真夏の祭典~帰省バス「しまんとエクスプレス」に乗ってバスタ新宿から四国最果ての宿毛へ~ | ごんたのつれづれ旅日記

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バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。

昭和30年代から50年代にかけて、帰省バスが全国を走り回っていた時期があった。
お盆や年末年始などの多客期に、殺人的な混雑を呈していた鉄道を補完して、地方から大都市に出て来ていた人々の里帰りの足を支えたのである。
 
その起源は、大阪の中央交通が昭和36年に日本で初めての帰省バスの運行を開始したと自称しており、福岡の西鉄バスでも昭和37年に福岡-大阪間で帰省バスの運行を開始、横浜に本社を置く相模鉄道でも昭和38年の帰省バスの記録が残されている。
 
 
僕は帰省バスを利用した経験がない。
 
故郷の信州から東京に出て来た昭和60年代には品川区に住んでいたので、京浜急行の駅で、同社の帰省バスのチラシを、羨望や郷愁の思いとともに手にしたものだった。
しかし、雨後の筍のような長距離高速バスの開業ラッシュが全国各地で始まっていた時代で、お盆や年末年始は、それら新しい路線を利用して旅に出る方に関心が向いていたからであろう。
 
新幹線が各方面に伸び、航空機の旅が大衆化して、全国に高速バス網が張り巡らされる中で、帰省バスは通年運行に定期化されたり、或いは姿を消しつつあったから、今になってみれば、乗っておけば良かったと臍を噛む思いである。
 
 
気になる帰省バスは幾つか存在した。
最たるものは、大宮を起終点にして、池袋・横浜から四国松山・伊予・大洲・宇和島に至る路線である。
西武バスと宇和島自動車が運行する、営業距離998kmにものぼる長距離路線で、所要時間は15時間にも及ぶ。
 
下り便の運行ダイヤは、
 
大宮営業所18時10分-大宮駅西口18時25分-池袋駅東口19時10分-横浜駅東口YCAT20時10分-松山営業所7時24分-エミフル松前7時34分-伊予市7時40分-大洲営業所8時14分-卯之町営業所8時42分-吉田営業所9時00分-宇和島バスセンター9時16分
 
上り便は、
 
宇和島バスセンター18時00分-吉田営業所18時16分-卯之町営業所18時34分-大洲営業所19時02分-伊予市19時36分-エミフル松前19時42分-松山営業所19時52分-横浜駅東口YCAT7時07分-池袋駅東口8時05分-大宮駅西口8時46分-大宮営業所8時57分
 
となっていて、途中、足柄SAと石鎚山SAでの休憩が案内されている。
平成20年8月に開業し、3月と4月、5月、7月と8月、12月と1月といった多客期を中心とした季節運行であった。
 
 
帰省バスとして日本最長の運行距離を誇り、所要時間では、定期運行路線を含めても、東京と萩を結ぶ「萩エクスプレス」号や大宮と福岡を結んでいた「LIONS EXPRSS」号に次ぐ史上3位であったが、平成27年1月の運行を最後に姿を現さなくなった。
 
季節運行のバスは、乗る機会が限定されている上に、日程を調整しているうちに運行期間が終わってしまうこともあって、なかなか扱いにくい。
運行期間が終了しても、また来年に乗ればいいさ、と高をくくっていると、定期高速バスのような予告がないまま、
 
「あれ?今年は運行されていないのか」
 
と不意を衝かれてしまう羽目に陥るから、実に始末が悪い。
 
 
愛媛県の西部地域は何度か訪れたことがあり、大阪と宇和島を結ぶ高速バスに乗車したことがあったから、東京から宇和島まで1本のバスで行けるようになったことは大変に喜ばしく、そのうちに定期化されればいいのに、と楽しみにしていたので、まさか廃止されるとは思ってもみなかった。
数日の日程を捻出できなかった自分の見込みの甘さと優柔不断さに腹が立つばかりで、人生においても似たような体験が少なくないことに思いが及べば、情けなさに気が滅入ってしまう。
 
