
いざ馳せゆかん 大君のため

という自作の歌で締めくくられている。

言葉を失った。
政府や天皇陛下が大嫌いだった父に、そのような過去があったとは、すぐには信じられなかった。

「金沢の大学へ行ってからも、先生が驚くくらい、身をすり減らして勉強したみたいだよ。でも、何かと暇を作って、マメに飯田へ帰ってきたもんだった。飯田から鈍行で何時間もかけて松本に出て、急行『白馬』ってのが松本から金沢まで走っていたから、それに乗ったらしいよ」



平成18年の秋、僕は、飯田バスセンターを昼過ぎに発車する、松本行き「みすずハイウェイバス」に乗っていた。

天竜川の河岸段丘に発達した飯田市街は、木曽山脈から流れ落ちる支流に深く刻まれた起伏の激しい地形が特徴的である。
幼い頃に父の運転する車で何度も行き来した、見覚えのある街のたたずまいを見やりながら、こみ上げてくる懐かしさに胸がつまった。
飯田ICは斜面の途中に設けられているから、一面に広がるリンゴ畑の向こうに、赤石山脈を背景にした市街地を一望できる。

中央自動車道は、木曽山脈の山麓を北上していく。
右手にきらめく天竜川に沿って、山あいに広がる伊那谷を見下ろしながらの、快適な高速クルージングが続く。




愛知県の豊橋から伊那谷の北端の辰野まで、天竜川沿いに敷かれた飯田線は、2~3kmおきに細かく駅が設けられ、地形に逆らわないよう曲がりくねって敷設された昔のままの線形が残っている。
飯田と松本の間は3~4時間近くもかかるから、少しばかり忍耐力を要するローカル線だ。
高速バスならば、わずか2時間足らずで走破してしまう。

行き交う人々で賑わう松本駅舎とはロータリーを挟んだ反対側のスーパーの1階にあるバスターミナルから、僕は金沢行き特急バスに乗り継いだ。

松本から大糸線経由で糸魚川に出て、金沢までおよそ5時間をかけて走っていた急行列車「白馬」を彷彿とさせる路線である。
平成11年から、冬季を除く季節限定で運行されていた。
残念ながら、平成19年の運行が最後になってしまったが、現時点では唯一、信州と金沢を直通していた長距離バスだったのである。

実際に急行「白馬」が松本と金沢を結んで走っていたのは、昭和46年から57年にかけてのことであるから、父の学生時代とは時期がずれているけれど、父が、金沢と飯田の往復に大糸線を使っていたのは確かである。
若かりし父の足跡をたどってみたくて、僕は、わざわざ飯田から高速バスに乗ってみたのだ。



父の時代のように松本から大糸線沿いに北上するのではなく、飛騨山脈を真っ直ぐに貫く道路を経由する。
所要時間は、「白馬」より1時間ほど短かい、4時間の予定だった。
父に言わせれば、関係ない、と苦笑いされそうな、新しく開かれた道なのである。

金沢行きのバスは、松本バスターミナルを夕方の16時に発車した。
市街地を抜けて、刈り入れが済んだりんご畑や水田が広がる安曇野を、特急バスは野麦街道(国道158号線)で西へ向かう。
道路の脇に鄙びた線路が敷かれ、2両編成の松本電鉄の電車がのんびりと行き交う。
正面に屏風のように立ちはだかる飛弾山脈に向かって、バスは、ひたすら走りこんでいく。




松本電鉄線の終点である新島々駅を過ぎると、そこで平地は尽きる。
梓川が削る峡谷に沿って、切り立った山々の合間を行く崖っぷちの道に差し掛かる。
ダムが川をせき止めた人造湖のほとりを、すれ違いにも苦労するような狭いトンネルや洞門が断続する。
なかなか交通量が多く、こちらの図体もでかいから、乗用車とのすれ違いでは優越感にひたれるが、バスやトラックがこちらの窓すれすれに離合する時には、思わず手に汗を握る。

陽ざしが山にさえぎられて、晩秋らしい暗がりが車窓を覆い始めた。
沢渡まで登ってくれば、梓川は、白砂の河原の中を流れる優しげなせせらぎに姿を変える。
色褪せた紅葉が繁る木立ちと相まって、心が和む。

