陸海空乗り物フルコースの競演(2)~別府ゆけむり・周防灘フェリー・ゆふ・大分ホーバーフェリー~ | ごんたのつれづれ旅日記

ごんたのつれづれ旅日記

このブログへようこそお出で下さいました。
バスや鉄道を主体にした紀行を『のりもの風土記』として地域別、年代別にまとめ始めています。
話の脱線も多いのですが、乗り物の脱線・脱輪ではないので御容赦いただきまして、御一緒に紙上旅行に出かけませんか。


平成18年初秋の週末に、東京から新幹線と高速バスを乗り継いで広島に着いた時は、今にも泣き出しそうな空模様だったが、翌朝、ホテルの窓から眺めた街並みは、小雨で煙っていた。


がっかりしたけれども、旅程が変わる訳ではないから、気を取り直して朝食をしたため、路面電車で広島バスセンターに舞い戻った。
これから九州へ足を伸ばそうと思っている。
もちろん新幹線などという月並みな方法ではなく、高速バスを使うつもりなのだが、広島から九州へ向かう路線は、それほど多くない。


今は福岡行き「広福ライナー」号が孤軍奮闘しているが、僕はその前身とも言うべき「ミリオン」号に乗車したことがある。
新幹線ならば1時間あまりで着いてしまう区間を4時間もかけ、しかも1日4往復のうちの下り最終便で、日暮れ時の暗い車窓になってしまったけれども、夜行バスと同じ横3列シートの豪華な乗り心地を存分に満喫したものだった。
広島電鉄と西鉄が昭和63年9月に開業させた「ミリオン」号は、広島・北九州・福岡の3つの百万都市を結ぶことから命名されたのだが、利用者数は振るわず、平成5年6月に廃止されてしまった。

ところが、平成14年5月に、西日本JRバス・九州JRバス・広島交通・中国バスの4社が「広福ライナー」号の運転を開始し、1日10往復に本数を増やしたどころか、夜行便まで登場させた時には、度肝を抜かれた。
幸い「広福ライナー」号は一定の顧客をつかんだようで、参入事業者が撤退したり運行本数を縮小することもなく路線を維持しているのは、目出度い限りである。

「ミリオン」号が運転手を2人乗務させていたのに対して「広福ライナー」号は1人乗務に絞り、車両も横4列席のハイデッカーにするなどコスト削減を図った上で、運賃を低く抑えた事業者の努力は見逃せないが、「ミリオン」号から「広福ライナー」号への過渡期は、ちょうど日本のバブルが弾けた時期と重なっている。
横3列シートを備えたスーパーハイデッカーを投入しても、高価でありながら速達性に優れた新幹線を人々が選ぶ時代から、横4列の窮屈な座席で所要時間が4倍近くかかっても、廉価な交通機関を選択する人が増えた時代へと、広島と福岡を結ぶ高速バスの歩みは、まさに、僕らの国の長いデフレ不況と格差社会を反映しているような気がするのだ。

†ごんたのつれづれ旅日記†

もう1本、広島と九州を結ぶ高速バスが存在した。
平成2年11月に開業した広島-長崎線で、運行事業者である広島バスが「ひろしま」号、長崎県営バスが「ながさき」号と別の愛称をつけ、昼夜行1往復ずつが運転されていた。
こちらも乗客数に恵まれなかったようで、平成6年に広島バスが運行から手を引き、3年後に防長交通が参入して岩国・徳山・防府・山口を経由するようになったものの、平成14年に廃止されている。
こちらには、ついに乗る機会に恵まれなかったが、2つの被爆地を結ぶ高速バスとしても、何かと気になる存在だった。
乗っておけば良かったと思う。


平成17年12月に、愉快な高速バスが走り始めた。
広島と別府を結ぶ「別府ゆけむり」号である。
広島交通と大分交通が1日2往復、所要5時間で運転し、広島の人々は、それほど九州の温泉に出かけるものなのか、と怪訝に思ったものだったが、何が愉快なのかと問われれば、このバスは徳山港からフェリーで丸ごと運ばれて九州へ渡る経路を取っていたことである。