 
もう1つ、気になる路線がある。
 
新宿と高知県の西南部に位置する宿毛を結ぶ夜行高速バス「しまんとエクスプレス」号で、平成19年7月以来、小田急バスと高知西南交通が運行している。
運行距離911kmは、現存する帰省バスの中では最長と思われる。
宇和島よりも奥まった宿毛の方が僻遠の地であるかのように思っていたのだが、大宮-宇和島線より運行距離が短いのは、首都圏側で大宮や横浜を経由していないためかもしれない。
「しまんとエクスプレス」号は新宿を出れば、右顧左眄せず真っ直ぐに四国を目指す。
 
平成28年度の運行日程は8月5日~8月18日と12月26日~1月6日と発表されていて、大宮-宇和島線よりも絞られた期間であるため、それだけ帰省バスの名に相応しいとも言えるのだが、大宮-宇和島線の前年限りの運休に焦っていた僕は、とんでもないウルトラCの行程を捻り出した。
信州への帰省の往路を利用しようというのである。
故郷へは、直通する北陸新幹線で僅か1時間半に過ぎない。

 

 

 
内田百閒先生の『阿房列車』に、
 
その当時、陸軍教授を拝命し、陸軍士官学校の教官であった。
季節はよく覚えていないが、多分早春であったかと思う。
つまり年度末だったのだろう。
出張を命ぜられる事になって、行く先も多少はこちらの希望が叶えられたので、私は京都へ行きたいと思った。
京都には同志社大学の先生に友人がいたからである。
ところが発令になって見ると、私の出張先は仙台である。
甚だ気に入らないが、そうと決まった以上、後から文句を言っても仕様がない。
しかし、どうせ何日かのお暇を貰って東京を離れるなら京都へ行きたい。
京都へ行きたいが、仙台へ行きたくないと云うのではない。
仙台へ行ってもいい。
まだ若かったから、知らない所へ行って見る興味はあった。
そこで私は考えて、こう云う事に決めた。
命に従い、仙台へ出張する。
その出張の途次、京都へ立ち寄って来よう。
京都へ立ち寄るのは出張の途中でなければいけない。
仙台からいったん東京へ帰って、更めて京都へ行くのでは、出張の途次と云う意味が成り立たない。
仙台から京都へ廻って、東京へ帰る。
東京へ帰るのは1ぺんだけにする事が必要である。
それで鉄道地図を按じて、道順を研究した。
仙台から常磐線で平へ出る。
平から磐越東線で郡山に出て、磐越西線を通って、新潟へ行く。
新潟から北陸本線へ廻って、富山、金沢、敦賀を通り、米原に出て京都へ行く。
大変な廻り道の様だが、仙台から東京に帰り、東海道線で京都へ行くよりは、この道順の方が当時の里程の計算で20哩程近い事を知った。
だから、その方から考えても、仙台に出張した途中、京都へ寄って来るという考え方が成立する。
(中略)
右の道順で京都へ行くとしても、もっと倹約することは出来た。
常磐線の平なぞへ行かないで、東北本線の郡山から磐越西線に乗る事にすればいい。
仙台から平へ出て郡山へ行くのは三角形の2辺であり、すぐに郡山へ行けば、その1辺ですむ。
従って距離もそれだけ縮まり、さっき挙げた20哩という数字がもっと多くなる。
それを知っていながら平へ出たのは、1日の内に、太平洋岸の平から、日本海岸の新潟へ出て見たかったのと、もう1つには、その少し前に開通した磐越東線という新線路を通りたかったからである。
阿房列車の病根は、何十年も前から兆していた事を自認する。(雪中新潟阿房列車)
 
という一節があり、要は行きたい地域や乗ってみたい線路があれば何でもありということか、と苦笑してしまう。
僕も帰省時に別の地域を遠回りしたことはあったものの、せいぜい関東甲信越や関西程度にとどまり、「しまんとエクスプレス」号に乗りたいばかりに、わざわざ1000kmも離れた四国の西岸まで帰省の経路に含めるならば、百閒先生を笑う資格はない。
 
