第624号亀ケ崎城 | 城新聞

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-Japanese castle press-
Trying to find dreams are more precious!
I walk to the horizon and there I find another,
It all seems so surprising and then I find that I know.

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築城年代は定かではありませんが、1478年、大宝寺武藤氏が砂越城の城主である砂越氏に対抗するために築いたとも云われています。1600年代に入るまでは、東禅寺城と呼ばれ、築城から100年あまりは大宝寺武藤氏の支城として機能していました。しかし、1583年、家臣の前森蔵人義長は、主家の大宝寺武藤義氏が越後の上杉氏の支援を得て強権的な政治を行ったことに反発。庄内の領有をめざした最上義光の策謀で内乱が起こると、最上方に組し、主君義氏の居る尾浦城を攻めて義氏を自害に追い込み、以後、東禅寺義長を名乗り城主となりました。しかし、1588年の十五里ヶ原の戦いで、最上氏は大宝寺武藤氏と上杉氏の連合軍に敗れ、この戦いで城主の東禅寺義長も戦死。庄内は本荘繁長の支配を経て上杉領となり、同城も上杉家の城となりました。1600年、関ヶ原の戦いと連動して起こった慶長出羽合戦において、上杉勢は関ヶ原で西軍が敗北したことから庄内から撤退、東禅寺城主の志駄義秀はその後も抵抗を続けましたものの、翌年4月に城を明け渡して米沢に撤退。1603年、徳川幕府の許可のもと、今度は最上氏の城となり、最上義光は東禅寺城に志村光安を城代としました。ちなみにこの時、義光は、酒田港に巨大な亀が上陸したことを吉兆として、亀ヶ崎城と改名したと云われています。当時の文献によると、縄張りは、略方形の郭をを設け、堀で区切って東側を本丸、西側を二ノ丸とし、これらはさらに二重の外堀で囲み、南側に三ノ丸、西側を流れる新井田川を隔てて四ノ丸を設けた平城であったそうです。最上氏改易された1622年以降も、そして一国一城令後も亀ヶ崎は城としての存続が認められ、明治に入り、廃城となるまで城代が置かれました。
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現在、本丸跡と二ノ丸跡は山形県立酒田東高校の敷地となっていて、土塁の一部か残っていました。また、面白いことに三ノ丸跡は亀城小学校、四ノ丸跡は山形県立酒田商業高校と縄張りは3つの異なる学校の敷地となっていました。


【交通アクセス】
JR羽越本線酒田駅から徒歩約20分

【近隣の高校】
山形県立酒田東高等学校

今年、創立97周年を迎えた庄内地域の歴史ある進学校です。卒業生も政治家や俳優、小説家アナウンサーなど多岐に渡り活躍しています。また  「亀城同窓会」と呼ばれる同窓会活動が充実しており、東京亀城会では独立してホームページを開設、運営を行なっており、他にも近畿亀城会など9つの支部が活動しています。