先週から登場の毎週木曜日夜担当となった、若手の期待保守言論人・石川様のコラムです!
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進撃の庶民には、SOJさんを初めとして、寄稿メンバーにも、うずらさんや望月夜さんなど多くの経済通がいらっしゃいます。
ですから、実は経済のことなど何らわかっちゃいない私ごときが経済のことについて何か書くのは大変おそれいることだとは思います。
しかし、国家のことを語るにあたってはちょっとくらい経済のことに言及しなければ格好が付きませんので、今回は経済について。
とりわけ主に「アベノミクス」へ焦点を合わせて書かせていただきます。
◆
まず、自己紹介も含めてあけっぴろげに言えば、私は、
「経済に対して、政府がもっと介入をすべきだ」
という思想をもっています。
経済における政府の役割は、教科書的に言えば以下の三つ。
1 『経済安定化』
(資本主義では貨幣は負債によって創り出されるので、その気分的伸縮によりバブルとデフレによる混乱は必然であるから、この上下の波をなだらかに修正する統治者の役割が必要となる。※これは短期的な話)
2 『資源再配分』
(民間市場のみでは国土計画や交通計画、都市計画、公共施設などが充分に需要されず、資源が配分されないので、統治者としての公的に需要する必要がある。※これは長期的な話)
3 『所得再分配』
(民間市場を放っておくと、地方間、産業間、職種間の格差が広がる。すると、地域や産業や職種や企業で一極集中が起こり国家全体の経済循環を毀損するから、格差を一定水準に抑え、分散を促す統治が必要となる。※これは長期的な話)
です。
で、こうした「経済における政府の機能」は「ナショナリズム」「共通感覚」「各位相の共同体の網の目(文化圏)」というものがあって初めて存立可能なのであります。
たとえば、『新幹線とナショナリズム』という京都大学の藤井聡教授の本があります。
この本では新幹線という大規模な公共事業の原動力がナショナリズムにあったことが描写されています。
また、そもそも藤井教授は、公共事業における社会的ジレンマという理論を各著書でおっしゃっておりました。
社会的ジレンマというのは、
X「長期的には公共的な利益を低下させてしまうものの短期的な私的利益の増進に寄与する行為(非協力行動)」
か
Y「短期的な私的利益は低下してしまうものの長期的には公共的な利益の増進に寄与する行為(協力行動)」
のいずれかを選択しなければならない社会的状況……のことです。
要するに、例えば新幹線を作るという公共の事業は、X「個人の短期的利益には叶わない感じ」があるがY「国家全体の長期的な益」にはなる。
歴史を俯瞰すれば、我々の国家、社会の中でこうした状況が常に存在することは明白でしょう。
で、このジレンマの中でYの方を選択するには、ざっくり言って「政治的な強権性」か「態度変容を促す力学」が必要なのです。
(※つまり、市場の力学だけでは無理ということ)
ですが、近代国家の上で「政治的強権性」を承認させたり、「態度変容」を促したりするためには、ナショナリズムや前近代的な前提が必要でしょう。
これは資源再配分のみならず、経済安定化にせよ、所得再分配にせよ、同様に「経済における政府の役割」が社会的に承認されるためには、ナショナリズムや前近代的前提がなければ不可能なのです。
すなわち、日本文化圏のナショナルなものがあり、そのナショナルな土台に基づいて政府が経済へ強い統治を施し、強い政府の統治の土台の上で初めて市場経済が成り立ってきたというのが、だいたい昭和期までの日本の経済だった。
それを図示するとこうです。
――――――――――――――――
《市場や市民社会》
《ステイツ(政府、統治の状態)》
《ネイション(土地や文化圏の前提)》
――――――――――――――――
で、この一番土台にあるネイションが霧散したので、ステイツの権限も承認されなくなり、結果、市場や市民社会も没落してきたというのが現代経済に対する私の雑感です。
でもこれは、資本主義や民主主義をやる中でほぼ必然的にナショナルなものや前近代が霧散し、故に市場や市民社会の方も必然的に成り立たなくなってきているということなのかもしれません。
つまり、あらゆる近代国家(と言うよりあらゆる文明)は「時間制限付き」であり、とりわけ19世紀以降の日本の歴史を鑑みればそのきらいは多分に大きく、平成に至るにあたってついにその臨界点に達して、順当に経済的にも没落してきたとも言えるかもしれないということ。
その意味では、日本の霧散、自然消滅、ひいては経済的没落も「運命的確定事項」だと言えるでしょう。
また、みんなそのことを薄々感じとっているので、もう誰も本気で日本をやろうなどと思っていないというのが21世紀の日本だったのではないでしょうか。
でも、なんとかこの運命的な没落を遅らせて、せめて
「アメリカが亡びるまでは、日本を存続させる」
というのが我々の想定しうる最上位の価値目的と前提すれば、とりわけ以下のような経済思想が求められると考えられます。
すなわち、
1 狭くなる地球から「天皇を中心とした文化圏(日本)」を守るためだけに、資本主義制度と市民社会的制度の必要性があり、
2 資本主義と市民社会が成り立たつためにも、中央主権的な政府の強い統治権限が必要であり、
