『軍隊観と経済観』~石川様寄稿コラム | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日夜は、若手の期待保守言論人・石川様のコラムです!

 

軍隊とは何か?国家のために命をかける組織の論理【ヤンの字雷】

 

上記のヤン様のコラムと絡み合って、高度な論考が展開されております。

 

皆様も今一度、「自衛隊とは?軍隊とは?経済とは?」について、考えてみられてはいかがでしょうか?

 

それでは石川様のコラムをどうぞ!

 

(影法師)

 

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『軍隊観と経済観』~石川様
 
 

 

 先週の私の寄稿記事は、ヤンさんの『軍隊とは何か』という記事とテーマが丸かぶりしてしまいました。

 単に「軍隊とは何か論」とう意味でかぶったということに留まらず、

「自衛隊は日本人の命を守るためにあるのだ」

 という前提では、

「日本人(自衛隊員)の命によって、日本人(自衛隊ではない日本人)の命を守る」

 という矛盾を説明できない……という問題設定も丸かぶりでしたね。



 でも、この命題は非常に重要で、みなさんどう考えているか是非知りたいくらいなので、丸かぶりしてても全然構わないように思われます。

 ヤンさんの記事も面白かったですしね。

 また、ヤンさんの記事を読んでいて改めて思ったのは、軍隊観と経済観というのは極めて思想的にリンクするということです。

 ですから、今日はヤンさんの記事を参照して、「共感できる部分」「異論のある部部分」を提示して、経済思想論へリンクさせてみようと思います。


 ◆


 まず、ヤンさんの論と私の論で共通していたのは、

「軍隊とは『国家』を守るものである」

 という結論です。



 自衛隊が「国家を守る」と認められるならば、「日本人の命によって日本人の命を守る」ということは「国家を守るための手段」という正当性を得るのです。

 もちろんこの場合、「国家を守る」が上位目的だから、シチュエーションによっては政府判断で徴兵や徴用で日本人の生命や自由を没収することもありえるだろう……と、認めなければなりませんけれど。



 逆に、「自衛隊は日本人の命を守るためにある」という、薄く、広く大前提された都合のイイ軍隊観は、単なる「自衛隊員ではない多数の人々の都合」であり、どんなに好意的に言っても「偽善」という他ありません。

 現在の「保守」は、その偽善的前提に立脚して、ほとんど絶滅危惧種の「純粋9条非武装論者」を仮想敵として叩き、自分があたかも軍隊のことを考えているかのような素振りを見せつつ、実のところ「自衛隊員ではない多数の人々の都合」に媚びているだけなのがほとんどです。
(※だから、現在の保守は国家のことを考えているわけではなく、「自分のこと」を考えているだけなのです)

 対して、現在の「リベラル」は、その偽善的前提に立脚して、「自衛隊が日本人の命を守ってくれそうな部分」だけは承認しながら、「国家の姿そのものを守る軍事力と見積られる部分」についての国民動員はさせないために「政府を制限するための護憲」をのたまっているだけです。
(※だから、今のリベラルは理想主義ですらありません。だって、自衛隊が「自分の命」を守ってくれそうな領分においては、むしろ歓迎するのですし。しかも「話のわかるヤツ」ぶって)



 だから、我々はまず

「軍隊とは、日本国民の命によって『国家』を守るものである」

 ということを認めなければならない。

 そうでないなら、純粋9条非武装論で「自衛隊の解散」を主張している方が、現在の保守やリベラルよりまだマシですよ。



 ここまでは、私もヤンさんも同じ思いであろうことは確信するし、またみなさんも否定せざるべからざる道徳というものでしょう。


 ◆


 ただ、ヤンさんの場合は、その「国家を守る」ということの価値付けを、また「個人を単位とした思考実験」によって行っていました。

 そこには、私としては異論があります。



 おそらく、ヤンさんの頭の中には「社会契約説」というものがあったのではないかと思われます。

(私も社会契約説は大学で習ったくらいで勉強不足なので、間違いがあったら言ってください。)

 社会契約説とは、まず「自然状態」という社会的前提がまったくない世界で、個人(自然人)がバラバラに存在する状態を想定する。

 そして、その自然状態との比較で現代の国家に何らかの社会的契約が潜在していると説明しようとするものです。

 ヤンさんのおっしゃっていたのは、ホッブズの「自然状態」=「万民の闘争状態」という想定同じですね。

 つまりバラバラな個人だと人々は争いまくって弱肉強食だから、国家によってそういう闘争状態を回避しているという想定です。

(これに対して、ロックやルソーの社会契約説は牧歌的自然状態を前提とするのですが、それは今日は省きます)


