瀬戸内の渡し守(4)~島から島へと本四を結ぶしまなみライナーの旅~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

平成17年の真夏の夜に東京を発ち、翌朝今治桟橋に到着した夜行高速バス「パイレーツ」号から降り立った同行二人、僕とT子が次に乗り継ぐのは、8時45分発の「しまなみライナー」号広島行きである。
 
適当な食堂が見当たらず、近くのコンビニで買ったお握りを頬張りながらベンチに並んで座っていると、松山と大三島を結ぶ特急バスや、今治と大三島を結ぶ急行バス、そして尾道行き「しまなみライナー」号などが、目の前を次々と発車していく。
 
 
今治港は1600年に開港し、四国で最初に開港場の指定を受けたと言う古い歴史を持つ。
発展したのは明治期以降で、特にカーフェリーが隆盛を極めた昭和40年代には芸予諸島や広島、尾道、三原、呉に向かうフェリーや高速船が多数発着した。
 
この旅の当時は、神戸港と大分港を結ぶフェリーがまだ出入りしていたが、しまなみ海道開通後に山陽方面への航路は減少し、阪神・九州方面への長距離フェリーも東予港を発着するようになったため、今では因島、大三島宗方港経由岡村島、大下島経由岡村島、大崎上島木江港、津島といった、しまなみ海道から外れた島々へ向かう5つの航路が発着するだけになっている。
今治市のHPには、「数年前までは阪神、九州、広島方面へのフェリー、高速船が発着し、今治の玄関口として大勢の人々が乗降していました。現在では、しまなみ海道と役割を連携、分担しながら市内島嶼部などの生活交通を支えています」と説明されているが、港の衰退を言い換える苦しい表現に思えてしまう。
 
 
昭和50年の時刻表を紐解けば、芸予諸島を紡ぐ航路が多数掲載されている。
当時の時刻表の会社線欄は、北から北海道、東北、甲信越、首都圏、というように順番に地域を区切ってまとめられていたが、中国地方の後に瀬戸内航路が数ページに渡って載せられている。
鉄道やバスなどの陸上交通にしか興味がなかった幼少時は、その順番にもどかしさを感じて、四国地方までページをすっ飛ばして読んでいたが、このように本四連絡橋について考えると、瀬戸内航路にもある種の懐かしさ、羨望のような感傷がこみ上げてくる。
 
『因島・生口島(耕三寺)・大三島付近』という欄に、尾道から土生・木浦経由の今治航路がある。
尾道から瀬戸田・大三島経由の今治航路や、因島と今治を結ぶ航路もある。
尾道と土生の間には複数の会社の航路がひしめいて1日数十往復も運航されている。
『宇野・三原・呉・広島・岩国・柳井から高松・丸亀・松山方面』の欄に、宇高航路や広島-松山航路と一緒に三原-今治航路や広島-今治航路がある。
広島と今治の間は高速船が運航されて、呉・上蒲刈島・豊島・大崎下島を経由して所要1時間30分あまりと、「しまなみライナー」号より快速である。
これらの船でのんびり揺られながらの瀬戸内の旅も良かっただろうな、と思うのだが、本四架橋が完成するまでは瀬戸内の島々には見向きもしなかったバスファンとしては、恥ずかしいような、困った心境である。
 
 
「バスになっても、海を渡る路線は、変わらず港から出るんですねえ」
 
停留所のポールに書かれた時刻表を見ながら、T子が感慨深そうに呟いた。
夜行高速バスがJRの駅に寄らず今治桟橋を起終点とし、他の長距離バスも港を発着するという街が、他にあるだろうか。
今治は、内陸よりも海に開かれた街なのだと思う。
島嶼部や山陽方面に向かうバスが今治桟橋を経由するのは、渡し守だった航路の歴史を受け継ぐ心意気のように感じられて、胸が熱くなる。
 
