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夫が入院中、友達に連れられて整体の稽古場へ行きました。

「整体」と言っても、よく街角で見かけるような
いわゆる"からだの調子を整える整体"とはちょっと違います。

どちらかというと、武道・茶道・書道・・などの「〇〇道」に近いもので
この整体を行うことで「元気になる」とか「何処其処の痛みがとれる」ということはない・・
・・と、先生に言われます。
(でも、元気になっちゃうんですけど・・)

最初に行ったときは、ただただ面白く
行くたびに、自分の身体にこんなものが隠れていたんだ・・という発見があって
気が付けば、あっという間に3年が経とうとしています。


毎月1~2回、稽古や講話会に参加するのですが
昨日の稽古は「見る」ことについてのものでした。

これまで「見る」という行為は、意識のもとに能動的に「見て」いたのですが
そのようなとき、実は片目でしか見ていないというのです。

両目で見る(観ると言った方がしっくりするかな?)のは、常に受動的。
目に入ってくるものを受け入れている状態が、本当に見て(観て)いる状態だと・・。

細かなことは書けないのですが(実のところ、稽古場を出たらほとんど忘れているので)
様々な動法(型)をとったりしながら、目の奥で「観る」経験をすると
本当に目に入る対象物の在り方が変わるのです!!!
いえ、対象物の在り方ではなく、自分の身体の在り方が変わる・・
・・と言った方が正解でしょうね。。


こんな風に
「目には見えなくても、感性を磨けば見えてくるものの中にこそ真実があるのではないか?」と
常々感じているせいか、この年になっても子供並みに新しい発見だらけです(~_~;)

・・いえいえ・・「発見だらけ」などという聞こえの良いことではなく
過ぎ去るものを覚えていられないので、いつも新鮮なだけ・・という方が正解です( ̄▽ ̄)



そんな私。。。
今日読み終えた本に、いたく感動しております!!

大好きな梨木香歩さんの本の中で紹介されていることで知った
森下典子さんの「日日是好日(にちにちこれこうじつ)ーお茶が教えてくれた15のしあわせ」
というエッセイです。


森下さんが学生時代に始めた茶道を通して得た
ご自身の"感覚"を綴っている本なのですが
「まえがき」からちょっと抜粋させてもらいますと。。。


 毎年、四月の上旬にはちゃんと桜が満開になり、六月半ばころから約束どおり雨が降り出す。そんな当たり前なことに、三十歳近くなって気づき愕然とした。
 前は、季節には「暑い季節」と「寒い季節」の二種類しかなかった。それがどんどん細かくなっていった。春は、最初にぼけが咲き、梅、桃、それから桜が咲いた。葉桜になったころ、藤の房が香り、満開のつつじが終わると、空気がむっとし始め、梅雨のはしりの雨が降る。梅の実がふくらんで、水辺で菖蒲が咲き、紫陽花が咲いて、くちなしが甘く匂う。紫陽花が終わると、梅雨も上がって、「さくらんぼ」や「桃の実」が出回る。季節は折り重なるようにやってきて、空白というものがなかった。
 「春夏秋冬」の四季は、古い暦では、二十四に分かれている。けれど、私にとってみれば実際は、お茶に通う毎週毎回がちがう季節だった。
 どしゃぶりの日だった。雨の音にひたすら聴き入っていると、突然、部屋が消えたような気がした。私はどしゃぶりの中にいた。雨を聴くうちに、やがて私が雨そのものになって、先生の家の庭木に降っていた。
 (「生きてる」)って、こういうことだったのか!)
 ザワワッと鳥肌が立った。


