P6030232  典型的とはいえない
 特急“サロベツ”が南稚内を出てから旭川に着くまでの間に停車する駅は、豊富、幌延、天塩中川、音威子府、美深、名寄、士別、和寒。

 列車を下りたのは十二時過ぎだった。プラットフォームに下り立つと、僕は思い切り体を伸ばして深呼吸をした。肺が縮み上がりそうなほど空気は澄んでいた。太陽の光は暖かく肌に心地よかったが、気温は札幌より確実に二度は低かった。
 線路沿いに煉瓦造りの古い倉庫が幾つも並び、そのわきには直径三メートルはある丸太がピラミッド型に積み上げられ、昨夜の雨を吸い込んで黒く染まっていた。我々を乗せてきた列車が出発してしまうともうあとには人影もなく、花壇のマリゴールドだけが冷ややかな風に揺れていた。
 プラットフォームから見える街は典型的な小規模の地方都市だった。小さなデパートがあり、ごたごたとしたメイン・ストリートがあり、十系統ばかりのバス・ターミナルがあり、観光案内所があった。見るからに面白味のなさそうな街だった。
 「ここが目的地なの?」と彼女が訊ねた。
 「いや、違うよ。ここでもうひとつ列車を乗り換えるんだ。我々の目的地はこれよりずっと小さい街さ」
 僕はあくびをしてからもう一度深呼吸をした。
 「ここはいわば中継点なんだよ。ここで最初の開拓者たちは東に向きを変えたんだ」
   (村上春樹「羊をめぐる冒険」(下) 講談社文庫:95~96p)


 写真のマリーゴールド(黄色い方である。念のため)は自宅近くの歩道を撮ったもの。
 宗谷本線沿線とはまったく関係ない。
 なんとなく夜の滑走路の誘導灯を連想してしまう。私は。

 さて、上の文で、“僕”が駅のホームに下り立った(降り立った、じゃないのだ)駅は、場所的に美深駅だと想像されたり、考えられたり、結論付けられたりしている。

 ただし、美深は地方都市というほど大きくないし、たぶん小さなデパートはないような気がするし、バスの路線も10系統も全然ないと思われる。
 
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  旅のお供はサッポロビール(と冷凍ミカン)
 ところでどこの駅の電柱や柱に取り付けられている、縦型で紺の字に白抜きで駅名がひらがなで書かれている看板。広告はすべてサッポロビールだ。いまでは“本場の味”というキャッチフレーズは使っていないが、それほど昔から変わらず広告を出し続けているということになる。毎年広告掲出料を払っているののかどうか知らないが、サッポロビールはたいしたものだ。

 美深を出て、もうすぐ名寄ってときに車内のあちこちで携帯電話やスマホの着信音が一斉に鳴った。と言いたいところだが、微妙に時差があるものだ。私の携帯はヒソヒソブルブルモードにしていたが、ワイシャツのポケットの中で、左乳の上のあたりを刺激した。

 エリアメールだ。
 いったい何が???

 【訓練】名寄市防災訓練避難準備
 【訓練】これは訓練です。
 X月X日午前9時00分、○○地区に「避難準備情報・高齢者等避難開始」を発令しました。
 名寄川が氾濫するおそれにある水位に近づいています。名寄川沿いにお住まいの方のほか、次の方は、避難を開始してください。
 ◆ご高齢の方等避難に時間がかかる方、その避難を支援する方は避難を開始してください。
 避難場所は、○○○○学校を開設しています。
 (名寄市)


 やれやれ……

 けど、避難場所が書かれていないってことは避難訓練ではなく、エリアメールの受信訓練ってことなんだろうか?

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 これまでも何度か書いているように、士別は「羊をめぐる冒険」の執筆にあたって取材した町だという。
 実際ここはサフォークを飼養している。

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 残念ながらこの観光PRの看板の羊ちゃんには、毛並みに星印があるものはいない。

 終点旭川の前の最後の停車駅が和寒。
 それにしてもサッポロビールは実に良く駅の眺めに調和している。
 
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 そして旭川。
 アル中でもないのに手がぶれてしまったが、これが261系車両。

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 スクリャービン(Alexander Scriabin 1872-1915)のピアノ・ソナタ第10番Op.70(1913)。

ScriabinPsonatas トレモロやトリルが多用されているため「トリル・ソナタ」の通称がある。
 が、スクリャービンはこれらのトレモロやトリルについて「太陽の口づけである昆虫たちの象徴」と、実にワケのわからんことを言っている。

 アシュケナージのピアノで。

 1977年録音。デッカ。

 ここにも書いたが、「羊をめぐる冒険」で2人が美深(と思われる)駅から十二滝町に向かうために乗り継いだ列車。

 列車は二両編成で、全部で十五人ばかりの乗客が乗っていた。そしてその全員が無関心と倦怠という太い絆でしっかりと結びつけられていた。(中略)太った中年の女はスクリャービンのピアノ・ソナタに聴き入っている音楽評論家のような顔つきでじっと空間の一点を睨んでいた。僕はそっと彼女の視線を追ってみたが空間には何もなかった (同100ページ)

 あなたもこのソナタを聴いて、太った中年の女の気分に浸ってみませんか?