船で海を渡る高速バスは、幾つか利用したことがある。
かつては、熊本と長崎を結ぶ「ありあけ」号が有明フェリーで航送されていたし、品川-徳島間の「エディ」号と梅田-徳島間の「サラダエクスプレス」号・「エディ」号が、明石海峡大橋が完成する前に須磨から淡路島までフェリーを使っていた。
いずれも変化に富んだ旅を味わうことが出来たため、「別府ゆけむり」号が開業した時には無性に乗ってみたくなって、新幹線と「サンサンライナー」号を乗り継いで広島入りした次第である。

定刻7時45分に広島バスセンターを発車した「別府ゆけむり」号に乗車している乗客は、10人ほどであった。
別府に向かうならば、温泉宿に宿泊する旅程を組む人が多いと察せられるから、日曜日の午前の下り便で乗客が少ないのはやむを得ないことであろう。

バスは太田川のほとりを遡って昨日来た道を舞い戻り、広島ICから山陽道に入っていく。
山陽道を西へ向かう旅が再開された訳であるが、山がちだった岡山IC-広島IC間とは大きく趣が異なった。
広島ICからすぐにトンネルに入ってしまうところなど、最初は山深い車窓が続くが、広島平野を回り込むように西から南へ進路を変え、なだらかな下り坂が始まる宮島SAの手前で、大きく視界が開けたかと思うと、瀬戸内海が車窓いっぱいに広がった。
思わず身を乗り出したくなる、見事な演出である。


この車窓に初めて接したのは、横浜と岩国・徳山を結ぶ夜行高速バス「ポセイドン」号で、一晩を過ごした時だった。
長く暗い夜を抜けてきた払暁であっただけに、朝日に輝く瀬戸内海の眺望は、いっぺんに僕の眠気を吹き飛ばしたものだった。

東京から九州へ向かう「富士」「はやぶさ」「あさかぜ」といった寝台特急列車に乗った時も、広島を出てから徳山までの間で、初めて瀬戸内海を目にすることが出来たのではなかったか。
僕がこれらの寝台特急列車を利用した時代には、既に食堂車は廃止されていたから、徳山駅で乗ってくる駅弁売りを楽しみに待ったもので、夜を徹して東海道・山陽道を下ってきた夜行列車が、夜から昼の装いに姿を変えるのが、この区間であった。


海と山に彩られた懐かしい車窓を味わいながら、朝日を反射して輝く沿岸の街並みが、いつの間にか幾何学的な工業地帯に変わったかと思うと、「別府ゆけむり」号は1時間あまりの高速走行を終えて、徳山東ICで山陽道を出た。
轟々と車が行き交う国道2号線を離れれば、徳山の市街地は、街路樹が影を落としてしっとりとした空気が漂い、大コンビナートを抱える瀬戸内随一の工業都市というイメージにそぐわない。
9時10分に到着した徳山駅西口のロータリーにも、古びた建物がひしめき合い、古き良き昭和に舞い戻ったような落ち着きが感じられる。

徳山駅を発車して、北側の地下道で山陽本線と新幹線を横切ると、すぐそこが徳山港である。
西口から3分もかかっていないから、徳山駅とはこれほど海に近かったのかと呆気にとられた。
徳山駅には2度ばかり来たことがあったけれど、いつも緑豊かな西口ばかりを利用していたので、線路を渡っただけで臨海工業地帯に一変したことに目を見張らされた。
この街の別の顔を発見したような、新鮮な気分だった。