港で潮風に吹かれながらぼんやりと過ごすのはいいものである。
1時間あまりの待ち時間があっと言う間に過ぎ、爽やかなブルーに塗られたボディに跳ねるイルカのイラストが可愛いしまなみバス開発のバスが、「高速 広島」と行先表示を掲げて現れた。
 
「しまなみライナー」号は、予約不要の定員制である。
乗客が少なかったこともあって、最前列の特等席に座ることが出来たから、T子は大喜びだった。
 
「いいですね、この席。これで広島まで行けるんですね。窓が青く塗ってあるから、日焼けの心配もないし」
 
 
きっかり定刻に発車したバスは、JR今治駅に寄ってから街中を南北に縦断し、今治ICから西瀬戸自動車道に入っていく。
市街地の西側に連なる山々の中腹に建設された高架橋を進むと、前方に、瀬戸内海の青々とした海面から浮き出たような白亜の吊り橋が姿を現したから、僕もT子も歓声を上げた。
 
尾道まで総延長59.4km、10本の橋を連ねて島伝いに瀬戸内海を越えて行くしなまみ海道の幕開けは、四国本土と大島を結ぶ来島海峡大橋である。
今治と馬島を結ぶ来島海峡第三大橋、馬島と武志島を結ぶ来島海峡第二大橋、武志島と大島を結ぶ来島海峡第一大橋から成る世界初の三連吊橋で、しまなみ海道を構成する橋梁の中では5番目にあたる平成11年5月に完成し、長さは今治側から順に1570m、1515m、960mである。
 
 
総面積0.5km²の馬島には出入路が設けられてバスストップも置かれているが、総面積0.07km²の武志島は無人島で、来島海峡大橋の橋脚の台座にされてしまっている。
来島海峡は、鳴門海峡、関門海峡と並ぶ日本三大急潮の1つとされているが、この日、見下ろす海峡は波頭1つ見えない穏やかさだった。
 
T子は窓に顔を貼り付けたまま、移りゆく景色に見入っている。
 
西瀬戸自動車道は自動車専用の高規格道路でありながら、備讃瀬戸大橋や明石海峡大橋と異なり、片側1車線の質素な構造である。
行き交う車の数も、他の本四連絡橋に比べて少ない。
それでも、道路の幅が狭いことから橋梁の容姿がとてもスマートで、その巨大さに横綱を思わせる迫力があった備讃や明石に比べれば、ほっそりとした美人を思わせる造形の美しさが際立っている。
 
 
大島は総面積が41.90 km²にもなる、名前の通り芸予諸島有数の大きな島で、この旅の当時は島内の自動車道は未開通であったから、バスは大島南ICでいったん高速道路を降りて国道317号線を走り始める。
国道317号線は、松山から今治を経て尾道へ達する一般国道である。
しまなみ海道は国道317号の有料バイパスという扱いで、馬島、大島、見近島、伯方島、大三島、生口島、因島、向島と巡るルートは、日本の国道の中で最も多くの島を経由するとされている。
我が国には、橋が架かっているわけでもない海上国道が幾つか存在するが、国道317号線の海上区間は7区間に及ぶ。
全ての海上区間が必ずしもフェリーで結ばれていた訳ではないようだが、しまなみ海道の開通によって海上区間は解消されたことになる。
 
かつては村上水軍の本拠地でもあったという大島には、その歴史を受け継ぐかのように造船所が置かれているが、地平の国道から眺める車窓は、ひっそりと静まり返った集落が山あいに連なるだけの、眠気を誘うような鄙びた風景だった。
 
 
大島北ICから再び高速道路に復帰し、トンネルをくぐった後に渡り始めるのは、大島と見近島を結ぶ全長840mの大島大橋と、見近島と伯方島を結ぶ全長325mの伯方大橋である。
どちらの橋も、しまなみ海道では3番目の平成元年1月に完成し、大島大橋は吊り橋、伯方大橋は桁橋の複合橋である。
 