上高地へ向かう釜トンネルの入口にある三差路で、左に舵を切ると、見上げれば首が痛くなるほどの急傾斜でそびえる、屏風のような山肌を、バスはエンジンを轟かせながら登り始めた。
安房峠を越える九十九折りの坂道の途中に、突然、近代的なトンネルがポッカリと口を開ける。
平成9年12月に開通したばかりの、中部縦貫道路安房トンネルである。
地質調査から33年、着工から18年の歳月を経て貫通した、北アルプスを貫く全長4370mのトンネルだ。



焼岳火山群の活火山であるアカンダナ山の高温帯をくり抜く、大変な難工事だったと聞く。
平成7年2月11日には、火山性ガスを含む水蒸気爆発が起き、作業員4人が犠牲となった。
同時に土砂崩れと雪崩が発生し、梓川になだれ込んだ土砂は6000立方メートルにも及び、建設中だった陸橋も破壊された。
そのような悲劇の歴史を顧みる暇もなく、特急バスは、わずか5分で岐阜県に抜けてしまう。

巨大な自然に対して、日本人は、真っ向から挑んだ。
険しい山塊が折り重なる信州の交通網が、数々の高規格道路や新幹線などで、ようやく便利になってきたのも、2度と貧しく悲惨な生活を送りたくない、と開拓を続けてきた先人たちの、必死の思いがあったからである。
信州に生まれた人々は、どこへ行くにも、立ちはだかる山々を、歯を食いしばりながら越えていかなければならなかった。

戦後70年、日本人は、本当に頑張ってきたと思う。

父の短い人生も、息を詰めて走りっぱなしだった。

暮れなずむ杉林の間を抜ける国道471号線と国道41号線で、砺波平野に向けて下っていきながら、僕は、初めて、父の生き方を理解することができたように感じていた。
政治や人生の価値観に対する見方は、父と意見を異にする点も少なくない。
けれども、今ならば、父の考えを理解し、受け入れることができる。

国のために召集され、純粋な思いで、身体を壊してまで戦った父。
文系の学生だけが召集されて、理系学生は召集されずに済んだという不公平さも、目の当たりにしたのであろう。
終戦で価値観がガラリと変わり、国も人々も言うことが正反対になった風潮に、父は、きっと裏切られたように感じたことであろう。
それが、政府や人間への強い不信感につながったのは、充分にあり得ることだと思う。

今後、どんな社会になろうとも、たとえ再び戦争が起きようとも、自分自身の力で生き抜いてみせる──

父の戦後の壮絶な生き様は、まさに、そんな決意を体現するかのようであった。

一方で、片肺のハンディのことも、軍隊に召集されたことも、父は、家族に一言も言わなかった。
僕らを心配させたくないという、思いやりだったのだろうか。

患者さんからお金を受け取らなかった優しさを、父は、最後まで隠し続けていた。
古風な価値観を持っていた父の、照れだったのではないかと思えば、微笑ましい。

父の死後、僕が、どうして何回も何回も金沢に出かけたのか、その理由がようやくわかった気がした。
父の足跡をたどりながら、何とかして父の考えや生き方を理解したい、という思いが、僕を金沢に繰り返し導いたのだ。

学生だった父は、故郷への往復で、飯田線から大糸線、北陸本線の車窓を眺めながら、どのような思いで車中を過ごしていたのか。
それは、金沢へ向かう数々の高速バスの車内で、僕が考えていたことと、さほど異なってはいなかったはずである。
そう考えると、父との距離が、急速に近づいたような気がした。

松本から金沢に向かう特急バスの、最後の1時間は、北陸自動車道富山ICから金沢東ICまでの、見違えるような高速走行だった。
バスは、滑るように、闇をついて走り続ける。
星のように散りばめられた灯が、墨を塗り潰したような窓外を流れてゆく。
暗い車窓を眺めながら、僕は、ハッキリと確信していた。

金沢へ向かう幾多の高速バスに乗りながら、僕は、ずっと、父と語り合っていたのである。
 


 

 

 

 

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