いよいよ、この旅のメインディッシュである、徳山港から九州国東半島の竹田津港までの周防灘フェリーによる航送である。
乗船口には十数台の乗用車が列を作っており、「別府ゆのくに」号がその脇に巨体を割り込ませると、車の中で待機しているドライバーたちが、眩しそうにこちらを見上げた。
間もなく入港してきたフェリー「ニューくにさき」は、平成6年2月に竣工したばかりの新型船であるが、排水量725トンのこぢんまりとした船体で、他の車の乗船客も、全部乗り切れるのかと心配になったのかも知れない。

フェリーの乗船口が開かれて、九州からの車が次々と吐き出されると、今度はこちらが乗船する番である。
ガッシャーン!と渡り板の金属音を響かせながらバスが進入した船内は、見かけよりも広々としていて、「別府ゆけむり」号と他の車を全て収容しても、まだ余裕があった。


「お待たせ致しました。ここでバスを降りていただいて、船内でお過ごし下さい。貴重品はお持ちいただきますよう、お願い申し上げます。また、下船の前にはバスに戻っていただきますので、船内の案内に御注意下さい」

と、運転手さんが乗降口を開けながら案内する。
排気ガスが薄く立ちこめる船倉から、狭いラッタルを上がって甲板に上がると、吹きつける雨混じりの風に、ねっとりと潮の匂いがした。

海岸の埋立地をぼんやり眺めているうちに、手すりにもたれた腕から伝わってくる小刻みな振動が少しずつ大きくなり、長声一発が港に響き渡って、定刻9時30分きっかりにフェリーは岸壁を離れた。
船は波間に航跡を長く引きながら徐々に速度を上げ、模型のようにぎっしりと建物がひしめいている徳山の街並みが、ゆっくりと遠ざかっていく。
雑多な工場群の煙突はもくもくと煙を上げ、左手には、白い繭のようなオイルタンクが霞んで見える。


徳山を舞台にした小説で思い浮かぶのは、宮脇俊三氏の異色の推理短編集「殺意の風景」の「石油コンビナートの巻 徳山」である。
トリックの意外性を楽しむ話ではないが、結末を知りたくない方は、下の写真まで飛ばして読んでいただきたい。

九州からの上り寝台特急列車に乗車した政治家もしくは高級官僚と覚しき主人公は、食堂車である人物と出会い、徳山のコンビナートを短時間視察するための途中下車を提案される。
明朝には東京に戻らなければならないから無理だ、と渋る主人公に、その人物は、視察後に山陽新幹線を使えばこの列車に追いつくことが可能であると、時刻表を示しながら執拗に食い下がり、連れ立って訪れた夜の臨海工業地帯で、いきなり主人公を殺害しようとする。
主人公は間一髪かわして、犯人が逆に命を落とす。
おそらく犯人がアリバイに使おうとした方法をそのまま使って、主人公は元の寝台特急に舞い戻り、顔見知りになった車掌に、すっかり気分が良くなって、つい食堂車に長居したよ、と言うのである。

犯人と被害者が入れ替わりながらも、アリバイのトリックがそのまま使われているという見事な逆転の発想が冴え渡る1編で、「殺意の風景」で最も好きな章である。


「別府ゆけむり」号にはトイレがなく、フェリーの乗船時間以外の休憩も設けられていないから、乗船してまず済ませなければならないのは、用足しである。
他の乗り物に比べて船のトイレは広々としているから、気持ちが良い。

それからは、船内をあてもなく歩き回ってみたり、売店を冷やかしたり、桟敷席で横になってみたり、再び甲板に出て陽光きらめく海を眺めてみたり、他の乗り物のように景観が次々と変わる訳ではないから、船旅ではつい時間を持て余してしまうけれども、最後には諦めて船室に腰を落ち着けるのが常である。
何にもすることがないという状態は、日常生活から隔絶されていることが実感されて、実に貴重である。
このような時間を求めて、僕は東京から遙々やって来たのではなかったか。