 
時刻表をめくって調べてみると、「しまんとエクスプレス」号を宿毛駅で降り、同駅を9時05分発の特急列車「南風」12号で折り返せば、瀬戸大橋を渡って岡山に13時40分着、13時49分発「のぞみ」28号で名古屋15時30分着、16時ちょうどに発車する特急「しなの」19号に乗り換えて、長野に18時58分に到着することが確認できた。
距離にして935.7km、10時間近い復路になる訳だから、車内では大いに退屈して身を持て余すことだろう。
それでも、四国山中の大歩危・小歩危、瀬戸大橋、木曽の寝覚ノ床、日本三大車窓に数えられている姨捨から眺める善光寺平などの景勝地を楽しめる行程が、楽しみにならない訳はない。
 
故郷に着く時間も帰省として程良い頃合いで、先程東京を出て来たばかりです、という涼しい顔で長野駅に降り立つことが出来るではないか。
北陸新幹線ではなく、在来線の「しなの」から降りてきたところを知人に見られたら、少しばかり言い訳に困りそうではあるけれど、壮途の前には些細な事柄である。
 
遠くまで出かける日程がなかなか確保できない身としては、帰省は得がたい旅の機会であり、東京を1日早く出ることで四国の西の端まで行って帰って来られるのだから、日本も狭くなったものである。
 
 
午後7時を迎えようとしている東京の空は、まだほのかな明るさを残していたが、視線を地上に転じれば、街にはケバケバしいネオンが瞬き、行き交う車もライトを点灯している。
 
新宿駅南口からバスタ新宿に入ると、通勤客が行き交う駅の構内よりは混雑が和らいだが、別の熱気が満ち溢れていた。
お盆休みを控えて、広々とした待合室でも回廊のような乗り場でも、よそ行きの服装を身にまとった人々が、思い思いに自分の乗るバスを待っている。
一人旅の人間が多いように見受けられるのは高速バスターミナルの特徴であろうか、椅子に座って自分の殻に閉じこもりながらスマホを見ている人ばかりであるが、軒を並べるカウンターにもたれて何事かを相談している人も少なくない。
新宿駅は日常の続き、バスタ新宿は非日常の始まりなのである。
 
バスタ新宿はこの年の4月に開設されたばかりの新しいバスターミナルであるが、足を踏み入れるのは初めてだった。
新宿駅構内の片隅に設けられていた簡素で殺風景な新宿南口バスターミナルの時代を知っている者としては、見違えるような大規模ターミナルへ進化したことに感無量である。
 
 
まだまだ夜行バスの発車には早い時間だから、掲示板にずらりと羅列された発車便の行き先は200~300km以内の短・中距離路線ばかりだけれど、懐かしい故郷へ久しぶりに帰れるという興奮が、距離の長さに左右される訳でもないだろう。
鉄道の駅や空港でも似たような混雑を呈しているのであろうが、北は青森から西は福岡までを網羅する長距離路線だけではなく、首都圏近郊の短距離路線や空港リムジンバスが雑多にひしめくバスタ新宿のような大規模ターミナルは、乗り入れ路線の目的地の多様性において、他の交通機関のターミナルとは一線を画している。
まして、年末年始と並ぶ民族の大移動と評されるお盆の賑わいを目の当たりにすれば、華やかな祭典に参加しているような気持ちの昂ぶりを覚える。
 
 
「ああ、高知西南交通だ」
 
僕の隣りで甲州街道を見下ろしていたおっさんが、不意に大声を上げたので、僕は驚いて振り返った。
新宿駅南口に面した甲州街道の跨線橋の途中に、バスタ新宿へ進入するバスの右折専用車線が設けられており、ラッシュ時ともなれば何台ものバスが列を成して信号待ちをしているのが常である。
僕には、薄暮の中に並んでいるバスの社名を遠くから言い当てるなどという芸当はとても無理で、バスマニアが歳を取ればこうなるのか、と身に詰まされてしまったのだが、しばらく後に流入路を3階乗り場まで駆け上がってきた「しまんとエクスプレス」号を見れば、ハイデッカータイプのボディは鮮やかな黄色に塗られ、高知へのUターン・Iターンを推進する「高知家」キャンペーンの広告が側面に大書されていたから、知っている人ならば遠くからでも分かるのかもしれないと思い直した。
 
