今日は弟の命日です。 | 消しゴムはんことシャインカービング うえむらゆみこ

消しゴムはんことシャインカービング うえむらゆみこ

名古屋市出身。独学で彫刻を始め日本ブログ村消しゴムはんこランキングが1位になったことをきっかけに20本のテレビ番組に出演。
年間1500名以上の受講者に指導。毎年東京で個展を開催海外でも展示。日本の美術で受賞。英国王立美術家協会名誉会員。2024年スペインで展示。

こんにちは。

うえむらゆみこです。

 

今日は弟の命日です。

昨年の今日、そのことについて書きました。

よかったら読んでみてください。




(2016年10月13日 記)
すごく昔の話なのですが。
1998年の10月13日。
まだ実家で暮らしている頃、朝食を食べていると当時19才だった弟が私に言いました。

「おまえの前髪今日はまた一段といけてねぇな」

前日に自分で前髪を切りすぎてしまい、いけてないのはわかってたけど人に言われるとやっぱりムカつく。

「うるさい!」といって当時勤めていた銀行に向かいました。


それが弟と話をした最後の会話になってしまいました。



その日。
私は仕事から帰宅し父母妹と一緒にリビングで夕飯を食べたあとお風呂もすませてあとは寝るだけだと自分の部屋でTVを見ていました。
月曜だったから毎週楽しみにしているスマスマを見ていたら自宅の黒電話が鳴りました。

それは弟の彼女からの電話でした。
私も何度か会ったことがあるとても可愛いらしい子でその日もデートのあとで彼女の家まで車で送ったそうです。
彼女の家を出発してからかなり時間がたつのに「帰ったよ」の電話がないから心配になり弟の携帯に電話をしたところ警察の人が出たそうです。
弟が事故にあい救急車で運ばれたから家族に連絡してほしいと警察から言われたそうです。
彼女は非常に動揺していて彼女のお母さんに電話を変わりすぐに搬送先の病院に向かうとのことでした。

私の父母も病院に向かうことになり、妹と私は事故現場に向かうことになりました。
その時はまだ打撲かな~骨折かな~なんて私は思っていました。


事故現場に到着すると弟の乗用車と接触したトラックが横転して通行止めになっていました。
私も何度か乗ったことのある弟の車は人が入る隙間なんてないほど原型はありませんでした…。
私はあまりにも残酷なその事故現場を見たときに。



弟は死んだんだと思いました。



そして強い吐き気が襲ってきて立っていることもできず。
事故の処理など警察といろいろしなくてはいけないのに私は何もできず妹がすべてやってくれました。
そのあとで妹の運転で搬送先の病院に向かいました。
私はとても運転できる状況ではなくて長女なのだからしっかりしなくてはと思いましたが何もすることはできず妹は偉大だなと思います。

私はそれ以来運転ができなくなりました。


そして病院に到着後まもなくして弟の死亡が確認されました。




今朝まで元気だったのに人ってこんなに簡単に死んじゃうんだ。
まだ19才だよ。
健康なんだよ。




そこからはお通夜お葬式などよくわからないまま時間は過ぎていき私たち家族の悲しみが溢れる以上に弟の彼女の泣きすする声がずっと葬儀場に響いていました。


彼女は。
この子はいったいこれからどうやって生きていくのだろうか。
ちゃんと自分の人生を生きてくれるだろうか。
大切な人を若くして亡くした絶望を乗り越える日が果たしてやってくるのだろうか。



そして私はこう思っていました。
こんなに辛い思いをするくらいなら事故にあったのが私の方がラクだったのに。
残されたみんなのことも考えてよ。





私はとても仕事にいける精神状態でなかったのですが勤めていた銀行の支店の行員全員がお葬式に来てくれました。

弟のことは誰一人知らないのに。

きっと私のためにお葬式に来てくれたんだなと思いました。
そして支店長はこう言いました。
「1週間でも1ヶ月でも休んでいいからご家族を支えなさい」



眠ることもできず食事も喉を通らないほど辛くて悲しい日々。
それでも人間はお腹がすく。
生きているからお腹がすく。
食事ができないほど辛い毎日だとしても人間はお腹がすくし眠たくなる。
そしてそんな日々の中でも美味しいものは美味しい。
ご飯を食べればちょっとだけ元気になる。


私は結局1週間休んだあと出勤することにしました。
幸いなことに仕事をしていれば気が紛れました。



悲しみは消えることはなくても時間という処方箋は悲しみを乗り越える術を教えてくれる。



ほんの少しでいいからたとえ1ミリでもいいから前へ進もう。




弟は身長が192センチもあるバスケ選手だったんだけど、亡くなってしばらくしてから地元の仲間たちで「SIN」っていうバスケチームを作ってくれました。
妹と弟の世代のメンバーが中心だったから私だけ年が上だったけど仲間にいれてもらい地元の小学校で週に一回練習してスリーオンスリーの大会に出たりもしました。
チームのメンバーは全員弟と知り合いで私はすごく居心地がよかった。
悲しみを共有できるみんなという言い方は変かもしれないけど。

みんなが弟の名前である「SIN」というチーム名でやっていこう!と言ってくれた時に、前に進もうって思った。

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どんなに辛くて悲しいことがあったとしても。

ほんの少しでいいからたとえ1ミリでもいいから。

昨日より今日、今日より明日。

前へ進もう。



そういう時こそとっておきの美味しいものを食べて昨日より今日、今日より明日、ちょっとだけ元気になろう。


 

 