この日の周防灘は穏やかだった。
周防灘フェリーの航路延長48km、所要2時間という船旅は、案外短く感じられた。

間もなく竹田津港に到着するというアナウンスを耳にして、船室から甲板に出てみると、なだらかな緑の山裾が海岸まで迫っていて、僅かな平地にこぢんまりと港が設けられている。
広島や徳山とは別世界の鄙びた光景を眺めながら、これが国東半島か、と思ってみるけれども、九州に船を使って上陸するのは初めての経験で、国東半島にも足を踏み入れたことはなかったから、強く実感を伴うわけではない。


薄暗い船倉のバスに戻って待つうちに、接岸の衝撃が軽く車体を揺らし、出入口の扉がゆっくりと開け放たれて、外の光が眩しく差し込んできた。

11時30分にフェリーを降りた「別府ゆけむり」号は、港の片隅に設けられた竹田津港停留所で1人の客を降ろしてから、国東半島を周回する国道213号線を西へ向かう。
山と海に挟まれた半島北岸の波打ち際を、バスは走る。
時折り、ミカン畑が車窓を過ぎ去っていく。

国東半島は、90~110万年前に噴火した両子山が、丸ごと九州東海岸から飛び出しているような地形で、溶岩台地や溶岩ドーム、周辺の火砕流堆積物が浸食されて、険しい山塊を形成しているという。
山肌はすっかり木々に覆われて、黒々とした溶岩が露出しているような場所は見当たらないけれど、本州から渡ってきた先が火山の麓とは、火の国九州に相応しい幕開けである。


半島の麓に位置する豊後竹田市は、レトロな町作りに力を入れていることで知られている。
市街地の商店街は、昭和40年頃まで栄えていたが、大型郊外店の進出や過疎化のために衰退し、一時は「犬と猫しか通らない」と言われるほど寂れたらしい。
建て替えが進まず、昭和30年代以前の古い建物が7割も残っていることを逆手にとって、昭和30年代の町並みを再現したものが、「昭和の町」である。
近年は27万人の観光客が訪れるまでになり、地方都市再生の成功例として注目された。
「別府ゆけむり」号も、平成21年から「昭和の町」に近い新町停留所に停車し、大分交通が「昭和の町」を紹介するラッピングバスを導入するという力の入れようであった。
バスの窓からも、国道と交差する新町商店街の入口をちらりと見ることはできたものの、その奥にある昭和の町並みまでは見えなかった。

宇佐市に入って国道10号線に合流すると、交通量が一気に増えた。
国東半島の麓を北から南に横断し、杵築の町を過ぎて別府湾に出れば、並行する日豊本線の豊後豊岡駅付近から、斜面に広がる別府の温泉街を彼方に望むことができた。
しばらくすると、由布岳が独特な姿を前方に現す。


「別府ゆけむり」号の九州側の車窓も、海と山が織り成す見事な競演だった。
別府には高速バスで何度か訪れたことがあるけれど、市街地の西側をかすめる大分自動車道を利用する路線ばかりだったので、「別府ゆけむり」号の海沿いに近づく経路は新鮮だった。

「別府ゆけむり」号の終点は、国道沿いに設けられた別府北浜停留所で、予定通りの13時ちょうどにバスは専用の待機場に入ってエンジンを切った。
バスはこの後、別府13時30分発、広島19時着の上り便として折り返す、なかなか忙しいダイヤをこなさなければならない。


海岸に出れば、別府湾の彼方に、大分市の街並みが見える。
どうせならば、あそこまで足を伸ばしてくれればいいのに、と思ったものだったが、平成21年に「別府ゆけむり」号は大分市内まで運行区間が延長された。
豊後高田や宇佐に停車するようになったのも、このダイヤ改正の時だったが、事業者が路線をあれこれ手直しし始めたら、営業成績が好ましくない場合が多い。
御多分に漏れず、「別府ゆけむり」号も、平成29年1月9日をもって廃止された。
開業から廃止まで、奇しくも広島-長崎線と同じ12年間で、これを最後にフェリーで航送される高速バスは皆無となってしまった