おっさんの声が妙に喜色を帯びていたように感じられたので、これから同じバスで宿毛へ下っていく地元の人だろうか。
 
 
昨今、バスが広告媒体となる例が急増し、特に地方から都市圏に乗り入れる高速バスでは、地方の名産品や観光地をアピールするラッピング車両をよく見かけるようになった。
それでも、地方への移住を促進する広告は、この「高知家」と、「ほどよく便利 ほどよい田舎」を謳い文句に、長野県佐久市が千曲バスに施したラッピングしか目にしたことがない。
 
 
佐久市の売りは契約件数日本一の空き家バンクで、希望者にスムーズに住宅を紹介出来る点であると聞いたことがある。
明治通りで「関越高速バス」池袋-軽井沢・佐久・上田線の千曲バス便を見かけた妻は、「ほどよい田舎」のキャッチコピーがツボにはまったらしく、ひとしきり笑い転げていたが、その後に、
 
「佐久って行ってみたいかも」
 
と呟いたから、宣伝効果は抜群と言えるだろう。
 
ちなみに、「高知家」のキャッチコピーは「高知県は、ひとつの大家族やき」で、移住に必要な家や職探しをコンシェルジュが世話してくれるのだと言う。
 
 
「Cエリア7番乗り場の高知西南交通のバスは、19時15分発の四万十・宿毛行き『しまんとエクスプレス』です。御利用のお客様はCエリア7番までお越し下さい」
 
事務的なアナウンスが流れ、座っていた人々が腰を上げて長い列が出来たが、おっさんはバスの前方に立って微笑を浮かべているだけで、列に加わろうとはしない。
 
乗客は大きな荷物を抱えた人々ばかりで、運転手が降車停留所を確認しながらトランクに荷物を放り込んでいく。
曲がりなりにも帰省の途上なので、僕も持参している荷物は少なくない。
全席座席指定制であるから乗客が乗り切れないという心配は無用だが、これだけの荷物を積み切れるのだろうかとハラハラしてしまう。
 
件のおっさんはとうとうバスに乗ることなく、発車時刻になって窓外を流れ出した人混みの中にその姿を消した。
 
ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく
 
ふと、石川啄木の歌が思い浮かぶ。
 
この日の「しまんとエクスプレス」号は、横4列シート42席が掛け値なしに満席だった。
所狭しとびっしり並べられた座席に押し込まれて、譲り合い、気を遣いながら長い一夜を過ごすことを思うと、多少うんざりするけれども、似たような座席配置の国鉄「ドリーム」号で東名・名神高速道路を下った30年前の若かりし頃を思い起こせば、そこはかとない懐かしさがこみ上げてくる。
 
この夜の客層は老若男女さまざまで、僕の後席には、13時間もバスに揺られて大丈夫なんですか、と心配になるような小柄なお婆ちゃんが、膝を揃えてちょこんと腰をかけている。
通路を挟んだ向かい側の席を占めて、カップ酒をクイッとあおるなり、リクライニングを倒して寝息を立て始めたおっさんは、日焼けして彫りが深い顔立ちで、長い歳月を強い陽射しと潮風の中で過ごしてきた人生を思わせる。
 
僕の隣席には端正な表情の同年代の男性が乗り、
 
「どちらまで行かれるっちゃね?ああ、宿毛。私は最初に停まる須崎で降りるけん。出かけるとなりゃあ、どうしても高知や大阪、東京に行っちゅうけど、中村や宿毛の方に行ったのはもう30年も前やったかねえ。それにしても、あなたは訛りませんな。東京が長いっちゃねえ」
 
と、立て板に水を流すような高知弁で話しかけてくる。
訛るも何も、僕のような高知県西部には何の縁もゆかりもない人間が、帰省バスの貴重な42分の1の座席を奪ってしまったのかと、満員の車内を見渡しているうちに少しばかり後ろめたい気分になっていたから、生返事を返すしかない。
 
高知弁は、高知市周辺の土佐弁と、高知県西部から愛媛県西南部にかけて分布する幡多弁に分類され、前者のイントネーションは関西風、後者は東京弁に似ていると言われている。
須崎はどちらに近いのか、彼の言葉遣いから判別をつけるのは難しかった。
 
