相性からの話です。

 

「師」と名の付く資格を持ち、専従してきた方々は高齢者介護は根本的に「合ってない」ように思われます。

 

特に真面目でお堅い「師」達は高齢者介護には適していません。

 

 

資格には大きく「師」職と「士」職・「司」職があります。

 

その違いは基本的に「師」職は「業務独占(他の者がその業務を行うことは出来ない)」で、「士」職は「名称独占(名乗る事が出来る。有資格者でなくともその業務内容は他の者でもできる)」、「司」職は「公務員や国家から委嘱された責任者」になります。

 

「師」職はその字が示す通り、「師」としての職権を与えられます。すなわち「師職」だけはただの資格に過ぎないにもかかわらず「権力」を持つ事が許されるのです。このことは人生的に見た場合、大変なハンデを持っています。

 

 

心理的見地から見た場合、その立場は、様々な心理実験で明らかにされているように「元の性格とは関係なく理性の歯止めが利かず、暴走しやすい状態に陥ってしまう」上、ほとんど「全く自覚できない」のです。

 

 

例えば「他人が命令を聞くべき存在である」という致命的な誤解。

 

 

 

僕の知る限り、人間とは人に付き従う事が出来るほど単純ではありません。少なくともそんな人間は僕が見てきた人間像とあまりにもかけ離れ過ぎています。

 

しかし、多くの「師」職はそのことに気が付く事が出来ません。若いうちはまだ良いのです。しかし、長きにわたりそこにしか社会を見出す事が出来なかった師職の場合、「それが社会であり、人であり、世界である」と妄信してしまいます。

 

 

例えば治療側の意識が高い医師・看護師・技師・柔道整復師等々の方たちにとって、病気やけがをなおすことの手助けや、症状を軽快にさせるための行為こそが正義であって、病気やけがが治らない前提には立ちません。

 

同じく指導側の意識が高い教師等は「教え導く」事こそが正義であって、そうした自分たちが間違っている前提では教え導くなどということは出来ません。

 

 

良いとか悪いとかの話ではなく、「師」という立場と「師」という権力に支配されてしまうのです。多くの彼らは「自分は傲慢ではない」と信じ、「謙虚である」と信じ、「優しい人間である」と信じています。…違います。個人はそれを判断することは適いません。判断するのは周囲の人間であって、本人ではあり得ないのです。

 

さらに致命的なのは、「師」職で呼ばれてしまうという社会的な罠です。分かりにくいですが、「個人」ではなく「その立場」としての呼び名を自然と受け入れざるを得ません。つまり、「先生」であったり「看護師さん」であったりです。同じ目線に立つことが社会的に許されていないのです。

 

 

一言でまとめてしまうと「人ではいられなくなる」訳です。自分たちこそが正しく、周りが間違っているという「権力」と「立場」に侵されてしまう。誰かが「そうではない」と諭したとしても、それを受け入れることは困難極まりません。

 

その事がハッキリと分かるのが高齢者介護です。それは「看る」側であっても「看られる」側であってもあまりにも致命的なほどに向いていません。特に「身内のケア」「身内からのケア」に徹底的に不向きです。

 

少なくとも僕が知る限り、真面目で立派な「師」の方々が「在宅介護がとてもお上手」という事例はただの一つも見たことがありません。残酷なようですが真面目で立派な「師」資格の皆様は「自分の身内を見殺しにしてでも誰かの命を助けに駆け付ける」のが日本的で正しく、「例え時代が変わっても自分たちが教え導く」ことこそが正義なのです。

 

切ないほどに「師」職は自分が絶対に正しくなければなりません。前述したようにほとんどの「師」の皆様は自分に奢りはない、と勝手に思い込んでいますが、その時点で大いなる矛盾を背負ってしまいます。結果、派手に口が悪い場合が圧倒的多数で基本「上から目線」しか許されない。むしろ自分たちの言う事を聞かない人は「悪」です。

 

ところが高齢者介護は言う事を聞かないのが当たり前(笑)。そんな基本が「師」資格者にとっては致命的。ほとんどの「師」資格者は全く自覚できていません。労わりのつもりの幼稚語、尊敬のつもりの幼児語、それが職業を通じて身についてしまっています。

 

「いいから云う事を聞きなさい」

「黙ってなさい」

「ダメダメ」

「やめなさい」

…そんな敬語日本語にはないのですが、生き方と立場と権力が自らを支配します。個人のアイデンティティなど「特定集団への帰属意識」に飲まれてしまいます。

 

 

「師」資格のほぼすべての皆様にとって自分の持っている知識技術で「ベストを尽くす」事こそが正義。しかし、高齢者介護は「ベターである」事が求められます。ちょっと見ると「同じだろ」と思われるかもしれませんが、この差は実はとんでもありません。

 

これが徹底されるかされないかで、私的な見解では「介護」ひとつで国家予算に大きな影響を及ぼすであろう程の差があります。具体的には生を「諦めるのか」「諦めないか」、または死と老いを「認めるのか」「認めないか」の違いです。

 

 

昭和生まれの要介護者が増えてきた辺りから、介護の現場は大きな転換を図られてきています。そして今、それ以上の大転換が起こっています。戦後生まれの要介護者の登場です。

 

一言で済ますなら「戦後生まれの要介護者」と「真面目な「師」職」は水と油です。合わないどころの話ではありません。

 

しかし、このことに日本社会も行政も政治もまったく気が付いていません。

 

この事実は、社会保障システムも介護保険制度も揺るがす程の大問題なのですが、その議論すら全く立ち上がらない。

 

「人とは何か」「死と老い」の議論を全く進めてこなかったツケはこんなところにも影を落としているのです。

 

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