速達性という機能に特化した高速バスでは、乗っているだけで観光気分を味わうことが出来る路線は多くない。
変化に富んだ車窓ばかりではなく、のんびりと船旅まで満喫できる「別府ゆけむり」号の廃止はとても残念であるが、1回でも乗ることが出来たことで、良しとすべきなのであろう。


北浜から、なだらかな登り坂の商店街をぶらぶらと歩いて、JR別府駅に向かった。
小高い丘の上のホームには キハ183系1000番台ディーゼルカーの「ゆふデラックス」が停車している。

キハ183系特急型ディーゼルカーは、昭和54年に国鉄が北海道向けに開発した車両で、昭和60年代に僕が初めて北海道を旅した際に大いに利用したものだった。
キハ183系1000番台は、JR九州が昭和63年にキハ183系を元にして製作した気動車で、外観は国鉄が昭和54年に165系急行型電車を改造した「パノラマエクスプレスアルプス」とそっくりな前面展望型になっている。
「パノラマエクスプレスアルプス」がデビューした時には、名鉄パノラマカーや小田急ロマンスカーの系譜を継ぐ展望車両を、ついに国鉄も開発したのかと驚かされたが、国鉄の製作陣が設計すると、私鉄とは一風異なるお堅い造形になるものだと微笑ましかった。


「パノラマエクスプレスアルプス」に乗る機会には恵まれなかったが、「ゆふデラックス」は大分行きとして目の前に鎮座している。
乗ってみたいが、大分まで12.1km、普通列車でも15分足らずの区間に特別料金を支払うのも、勿体ない気がする。
躊躇っている間に発車のベルが鳴り始め、僕は意を決して「ゆふデラックス」のデッキに飛び込んだ。

展望席となっている前方車両には行かなかったから、わざわざこの列車に乗った意味は薄れてしまったが、別府で大半の乗客が降りてしまったのか、空席ばかりが目立つ車内で、別府湾を眺めながら過ごした十数分は、特別料金を惜しむ気持ちが吹き飛んでしまうほど、楽しかった。

東海道・山陽新幹線700系「のぞみ」、高速バス「サンサンライナー」号、広島電鉄の路面電車、周防灘フェリーを介する高速バス「別府ゆけむり」号、そして183系1000番台「ゆふデラックス」と、多種多様な乗り物を経験する変幻自在の行程となって、フルコースの料理を賞味しているような贅沢な旅になった。
御馳走様、と箸を置く前に、もう1つ、特上のデザートが用意されている。


大分からは空路東京へ戻るつもりなのだが、昭和46年に国東半島に移転した大分空港は、大分市からの陸路のアクセスが別府湾を大きく回り込むため、湾内を短絡する航路が設けられ、ホーバークラフトが投入されたのである。
英国が発祥であるホーバークラフトが、我が国で初めて定期航路に用いられたのは、昭和42年の九州商船による熊本本渡港と島原百貫港を結ぶ天草航路で、三菱重工が製作したSR.N6型「ひかり」を使用した。
その後、「ひかり」は伊勢湾航路の志摩勝浦観光船に移り、蒲郡・西浦・鳥羽の間と鳥羽・二見浦遊覧で就航している。


昭和40年代は海上輸送の高速化に注目が集まっていた時期で、三井造船もMV-PP5型を開発し、昭和44年から昭和54年まで名鉄海上観光船が蒲郡-西浦-伊良湖-鳥羽間に、昭和49年から昭和52年まで日本ホーバーラインが大阪南港と徳島港間に、昭和47年から昭和63年まで国鉄が宇高連絡船宇野-高松間に、昭和47年から昭和52年まで空港ホーバークラフトが指宿-鹿児島または桜島-加治木間に、そして昭和47年から昭和57年まで沖縄の八重山観光フェリーが石垣島-竹富島-黒島-小浜島-西表島間に採用した。
我が国で最も汎用されたホーバークラフトは、沖縄海洋博覧会や、佐渡島と能登を結ぶ航路などで活躍した波及型も含めて、合計27隻が建造されたMV-PP5型(波及型はMV-PP10とMV-PP15)であった。
図鑑や絵本などに取り上げられて、子供たちの心をときめかせたのも、この型式である。