「しまんとエクスプレス」号は甲州街道から山手通りに左折し、初台ランプから首都高速中央環状線山手トンネルに潜り込んで、大橋JCTの螺旋状の流入路をぐるぐる回ってから首都高速3号線の高架に飛び出した。
渋谷の煌びやかな明かりを最後に、点々と灯が散らばる窓外の暗闇が深まっていく。
 
 
大橋JCTの渋滞で10分ほど時間をロスしたけれど、その後の走りは極めて順調で、隣席の相客と他愛もない世間話をヒソヒソ声で交わすうちに、早くも最初の休憩地である海老名SAに滑り込んだ。
 
煌々と照明に照らし出された巨大なサービスエリアのショッピングモールは大変な賑いで、買い物をするのも躊躇われる。
別に手に入れたいものがある訳でもなく、新宿を出て1時間あまりしか経過していないから、そもそも休憩には早過ぎる時間なのだが、それが程良い区切りになっているようで、「しまんとエクスプレス」号の車内は海老名を境に夜の装いに変わった。
 
「それでは、間もなく消灯させていただきます。狭い車内ではございますが、どうかごゆっくりおくつろぎ下さい」
 
発車直後のアナウンスを最後に、前方の遮光カーテンが閉め切られ、ふっと明かりが消えて車内が暗転した。
須崎の男性は、リクライニングをいっぱいに倒して瞑目している。
通路の向かいのおっさんは、休憩で目が冴えてしまったのか、2本目のカップ酒を手に、じっと前方を見つめて身じろぎもしないまま、暗闇の中に溶けるように消えた。
時折、後部から2人連れの若い女性のクスクスと笑う声が聞こえていたが、いつの間にか静かになった。
 
僕も後席に声を掛けて背もたれを倒したくなったが、振り返れば、お婆ちゃんは乗車した時の姿勢を崩さないまま、頭を垂れて眠っている。
弱ったな、と躊躇しながらも、お婆ちゃんにぶつからないよう距離を測りながら慎重に背もたれを操作してから、目を閉じた。
 
箱根越えのカーブに揺られたり、新東名高速に入る御殿場JCTで車体の揺れがぴたりと治まる気配を感じ取って、うっすらと目を覚ました記憶があるから、熟睡できた訳ではない。
 
 
ふと気づくと、ギアが次々と落とされてバスが減速していた。
 
「浜松SAです。発車は22時55分ですので、遅れないようバスにお戻り下さい」
 
という運転手さんの囁くような案内を耳にして身体を起こすと、隣りの須崎氏も、
 
「浜松って言っちゅうね?」
 
と欠伸を噛み殺しながらリクライニングを戻し、脱いでいた靴を履き始めた。
 
車外へ出てみると、むっとする蒸し暑さが僕の身体を容赦なく包み込んだ。
サービスエリアを黒々と囲む林の中から、蝉が鳴く声がかすかに聞こえる。
新東名高速道路は、東海道に連なる街々から北寄りの山中に建設されているために闇が深く、見上げれば、満天の星空が吸い込まれるように見事だった。
 
 
浜松からの記憶は断片的だが、午前1時30分前後に到着した名神高速道路の草津PA、午前3時30分頃に到着した神戸淡路鳴門自動車道の淡路島南SAと、運転交替のための停車地では決まって照明が灯され、休憩のアナウンスが律儀に流れた。
 
昭和60年代の国鉄「ドリーム」号や、西武バス等が運行する「関越高速バス」などでは、全ての運転交替地点において開放休憩が設けられていたが、最近はこのような方式を採る夜行バスに出会ったことがない。
消灯前と早朝には降ろして貰えるものの、深夜の運転交替は乗客に知らせずひっそり行う路線が大半であり、中には開放休憩が全くない路線も少なくないだけに、片道900km・所要13時間を超える長距離路線で、このように小まめに起こされることになるとは意外だった。
 
 
別に腹立たしい訳ではなく、休憩地点でバスを降りれば、足元がふらついて寝不足の感は否めないものの、もう関西まで来たのか、淡路海峡を渡っていよいよ四国か、という旅の喜びが湧き上がって来る。
 