無人島である見近島には自動車用の出入路はないが、自転車や歩行者は降りることができ、無料のキャンプ場が設けられているという。
しまなみ海道には、自転車歩行者専用道路が併設されていることが特徴である。
バスの窓からも、時折、自転車や歩行者を見かけることがあり、
 
「え?人!人が歩いてます!あ、自転車も!この道路、高速じゃないんですか?」
 
と、T子は目を丸くしていたが、自動車と自転車、歩行者の通る道は厳然と区別されている。
しまなみ海道の国道317号線は自動車専用部分のみで、歩行者道路は県道に指定されているのだという。
通勤・通学や通院など、沿線住民のための生活道路という雰囲気が、備讃瀬戸大橋や明石海峡大橋に比べて強く感じられたのは、そのためであろうか。
 
 
伯方島は総面積20.86 km²の島で、「伯方の塩」のブランド名で知られる製塩業が盛んである。
 
昭和20年11月6日に伯方島の木浦港沖で第十東予丸沈没事故が発生し、397名もの死者を出したことから、芸予諸島における本四架橋運動が始まるきっかけとなったという。
備讃瀬戸大橋と同じく、しまなみ海道も海難事故が架橋の原動力だったのである。
 
 
橋長328mのアーチ橋である大三島橋が架かる鼻栗瀬戸は馬蹄形をしていて、凹んでいる伯方島側と大三島側の突起がぴったりと合わさる形状をしているから、伯方島が大三島から千切り取られたように見えてしまう。
昭和50年に着工し、昭和54年に完成した大三島橋は、しまなみ海道で最初に造られた橋である。
 
大三島は総面積64.54 km²、海岸線の延長が88.8kmにも及ぶ芸予諸島最大の島であるが、大三島の「島」は、島内に鎮座する三島神社のことなのだという。
全国に分布する三島神社の大半は、伊予の大三島神社と伊豆の三嶋大社と関係が深い大山祇神を祀る神社で、三嶋大社を大三島神社の分社とする説もあるという。
 
 
しまなみ海道は、そのように由緒ある島の東端をほんの少しかすめるだけで、次の多々羅大橋をさっさと渡り始めてしまう。
来島海峡大橋や新尾道大橋と同時期の平成11年5月に完成した多々羅大橋は、大三島と生口島を結ぶ全長1480mの斜張橋で、完成当初は世界最長の斜張橋であった。
 
この橋が愛媛県と広島県の県境に当たり、多々羅大橋の北に浮かぶ瓢箪島は、NHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったと言われている。
 
 
生口島は総面積31.21 km²と大きめの島であるが、標高472.3mの観音山と標高408.1mの牡蠣山が大部分を占めているために平地は少なく、手前から島の西岸にそびえる観音山を眺めると、芸予富士と名付けてもいいほど、なだらかな稜線が美しい。
観音山は芸予諸島の最高峰で、雨乞いの祈祷場であり、村上水軍が狼煙台を置いていたという。
 
この旅の当時は、生口島南ICと生口島北ICの間が建設途上で、バスは大島と同じく国道317号線に下りる。
大島道路と生口島道路が開通し、しまなみ海道が高規格道路として全通したのは、この旅の翌年の平成18年のことで、「しまなみライナー」号今治-広島線は9分の所要時間短縮を果たしたという。
 
裾を伸ばす山襞の合間に開けた僅かな海岸沿いの平地に、小さな漁港を抱く古びた集落が散在している。
波打ち際を走る区間もあって、穏やかに打ち寄せる波を目にすれば、高速走行の合間の程よい息抜きに心がやすらぐ思いがする。
高規格道路で一気に走るのも悪くはないだろうけれど、大島と生口島に残っていた一般道ののんびりした車窓は、備讃瀬戸大橋や明石海峡大橋にはない、独特の味わいだった。
 