僕は、かつて宇高航路に急行便として使用されていたホーバークラフトを利用したことがある。
子供の頃から未来の夢の乗り物として憧れていたホーバークラフトであったが、所要時間は「海の新幹線」の異名に相応しく通常の連絡船の半分であったものの、エンジン音や風切り音がうるさく、揺れも激しくて、ここまでして人は急がなくてはならないのかと、その凄まじい乗り心地に呆れてしまった覚えがある。
初めての四国旅行の帰路に利用して、そのまま東京行きの新幹線に乗り継いだために、ただでさえ後ろ髪を引かれる心境下で、無駄に駆け足をしてしまったという後悔も加味されているから、ホーバークラフトが悪い訳ではない。
昭和63年に宇高航路のホーバークラフトが廃止された際には、もう1度乗っておけば良かったと、名残惜しく感じたものだった。


大分空港ホーバーフェリーは昭和46年に登場し、宇高連絡船のホーバークラフトが廃止された後は日本で唯一の定期航路となっていたため、いつかは利用してみたいものだと思っていた。
大分空港道路や大分自動車道の開通、別大国道の6車線への拡張により、陸上交通による空港への移動時間が短縮したため、平成2年をピークに大分ホーバーフェリーの利用客数は減少し、その存否が危うくなっているとも聞いていたから、早く乗らねば、と気が急いていた。
ようやく、その願いが叶う。


大分駅からは「ホーバーバス」を名乗る連絡バスが、大分川の河口に設けられたホーバーフェリーの大分基地まで運行されている。
海上を力走するホーバークラフトの絵が描かれた派手な外観のバスだが、車両は小型で、それでも座席が余るほどの寂しい乗客数だった。

簡素な造りの大分基地は、乗船客なのか、単なる見物客なのか、大勢の人々が手狭な待合室にひしめいていて、子供たちが賑やかに走り回っている。
敷地の隅に、スカートをたたんだホーバークラフトがうずくまっている。


乗船券を購入して待つうちに、

「来たよ!陸に上がってきたあ!」

と、窓に張り付いている子供たちが歓声を上げた。
海に面した幅の広い航走路を、けたたましい爆音を響かせながら、ホーバークラフトが上陸してくる。
大人たちも一斉に窓辺に近づいたが、窓ガラスが汚れていて、その勇姿がぼんやりとしか見えないのが物足りない。
出入りするホーバークラフトが、塩を含んだ水滴や埃を巻き上げるためであろうか。

以前に利用した宇高航路では、桟橋から桟橋へと海上だけの航行だったから、陸走するホーバークラフトを見るのは初めてだった。
実際、走行するホーバークラフトには比類なき迫力が感じられて、眺めるに足る乗り物である。
どのような乗り心地なのだろうと、ますます心が踊る。


ラッタルが船体に寄せられて空港からの客が降り、入れ替わりに僕たちが乗船する番になっても、案の定、実際に乗り込んだ客は20人足らずだった。
見物だけの子供たちが、羨望の眼差しで見送る中で改札を受けるのは、何となく面映ゆい気分である。
乗り込んでみれば、客室は意外と広く、ずらりと座席が並んでいる。
大分ホーバーフェリーが運用しているMV-PP5型は50人乗り、MV-PP15型の定員は70名だという。
もちろん甲板などはなく、客室に缶詰めである。