淡路島南SAでは、東京発徳島行き「エディ」号も羽を休めていた。
「エディ」号は鳴門海峡を渡ればすぐに終点であるが、「しまんとエクスプレス」号は更に四国を東西に横断して西の果てまで行かなければならない。
夜行バスに乗ることが楽しくて旅に出てきているのだから、前途迂遠であればあるほど嬉しくなる。
 
 
他の乗客はいざ知らず、僕はどんなに寝不足になろうとも、宿毛から長野までの車中で居眠りをすれば良いだけの話であるから、至って気楽だった。
隣りの須崎氏はすっかり諦め顔で、
 
「こじゃんと起こされるバスやかねえ」
 
と草津PAで洩らした嘆息を最後に、淡路島SAではついに目を覚まさず、彼の足を跨いで通路に出るためには大いに気を遣ったものだった。
 
最後の休憩地点である道の駅あぐり窪川では、すっかり夜が明けて、眩しい朝の光が燦々と降り注いでいた。
木々や水田の鮮やかな緑が、色濃く目に滲みる。
浜松では遠慮がちだった蝉時雨が、ここでは耳に痛いくらいにさわさわと響き渡っている。
南国に来た、と思う。
 
 
10年以上前に、京都始発の大阪経由宿毛行き夜行高速バス「しまんとブルーライナー」号に乗車したことがある。
師走も押し迫った時期で日が短く、「しまんとエクスプレス」号より1時間ほど早い時間帯の運行であったため、早朝の車窓は薄暗く、海岸沿いの道では闇に浮かび上がる波頭の白さだけが印象的だった。
 
今回は、関西発着の「しまんとブルーライナー」号より500km近くも東の東京を出発してきたというのに、1時間程度しか到着時刻が違わないことも驚きだが、季節や時間が異なると、これほど車窓風景が新鮮に感じるものなのかと思う。
 
道の駅あぐり窪川は、高知自動車道の終点である四万十中央ICを出たばかりの場所にあり、時計の針は午前6時半を指している。
 
6時ちょうどに到着予定だった須崎西崎町はとっくに過ぎていて、隣席の男性の姿は見えなかった。
降りていったことに全く気づかなかったので、最後になって熟睡したのであろうか。
隣席が空けば横4列シートでもゆったりと身体を伸ばせるから、溜め息が出るほど桁違いの快適さを享受できる。
 
 
すっかり寛いだ僕を乗せた「しまんとエクスプレス」号は、国道56号線・中村街道を西へ向かう。
この辺りは四万十町の町域であるが、四万十川は国道54号線と交差することなく内陸に向けて大きく蛇行し、その姿を現すのは中村に入ってからである。
 
こんもりとした小高い山々の合間を縫う道筋が坦々と続き、6時45分着の窪川と7時15分着の佐賀の鄙びた町並みを抜けて、再びうつらうつらと睡魔に身を委ねていた時のことである。
不意に、太平洋が車窓いっぱいに広がったから、いっぺんに目が覚めた。
青々と輝く穏やかな海原と、緩やかに弧を描く白い砂浜の対照が美しい。
古びた家々が道沿いに点々と連なり、浜に引き上げられた漁船が打ち寄せる波に洗われている。
 
 
後席のお婆ちゃんは、7時34分着の入野役場前で降りていった。
バス停で待っていた数人の若い女性が乗降口に駆け寄り、
 
「わあ、おばあちゃん、お帰り。疲れたっちゃろ?」
「東京の兄ちゃんは元気やった?一緒に帰ってくれば良かったっちゃに」
 
と出迎えている様を見て、思わず頬が緩む。
 
 
四万十川の支流と山々に挟まれた僅かな平地に設けられた高知西南交通本社と、対岸に位置する土佐くろしお鉄道中村駅には、それぞれ7時45分と7時50分に停車し、大半の乗客が降りてしまった。
 
四万十川の河口付近の三角州に開かれた中村市の中心部は、昭和21年の南海地震で被災して古い町並みは殆ど残されていないと言われているが、応仁の乱を逃れて住みついた土佐一条氏により京都を模して碁盤目に区画された町並みは、土佐の小京都として知られている。
そのように由緒ある土地であるが、平成17年に西土佐村と合併して四万十市に生まれ変わり、中村の地名は呆気なく消えてしまった。
かつて、高知市近辺の人々から「中村は大阪よりも遠い」と嘆かれた僻遠の地としてのイメージを、拭い消したかったのであろうか。
 