 
しまなみ海道は生口島の南部を東西に突っ切っているから、生口島の2つのインターは、それぞれ生口島西、生口島東と名付けた方がしっくりくるような位置関係にある。
地図で俯瞰すると、しまなみ海道は四国と本州を南北に真っ直ぐ結んでいるのではなく、本州に近づくほど東へ東へと寄っていき、尾道に上陸する。
技術的・経済的に架橋が可能な島々を選んで設計したら、このような線形になってしまったのであろうか。
 
 
今治市の真北は竹原市あたりであるから、岡山や関西方面へ向かうのならばともかく、広島方面へは40kmも迂回することになる。
僕が開業当初に乗りたかった松山と広島を結ぶ「キララエクスプレス」号が、松山観光港と広島宇品港の間を直行するフェリーや高速船との競争に敗れて廃止されてしまったことも頷ける。
 
 
僕は、平成2年に開業した新宿発松山行き夜行高速バス「オレンジライナーえひめ」号で松山を訪れた際に、そのまま広島に渡ったことがある。
しまなみ海道が開通する遥かに前の話で、瀬戸内海の船旅はとても楽しかった。
それでも、松山市内から伊予鉄道の電車で高浜駅に行き、松山観光港行きのシャトルバスに乗り継いで、広島宇品港からは市内電車に乗り換えなければ市街地にたどり着けないという手間を考えると、少しくらい遠回りでも、市街地相互間を直行する高速バスの需要はあるだろうと思っていたのだが。
 
生口島の北岸にある瀬戸田港の沖では、昭和32年4月12日に出港直後の第五北川丸が沈没事故を起こし、113名もの死者を出したことがあった。
伯方島の第十東予丸沈没事故と合わせて、芸予諸島の人々の本四架橋に向けた願いは、更に切実なものとなったのである。
 
大惨事の記憶も時を経れば薄れてしまうものなのか、悲願の橋を渡るバスより便利となれば船を選ぶ人の方が多くなってしまうという事実を目の当たりにすると、競争原理とは酷薄なものだと思う。
 
 
しまなみ海道では4番目の平成3年12月に完成した、橋長790mの斜張橋である生口橋を渡れば、因島である。
芸予諸島の中では伯方島とともに僕が以前から名前を知っていた島で、なぜならば、平成8年に開業した、広島から尾道・因島土生港を結ぶ高速バス「フラワーライナー」号を何度も見かけて、因島とはどのような土地なのだろう、と思いを巡らすことがあったから、という他愛もない理由である。
この島だったのか、と思う。
 
「しまなみライナー」号がしまなみ海道に入ってからは、馬島、吉海町役場、伯方島、上浦、大三島、瀬戸田PA、赤崎と停車してきた。
ぽつぽつと乗車が見られたここまでの停留所は、乗車専用である。
先輩路線の「フラワーライナー」号に遠慮するかのように、「しまなみライナー」号における因島重井バスストップから先の因島大橋、向島、向東、高坂は降車専用となり、因島以北から広島方面へ向かう場合には利用することが出来なくなっている。
 
 
先行路線や沿線の他のバス事業者の既得権を侵さないために設けられたクローズド・ドア・システムという方式であるが、今治や大島、伯方島などから因島に降りる乗客がいるのだろうか、と思ってしまう。
一時期「フラワーライナー」号に生口島瀬戸田港を発着する系統が設けられていたことがあり、後にその系統が廃止されてからは、代替措置として「しまなみライナー」号で広島方面に行き来することが出来るようになったと聞く。
 
総面積35.03 km²の因島は5つの造船所がある工業地帯であると同時に、柑橘類の栽培で知られ、八朔はこの島で生まれた品種であるという。
 
†ごんたのつれづれ旅日記†
 
しまなみ海道では2番目となる昭和58年12月に完成した、橋長1270mの吊り橋である因島大橋を渡れば、しまなみ海道最後の島である向島である。
総面積22.22km²の向島は、尾道市街と幅300mほどの尾道水道で仕切られているだけの、本州の一部と言っても良いほど至近距離にある。
 