3 強い統治権限が成り立つためにはナショナリズムや前近代的な前提が必要である。
という、いわば国家社会主義“的”な思想です。
◆
さて、以上を踏まえてアベノミクスの話に入りましょう。
そもそもアベノミクスというものは、
「デフレ脱却最優先」
と謳って2012年、民主党政権末期の野党自民党の安倍総裁から出てきた政策でした。
つまり、上記で言えば、そもそも
1 『経済安定化』
の話題です。
その点、政府による経済への介入であり、また適切な介入の方向性ではあると言ってよい。
そして、その当初は別に昨今ほど
「規制緩和路線の復活」
の気配は強くなかった。
むしろ、安倍晋三総裁であれ、経団連であれ、規制緩和論であれ、
「民主党政権がひどかったとはみんな思っているらしいけれど、あれは2000年代初頭の弱肉強食的な新自由主義の反動でもあったから、あんまり規制緩和論を強調しては反感を喰うだろう」
という雰囲気は確かにあった。
(※それは、ニホン国民に対する買いかぶりであったことは、のちに判然するのですが……。と言うか、現今の規制緩和論は、2000年代の赤裸々な弱肉強食推奨ではなく、どちらかというとリベラルな、ベーシックインカムのような奇抜な社会保障や、安っぽいヒューマニズムにも迎合した上での自由主義的な文脈……という手管を学んだのであります)
では、アベノミクスとは当初どういう話であったかと言えば、経済政策の
「三本の矢」
という話であったはずなのです。
そう。安倍総裁が当初掲げていた「三本の矢」とは、
1 金融政策(量的緩和)
2 財政政策(公共投資)
3 経済成長戦略(規制緩和or産業政策)
であった。
これは実際、「三本の矢」という言葉の方が先だったのです。
三本の矢に「アベノミクス」という名称を与えたのは朝日新聞でした。
朝日新聞は「レーガノミクス」を用いだして揶揄していっていたのですが、安倍首相はむしろ好んでこの名称を使い出した。
その後、三本の矢の方は忘れ去られても、安倍政権の経済政策が総じて「アベノミクス」と呼ばれるようになったというのが言葉の顛末です。
でも、安倍政権は元々、この「三本の矢」を総動員して「デフレを脱却すること」を「最優先」する……と言って総裁選を勝ち、衆院選を勝ち、再び政権の座に着いたのでした。
◆
ここで言っておきますが、かつての「三本の矢」という段階の話であれば、アベノミクスは「正しい」と言っておくべきなのです。
というのも、政府が短期的に経済へ介入する政策としては、この三つの政策以外考えられないからです。
逆を言うと、「アベノミクス三本の矢からしてダメだ」と言ってしまうと、「政府は短期的にも(デフレ脱却についても)経済に介入するな」と言っているに等しいのです。
だから、アベノミクス批判をする際も、そーゆー乱暴に足を掬われないようにしなければなりません。
とりわけ、これはリベラルに多いですが、ともすればアベノミクスを「安倍政権の強権性のひとつ」として「政府がこんなに経済へ介入するなんてケシカラン」という批判の仕方をする人間が散見されます。
例えば、90年代後半から流行った「日銀の独立性」という話を持ち出して、「日銀総裁のすげ替えは権力の濫用である」といったような。
(※これは別に後述のリフレ派に与しているわけではないのですが、政府国債の発行に伴う金利上昇圧力を、日銀が買いオペによってサポートするという局面が求められうる以上、日銀は政府のコントロール下にあるべきなのです)
加えて、リベラルは、デフレで貧乏人が増えることに対しては、単に「貧乏人が可哀想」という立場だけ堅持して、ベーシックインカム(最低所得保障)など奇抜な社会保障システムや所得再分配政策だけはかしましくのたまうのです。
もちろん、国家全体の経済循環の上でも社会保障や所得再分配政策に相当の重要性があることは言うまでもありませんが、それは重要なもののごく一部分の側面でしかありません。
そして、リベラルの「弱い人が可哀想」は、ヒューマニズムでもってこうしたごく一部の側面を究極的目標に据えて、国家全体の経済循環に考えを及ぼさないものであるから、社会保障論、所得再分配論そのものとしても二流なのです。
さらに言えば、リベラルな者たちからすると、デフレが続くこと、国家の経済が成長しないことはむしろ都合が良い……という事情も知っておくべきです。
何故なら、彼らリベラルの最上の目的は「国家からの自由」であり、国家の経済力が衰えることは喜ばしいのであり、貧乏人が増えることは国家による経済統制権限をはく奪する大義に成り得ると考えているのであり、「金持ちからカネを巻き上げて貧乏人に配る」というストーリーを政府へ請求する自分の仕事も増えるから。
つまり、彼らにとって
「日本国家全員で貧乏になる」(デフレ)
は、ごく望ましいことなのです。
望ましいから、デフレは必然で、逃れようもなく、少子高齢化で経済成長はもうできない……と前提する。
(※正直言えば、私とて「大衆消費社会」「サラリーマン社会」への反発はあるし、「清貧」の美徳はわからなくもありません。しかし、技術文明が不遡及で、我々は封建時代に戻るわけにもいかない以上、狭くなる地球の中で日本文化圏を存続させるためには、日本人が全体として貧乏になってしまったらどーにもならないではありませんか。そして、狭くなる地球の中で日本文化圏を存続させようとしていないのであれば、我々には子供を作る正当性がなくなるのですしね!)