出港時間になると、腹の底に響いてくるエンジン音がドドッと湧き上がり、ふわりと船体が浮かび上がる。
走り出しは滑らかだった。
意外と小回りが利くようで、くるりと船体の向きを変えると、なだらかな傾斜の航走路を下り、海に出ると同時に両舷に水しぶきが跳ね上がって、速度が加わっていく。
船内に容赦なく響き渡る轟音は、エンジンばかりではなく、後方に付いている巨大なプロペラが風を掻き回す音も、少なからず混ざっているのだろう。
海が荒れているわけではないが、次々と波頭を乗り越える暴れ馬のような上下動が止むことはない。


運転席は開放的で、操縦桿を握るパイロットの後ろ姿がよく見える。
ワイパーがフロントガラスの水滴を拭い続けているが、雨なのか、船体が巻き上げる飛沫なのか判然としない。
前方に巨大な貨物船が姿を現し、衝突しないかと少しばかり緊張したが、ホーバークラフトは進路を変えて充分に間隔を保ちながら、事もなげに追い抜いていく。

水陸両用で、他の乗り物では航行が困難な浅瀬や湿地でも、多少の凹凸程度ならば走行できること、水中や地表の環境に与える影響が少ないこと、通常の船舶より遙かに高速であることなどが、ホーバークラフトの長所であるが、日本の定期航路では、主として高速性と話題性を買われたのであろう。
逆に、浮上と推進に大量の空気を送り続けるため、騒音と振動が大きく、多大なエネルギーを消費して燃費が悪いことは、乗ってみれば容易に察しがつく。
他にも、波浪や強風などの悪天候に弱いこと、スカート部分など他の船舶にない維持費用が高額になることが短所であり、旅客用ホーバークラフトはコスト重視の世界的な風潮に逆らえず、日本では三井造船が交換部品の供給を打ち切ることを決定したため、平成21年10月31日限りで大分ホーバーフェリーは廃止された。
我が国におけるホーバークラフトの定期航路は消滅したのである。

僕にとっても、大分ホーバーフェリーが、最後のホーバークラフト体験になるのだろうな、という予感があった。


前方に国東半島の青い山並みが見えてきた。
空港は半島の先端に近い南岸にある。
徳山からの周防灘フェリーで竹田津港に降り立ってから、数時間ほどで舞い戻って来たことになる。
耳をつんざく航行音が不意に小さくなって、ホーバークラフトは減速した。
30分足らずのホーバークラフトの旅はあっという間で、名残惜しいけれども、乗り心地は相変わらずの凄まじさだったな、と肩の力が抜けた心持ちになる。


だが、大分ホーバーフェリーの醍醐味は、ここからが本番だった。
大分空港の安岐基地は、以前はターミナルビルと離れていて連絡バスに乗り換える必要があったが、その後航走路が延長されて、ターミナルビル近くまでホーバークラフトが乗り入れるようになった。
そのため、陸上の走行距離が大分基地より長くなっている。

「間もなく大分空港に到着致します。しばらく陸上を走行しますが、その際、ホーバークラフトは独特の動き方を致します。安全上、問題ございませんので御安心下さい」

と船内にアナウンスが流れる。
何を言っておるのかと首を傾げたが、舳先を上げて上陸したホーバークラフトは、航走路上で、いきなりぐいぐいと横を向き出したではないか。
あれよあれよと思う間もなく、船体は航走路上を滑りながら、完全に真横になってしまった。
側面の窓に、進行方向の航走路が伸びている。

大分空港の航走路はS字カーブを成していて、ホーバークラフトはドリフトしながら走るのである。


やっぱりホーバークラフトは、見るだけではなく、乗ってこそ面白い乗り物だった。
この旅では、高速バス「別府ゆけむり」号がコース料理で1番の御馳走と思っていたのだが、大分ホーバーフェリーの躍動感溢れる航海は、メインディッシュが2皿運ばれてきたようなものだった。
もう、満腹である。

2日間に渡る、陸海空の乗り物の競演を味わうフルコースの旅も、最後に、大分から羽田への空の旅を残すばかりだった。


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