しまなみ海道は向島を南西から北東に向かって縦断し、来島海峡大橋や多々羅大橋とともに平成11年5月に完成した長さ546mの新尾道大橋を渡って、尾道市街の東の外れに上陸する。
この橋が出来るまでは、東側に平行する国道317号線の尾道大橋がメインルートで、しまなみ海道全通前から走っていた「フラワーライナー」号は、そちらを利用していたのである。
 
車窓左手には、山の斜面に開けた尾道市街が望まれ、まるで川を渡っているかのようなしまなみ海道の締めくくりであった。
 
 
西瀬戸自動車道はそのまま内陸部に入り込み、国道2号線と接する西瀬戸尾道ICが終点である。
そのまま国道2号線を北東へ進み、福山西ICから山陽自動車道に入った「しまなみライナー」号は、広島まで80km以上もの長いラストスパートに向けて一気に加速した。
 
目的地の広島バスセンターに着くのは、今治を出て約2時間半後の11時22分の予定である。
T子が心待ちにしているお好み焼きの店は、広島駅のステーションビルの中の1店に目星をつけていたから、昼食にはちょうど良い。
広島市内を散策し、呉の「大和ミュージアム」に足を伸ばした後は、新幹線で福岡に足を伸ばし、延岡行きの高速バス「ごかせ」号でT子の故郷に直行するつもりだった。
 

 
T子にとっては、これからがメインイベントであるはずだが、
 
「島伝いに海を渡っていくって感じがとても良かったです、このバス。瀬戸大橋より楽しめました。瀬戸内って素敵なところですね」
 
と、山陽道に入ってからもしまなみ海道の余韻が冷め切らない風で、頬を紅潮させたままである。
 
第3の本四連絡架橋であるしまなみ海道は、沿線地域の経済規模が明石海峡大橋に及ばず、本州と四国を最短距離で結ぶという点で備讃瀬戸大橋に劣ると言われている。
ほぼ全線が片側一車線という道路構造は、他の2ルートに比べるとインフラとして見逃せないハンディで、物流・商流ルートとして効果を発揮しきれずに通行量も低迷していることは、「しまなみライナー」号や「キララエクスプレス」号の大幅な減便を見ても明らかである。
 
しかし、瀬戸内の島々に住む人々の暮らしぶりや風光明媚な自然をつぶさに鑑賞できることにかけては、しまなみ海道が随一だったと思う。
今治から尾道までの1時間あまりは、夢のようなひとときだった。
 
 
「島から島へって歌、ありましたよね」
「『瀬戸の花嫁』かな」
「そうそう。私、あの歌の2番が特に好きなんです。その舞台に来られたなんて、とっても嬉しいです」
 
岬まわるの 小さな船が
生まれた島が 遠くになるわ
入江の向うで 見送る人たちに
別れ告げたら 涙が出たわ
島から島へと 渡ってゆくのよ
あなたとこれから 生きてく私
(山上路夫作詞・平尾昌晃作曲)
 
「島から島へ渡っていくって、何だか、人生そのものですよね。好きな人と一緒なら、尚更です。憧れちゃいます」
 
 
図らずも、T子との延岡行きは、これが最後になった。
この旅の1年後にT子と別れることになり、その2年後に出逢った女性と僕は結婚したのだが、乗り物主体の旅の頻度は減少した。

振り返れば、連れ立って高速バスで旅をした女性はT子だけで、「パイレーツ」号と「しまなみライナー」号の乗り継ぎは、懐かしくもほろ苦い記憶を心に刻むことになった。 
僕のブログに10年以上前の旅日記が多いのは、記録に残しておきたいという思いとともに、旅の機会が少なくなったからでもある。

この紀行文の締めに相応しいのは、日蓮上人の次の言葉であろうか。
 
「矢の走るは弓の力、雲の行く事は竜の力、男の仕業は女の力なり」
 

 
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