さて、上ではリベラルを非難したわけですが、これは「リベラル!」というリベラルに限らず、日本人のとりわけインテリのほとんどはとりわけリベラルだという自覚なしに、リベラルなのです。
例えば、多くの経済学者や経済評論家がそれです。
21世紀の経済評論家たちは、市場均衡理論を持ち出して
「デフレは問題ではない」
とのたまわってきた。
(※後述するリフレ派はこれには当たらないが、市場均衡を前提にしているという点では同じ)
何故、彼らが市場均衡理論の枠組みの中でとどまっていられるか。
それは、例えばデフレによって国家全体の経済循環の総量が萎んでゆくという現象が起こっても、「それは個々人にとってどーでも良い話であるはずだ」という前提があるからです。
彼らは、無国家、無政治、無統治のグローバルな資源配分(パレート最適)を大義として掲げ、個々人の効用の積み重なったものが地球人類全体の益であるという前提でしつらえられた合理体系(市場原理主義)を信仰し、むしろ「国家としての全体」は萎んでいってもかまわない……どころか萎んでゆくことこそ既得権益(政治)の排除であり、望ましいと考えるわけです。
また、逆に、その信仰が前提として受け入れられるのは、「脱国家的な方向の方が進歩的でよろしい」というもう一つ上の前提があるからでしょう。
だって、その「個々人の効用」という基数化不可に思われるものの価値基準を、「消費者選好」という個人の選択に置くことが社会的に容認されてしまっているのも、
「国家に縛られたくない」
「国家から自由な方が民主的でイイ」
というリベラルな社会規範、前提が敷かれているからに違いないのです。
その証拠に、「市場原理」というものは「経済における民主主義」と呼ばれています。
つまり、市場の消費における価格決定は、消費者一人一人の一票であるという意味で。
そして、消費者の一票一票による価格決定ではない、政治的な価格維持は「既得権益」として「経済における民主主義の敵」と認定される。
すなわち、経済学の「ホモ・エコノミクス(経済人)」という前提の徹底は、丸山正男のようなリベラルが戦後に作りあげてきた「日本文化から自由になる諸個人」という邪悪な方向性を継承しているからこそ、こうも増殖しているのだと見ることもできるのです。
だから、経済学者は、「デフレは問題ではない」と言う一方で、社会保障だけは政府のサービス機能として承認しますでしょう。
つまり、
「僕たちは弱い人が可哀想とは思っているんです」
というエクスキューズとして!