(2017年10月13日 追記)
今年もこの日がやってきた。
弟が亡くなってからもう19回目の命日になる。

まだ死んだということを受け入れることはできないし、急にただいまって帰ってくる気がするし、元気な弟が19歳のままの姿でいまだに夢に出てくる。

そして、とても苦しい。

カレンダーを見て10月13日が近づくたび、夏から秋に向かう空気の匂いを感じるたび、毎年とても苦しくなる。

でもこのことがあったから私は強くなった。

すごく落ち込むことや傷付くことがあっても、あの時のつらさに比べたら大したことはない。

ちょっとやそっとのことでは動じなくなった。

生きていれば必ず良いことがある。

どんなにつらくて苦しくてもあの時のつらさに比べたら大したことはないってすぐに立ち直れるようになった。

明日何が起こるかなんてわからないから、今日やりたいことは今日中に。

今日伝えたいことは今日中に。

今日彫りたいはんこは今日中に彫ろう!って思っている。

たとえ明日何があったとしても後悔はない。

19年前からそういう風に必死に生きてきた。

 


私は毎年10月13日に弟のお墓に行く。
あれから19年もたったのにまだ車の運転ができないから電車とバスを乗り継いで名古屋にあるお墓に行く。

そして眠っている弟に言う。

「お姉ちゃんは美味しいものをいっぱい食べてとっても楽しく過ごしているよ。消しゴムはんこに出会ってからは特に信じられないようなことが次々に起こって毎日が楽しくて最高に幸せな人生を送っているからね安心してね!」

 

 

 

それで…。

今日は折り入ってお願いがあります。

もう「車の運転したら?」って言わないでほしい。

 

「安城に住んでて車に乗れないなんて信じられない!」

「車だったら便利だよ」

「子供3人もいたら不便じゃない?」

「病院に連れていく時はどうするの?」

「雨の日はどうするの?」

「習い事の送迎は?」

「お母さんはいつになったら運転できるの?」

 

この会話はあらゆるところで巻き起こる。

買い物先、習い事先、学校、喫茶店、ジムで親しくなった人、私が目的地から自転車に乗ろうとしている時、幼稚園にタクシーで送迎していたときなんてすごく頻繁に言われた。

 

運転ができた方が便利。

そんなの自分が一番わかっているよ。

 

すっごい田舎町だから確かに安城に住んでいる人で車に乗らない人は少ない。

でも、あんくるバスという安城市内を走る100円のバスがある。

それを乗り継げば大抵はどこへでも行ける、しかも安い。

子供が小さい頃は双子用のベビーカーを購入して姉妹を乗せてお散歩&運動がてら3キロくらいは余裕で歩けたし。

今は自転車で10キロくらい余裕で行けるし。

習い事は子供といっしょに自転車で行く。

たとえ30分かかってもそれもいい運動。

雨の日はレインコートを着れば全然OK。

最新のレインコートはお洒落だしいい感じに濡れないようにできている。

ベビーカーだってレインカバーを装着すればいい。

病院に行くような体調の悪い時はタクシーを呼ぶ。

子供の幼稚園の早朝・延長保育はタクシーで送迎していた。

タクシー代は月に一万円もかからないけどよくタクシーばっかり呼んでて贅沢って言われるけど、車だってガソリン代や税金、車の購入費だってかかるじゃん。

 

何よりも運転したいと思っているのは私自身。

何度も運転しようと思ったけど、無理だった。

子どもたちのためにも運転したい。

本当に何度も何度も挑戦した。

事故にあうまでは運転はできていた。

いつか運転できるかもしれないと免許の更新はちゃんとしてる。

 

でも運転席に座ったとたん、目の前にトラックがぶつかってくる気がする。

弟が死んだ時どんなに痛かったんだろう、一人の人間が一瞬でつぶれてしまった光景が浮かんでしまう。

深夜のアスファルトに反射したどこまでも続く真っ赤な残酷な海が私を襲う。

 

そんな私でも。

事故以来一度だけ、運転したことがある。

家族で釣りに行ったとき、チビ達がトイレに行きたいと言い出して…。

広い駐車場だったしトイレのある場所まで直線だったからチビ3人を乗せて運転席に座った。

やっぱりすぐに気分が悪くなった。

でも我慢できないっていうから何とか頑張ってトイレまで死に物狂いで運転した。

 

結局私はトイレで吐いてしまった。

やっぱり無理だ。

ここまでして運転しなければいけないのだろうか。

 

運転できないことに対して不自由はしていない。

今住んでいるところだって駅の近くだ。

 

その点、東京はいい。

私は東京で一度も言われたことがない。

運転するのかしないのか聞かれることもない。

なぜ運転しないのか問い詰める人は東京にはいない。

イベントや講習会場は関東だったら必ず交通機関で行ける。

こっちみたいに車でしか行けないところなんてない。

運転できないことに対して「練習した方がいい」としつこく言われることも多々あってそのたびに私はいっそ東京に引っ越してしまいたいと思うほどだ。

 

 

それもこれも全部弟のせいだ。

何の前ぶれもなく突然勝手に死んでしまった。

残された人たちがどんなに苦しい思いをしているのかわからせてやりたい。

 

だけど、わからせてやることさえできない。

 

もう一度会うことができるなら言いたいことは山ほどある。

もうどうしようもないけれど生きていてほしかった。

 

ただただ、生きていてほしかった。

 

今年も10月13日という今日という地獄のような苦しい一日を過ごすんだ。

こういう時こそとっておきの美味しい物でも食べて。

生きるためには食べなければいけないから。

だから

苦しい苦しい一日を過ごそう。

そして。

生きているということに感謝をして。

 

とっておきの美味しいものを食べて、明日はちょっとだけ元気になろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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