初めて中村を訪れたのは大学時代に友人と足摺岬を訪ねた30年近く前のことで、高松からの夜行鈍行列車を高知駅で乗り換えて、JR土讃本線とJR中村線を直通する普通列車で夜明けを迎え、当時は終点だった中村駅で路線バスに乗り換えたのである。
高知市と足摺岬の往復だけで丸1日が費やされてしまい、改めて中村の遠さを実感したものだった。
 
中村まで鉄路が通じたのは昭和45年、宿毛まで鉄道が延伸されたのは平成9年のことである。
 
 
国道56号線に戻って、四万十川に架かる長い橋を渡りながら、たっぷりと水を湛えた本流を見下ろせば、流れているのか滞っているのか判別が出来ないくらいに悠然としていて、さすがは四国随一の大河である。
市名や町名に取り上げられたり、特急列車や高速バスの愛称に採用されたり、このあたりに来れば食傷するほど四万十の名が溢れかえっているが、実際に四万十川の風格に接すれば、命名した人々の思いも理解できる気がする。
 
 
中村から終点の宿毛までは、南に大きく張り出した足摺半島の付け根を東西に横断することになり、距離にして20kmあまりである。
田園の彼方に、土佐くろしお鉄道の列車が走っているのを感慨深く眺めた。
 
平成の初頭に、松山から宇和島を経由して宿毛に至る宇和島自動車の快速バスに乗って初めてこの地を訪れた時には、まだ鉄道が通じていなかったから、宿毛から中村行きの路線バスを利用した。
どんよりと雲が垂れ込めた黄昏の中を走る古びた路線バスに揺られて、窓外を流れる暗い田園を眺めながら、胸を締めつけられるような寂寥感に苛まれた記憶がある。
その時は、中村から足摺岬が始発の高知行き特急バス最終便に乗り継いだ。
 
 
京都発の「しまんとブルーライナー」号で宿毛に向かった10年前の師走は、逆回りに宇和島行きのバスへと乗り継いで、宇和島から大阪行き高速バスの昼行便で、四国を後にした。
冷たい霧雨が舞う、南国とは思えない冬の1日だった。
 
昔の旅を思い出しながら「しまんとエクスプレス」号に乗っていると、2年前ならば宇和島発大宮行きの帰省バスに行程を繋げることが出来たのに、との無念さが改めてこみ上げてくる。
 
 
よりによって陰鬱な季節や時間帯ばかりにこの地域を訪れたものだと思うが、今回は、あの時の侘しさが嘘のように、同じ山野が別の土地のように様変わりして、眩暈がするような真夏の明るさの中で輝いている。
 
この地域の暑さは他に類がないほどに厳しく、北西からの風が吹くことで生じるフェーン現象に加えて、太平洋からの海風が入りにくくなるために、極度の高温になりやすい。
平成25年8月12日には、旧西土佐村の江川崎で、国内における観測史上最高気温となる41.0℃を記録したというから、筋金入りの暑さである。
帰省バスに揺られてたどり着いたのが、日本一の猛暑の町とは、真夏の祭典のゴールにふさわしい。
 
 
宿毛からは、宇和島方面への路線バスばかりではなく、大分県佐伯港へのフェリーが出ている。
九州への航路が開かれている四国の西の果ての町に着いたのは、定刻8時30分より少々早い時刻だった。
 
一夜を過ごして何だか名残惜しくなった「しまんとエクスプレス」号を降り、新幹線駅のように壮大な高架造りの宿毛駅舎を見上げても、最果ての旅情はなかなか湧いて来ない。
新宿から宿毛までの車内の方が、よっぽど地方色豊かだったと思う。
 
このままフェリーで九州に渡りたい衝動に駆られてしまうが、この航路も最盛期とは比較にならない程に寂れてしまい、1日の運行本数は僅かに3往復で、朝の便は8時に出港したばかりで、その次の便は16時まで無い。
 
どうやら、予定通りに900km彼方の信州まで帰省するより他はなさそうである。
 
 
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