ですから、
「アベノミクスに反対」
という者の大半もアベノミクス以上に間違っているのですよ。
◆
しかし、昨今の状況を見て、「アベノミクスが成功した」と声高に言うのもおかしな話になるのも事実です。
何故なら、アベノミクスが「デフレ脱却最優先」と言って掲げられたにもかかわらず、5年近く経った今もまだデフレだからです。
今年の5月に内閣府で発表された1-3期の成長率では、名目で0成長で、実質で0.5成長だったのであり、つまりデフレだから実質が名目を上回っているという話でした。
そして、GDPデフレータは5期連続マイナスなのです。
つまり、少なくとも一年以上はモノやサービスの価格が下がり続けているということでしょう。
だから今、日本はデフレであり、デフレであるならアベノミクスは成功していないのです。
ただ、その失敗の原因はただ一つで、明瞭です。
「第二の矢、財政政策が足りなかった」
というだけ。
それだけです。
私は「三本の矢」が言われだした2012年末当時、
1 金融政策(量的緩和)
2 財政政策(公共投資)
3 経済成長戦略(規制緩和or産業政策)
に対する組み立ては、二派に分かれるであろうと真っ先にブログに書いた覚えがあります。
三本の矢の組み立てにおける二派とは、
A リフレ政策
金融政策の効果を速めるという意味での財政政策……という経路(※この場合、経済成長戦略は規制緩和に流れる)
B ケインズ政策
財政政策による需要創出と、国債発行を金利の側面からサポートする金融政策……という経路(※この場合、経済成長戦略は産業政策に流れる)
という二派です。
で、アベノミクスに少なくともデフレ脱却(経済安定化)の希望があったのは、「三本の矢」という政策パッケージには、Bケインズ政策の可能性があったからです。
2013年度のみならず、しっかりと国債を発行して公共事業費が「充分に」拡大されていれば、(仮に2013年消費増税が延期されないという歴史がそのままであったとしても)現時点でのデフレ完全脱却の可能性は大いにあった。
逆に、Aリフレ政策というのは、事実上、先ほどあげたリベラルや経済学者と同じ穴のむじななのです。
さらに言えば、このAリフレ政策が進んで、財政政策が顧みられなくなって「規制緩和をサポートする金融緩和政策」という話に至れば、これはもう2000年代初頭に逆戻りです。(※仮に、赤裸々な弱肉強食は復活していなくとも!)
すなわち、小泉政権や第一次安倍政権の頃盛んにされたインフレターゲット論、上げ潮派、と呼ばれる経路と同じ道をたどることとなる。(※実際その顔ぶれはだいたい同じなのですが)
これは言い換えると、
「規制緩和やるけど、資産デフレについては金融緩和でフォローしています!」
というリクツです。
で、この道をたどればみんなまたウンザリして、安っぽいヒューマニズムが流行って、しばらくするとサヨク政権が立って、それが潰れたらまた新自由主義が出て……ということを繰り返すに違いないのです。(※何せ、小選挙区制ですし)
ただ、リフレ派でなければイイというわけにもいかないという注意が必要なのは、リフレ派ではない大多数は、上述の
「デフレは問題ではない」
「少子高齢化で経済成長はもうできない」
という連中だからです。
(※そして、そういう連中もまた、ナチュラルに規制緩和をのたまうわけです!)
だから、リフレ派がいわゆる「時間短縮のための財政政策」を容認した場合、これをあまり無下に扱うこともできない局面があったりするのがややこしいところではあります。
(※これは最近で言うと、シムズという経済学者がそれにあたります。)
でも、それはたぶんに「渋々」で、リフレ派の譲歩は財政政策に何の役にも立たないということは、この5年痛いほどわかりましたけれど。
◆
以上を踏まえて結論を言えば、アベノミクスの失敗の最大要因は、
「安倍首相ご自身がリフレ派である」
ということでした。
いや、正確に言うと、「安倍さんはリフレ派だ」というのは最初から明白だったのですけれど、
リフレ+財政出動
ならば結論としては正しいので、これでなんとかなるかもしれない……という戦いの中で、結果なんとかならなかった、という意味の失敗だったのです。
例えば、これが仮に、第二次麻生内閣であったなら、少なくともデフレくらいは脱却していたかもしれません。
あるいは、東日本大震災もあり、国土強靭化という国土計画があがったのですから、これをもって国民輿論の「態度変容」がなされていれば、財政政策と産業政策中心にしたアベノミクスが生まれていたかもしれません。
しかし、国民全体は、金融政策に対しては容認ぎみであった一方、公共事業に対しては依然として厳しい目を向けてきたし、それは今も変わりません。
態度変容を促しても、態度変容しなかったのですね。
つまり、今回のアベノミクスという壮大な実験でわかったのは、
「国土強靭化」
で態度変容を促しても、ニホン人はもはやナショナリズムを失っているから態度変容せず、
「リフレ+財政出動」
では、結局充分な財政出動がされない、ということでしょう。
だから、デフレという経済安定化の短期の問題だけを考えても、これをどうにかできる政権というのはなかなか難しいように思われます。
唯一道筋が考えられるとすれば、戦争に対して独裁性が求められるのと同じで、「デフレ脱却に対して独裁的に大規模な財政出動を断行する指導者」が成り立つ場合ですが、大衆民主主義の政治力学上、なかなか難しいでしょうね。
なお、今日はアベノミクスに焦点を当てたのでこんな感じになりましたが、その他の領域を含めた安倍政権全体の評価はまた別に論じられなければならないことは示唆しておきます。
(了)
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