この"まえがき"だけで、既にノックアウトです。

「私が雨そのものになる」感覚。。。味わってみたい。。。


その雨の日のことが書かれた本文


 こんなふうに一心に雨を聴いたことはなかった。雨音の密林の奥深く、分け入っていくような気がした。ドキドキする。生々しくて、なんだか恐ろしい。だけど、もっと先へ分け入りたくなる。私は「耳」そのものになった。
 急激に聴覚が膨張するような感じがし、そして、一気に何かを突き抜けた・・・。
 (あっ・・・・・!) 
 一瞬、耳がつまったような感覚があった。
 「ーーーーーーーーーーー」
 突如、ただっ広い場所に、私はいた。
 ここはどこだろう?
 私をさえぎるものは何もなかった。
 手順を間違えてはならないという緊張も、抱え込んだままで常に気にかかっている仕事も、今日帰ったらしなければいけない用事も、何もなかった。
 自分はもっと頑張らなくてはダメだという思いも、他人から好かれ評価されなければ自分は無価値なのではないかという不安も、人に弱みを見られたくないという恐怖感も、消えていた。
 とてつもなく自由だった。生暖かい大粒の雨を、肌に痛いほど激しく浴びているかのようだ。嬉しくて楽しくて、子どものように歓声を上げながら、目も開けられないほどのどしゃぶりの雨に洗われているみたいだ。こんな自由、今まで知らない。
 どこまで遠くへ行っても、そこは、広がった自分の裾野だった。
 ずーっとここにいたし、どこかに行く必要もなかった。
 してはいけないことなど、何もない。
 しなければいけないことも、何もない。
 足りないものなど、何もない。
 私はただ、いるということだけで、百パーセントを満たしていた。


雨の音を本当の意味で体験したことで得られた奥深い感覚が
森下さんの言葉を通して伝わってきます。

そして、「日日是好日」の深い意味に、話は繋がっていきます。


 私たちはいつでも、過去を悔やんだり、まだ来てもいない未来を思い悩んでいる。どんなに悩んだところで、所詮、過ぎ去ってしまった日々へ駆け戻ることも、未来に先まわりして準備することも決してできないのに。
 過去や未来を思う限り、安心して生きることはできない。道はひとつしかない。今を味わうことだ。過去も未来もなく、ただこの一瞬に没頭できた時、人間は自分がさえぎるもののない、自由の中で生きていることに気付くのだ・・・・。

 雨は、降りしきっていた。私は息づまるような感動の中に座っていた。
 雨の日は、雨を聴く。雪の日は、雪を見る。夏には、暑さを、冬には、身の切れるような寒さを味わう。・・・・どんな日も、その日を思う存分味わう。
 お茶とは、そういう「生き方」なのだ。
 そうやって生きれば、人間はたとえ、まわりが「苦境」と呼ぶような事態に遭遇したとしても、その状況を楽しんで生きていけるかもしれないのだ。
 私たちは、雨が降ると、「今日は、お天気が悪いわ」などと言う。けれど、本当は「悪い天気」なんて存在しない。
 雨の日をこんなふうに味わえるなら、どんな日も「いい日」になるのだ。毎日がいい日に・・・・。
 (「毎日がいい日」?)
 自分で思ったその言葉が、コトリと何かにぶつかった。覚えがあった。そこかで出会っていた。何度も、何度も・・・・。
 その時、自然に薄暗い長押の上に目が行った。そこに、いつもの額がある。
 「日日是好日」
 (・・・・・!)
 (毎日がよい日)

=中略=

 「目を覚ましなさい。人間はどんな日だって楽しむことができる。そして、人間は、そのことに気づく絶好のチャンスの連続の中で生きている。あなたが今、そのことに気づいたようにね」
 そのメッセージが、ぐんぐん伝わって胸に響く。
 二本の脚ですっくと大地に立って、全身に雨を受け、世界と対峙しているような気がした。
 深く息を吸い、心の中ではっきりと思った。 
 (今この瞬間の感覚を、忘れずに生きよう!)



こんなふうに、私も日々を生きていきたいです。

今日も明日も明後日も・・・日日是好日♡


日日是好日 [ 森下典子 ]
日日是好日 [ 森下典子 ]





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