 また、自然状態というのは、現実に存在しないという批判がある一方、

「国家を単位とした国際社会は自然状態ではないか」

 という国際社会自然状態説というものがあります。


 これを合わせると、

1「バラバラな個人状態の弱肉強食を回避するため」

2「国際社会の弱肉強食から国家を守るため」

3「軍隊が必要である」

 と、こういう論理を作り得る。

 つまり、万民の闘争状態、弱肉強食状態を回避することを最上目的として、国家の軍隊「日本人の命によって、日本人の命を守る」ことを大義づける……というのが、ヤンさんの論だったと思います。



 しかし、これにはいくつか問題があるのです。


 第一に、そもそも、これでは「弱肉強食状態を回避すること」に何故価値があるかの説明がつかないからです。

 というより、「弱肉強食の世界がマズイ」と思う常識そのものが国家の歴史に埋め込まれた意識の中で起こっているのであるから、弱肉強食を回避することから国家の価値を演繹するのは、前提と結果の反転とも言えます。

 そして、この反転は、国家の価値をヒューマニズムに置くというセンチメンタルな都合に、足元を掬われていることにもなる。



 第二に、仮に「万民の闘争状態的な弱肉強食を回避すること」を至上目的と設定するとしても、これだと

「国家以上に弱肉強食を回避するのに資する単位が~である」

 という論法に対して無力ということです。

 たとえば、「グローバル資本が、国家よりもローカルにコミットする」と言われれば、これを否定する術がなくなります。

 つまり、「国家」より「国境を越えたによる統治」の方が、「弱肉強食を回避する方法として有用である」という論法に対して、無力なのです。

 つまり、ヒューマニズムを基礎に国家を価値付けると、「国家以上にヒューマニズムを擁護しうるモノ」という提示に対して無力なのです。


 ◆


 その証拠に、社会契約的な論理立てで国家を価値付けすると、グローバリズム、新自由主義に対して根元的に批判の根拠を失うことにもなってしまいます。

 たとえば、新自由主義の理論的支柱で、ジョン・ロールズという人がいます。

 ロールズは、『正義論』の中で「格差原理」ということを言う。

 格差原理とはすなわち、

「社会の最弱者の利益の最大化」

 を正義の根拠におくものです。

 つまり、個々人が社会的にどうなるかわからない「無知のベール」に包まれた初原状態を想定して、その個々は「社会の最強者」にも「社会の最弱者」にもなりえる……と想定する。

 そういう個々が合意しうるルールは、「社会の最弱者の利益の最大化」を考えないわけにはいかない。

 何故なら、自分が社会の最弱者になる可能性があるから。

 そういう個々人による合意に基づくルールの上で「自由主義」を擁護するところに、
「新自由主義」
 の倫理的な根拠があるわけです。 



 そうなってくると、先程の
「弱肉強食を回避するための国家」
 という論法は、
「個人、弱者救済」
 を根拠に置いている以上、
「新自由主義」
 の倫理観を否定できなくなるでしょう。

 また、
「個人、弱者の救済」
 が国家を価値付ける上位価値なら、
「別に必ずしも国家を単位とする必要」
 はなく、
「グローバリズム」
 や、
「対米従属」
 を拒否する根拠も失われてしまいます。

 だって、
「対米従属とグローバルな合意の下での経済の方が、個人、弱者の救済資する」
 となれば、
「国家や国境にこだわる時代は終わった」
 とする方が上位価値に整合するとなる可能性もあるわけですから。

(※もっとも、日本人はもっと狡猾に、幾重も屈服感をゴマカすことに長けていますけれど。)


 ◆


 そうなると、なるほど確かに、安倍首相を筆頭に保守派が「新自由主義的な構造改革」に足元掬われているのは確かですが、

「弱者救済のヒューマニズム」

 をのたまう手合いも、根元的にはグローバリズム、新自由主義者たちと同じ穴の狢だということになってきます。

 だって、それは単にヒューマニズムの扱い方が違うだけで、そして、おおむねそれは単なる「立場の違い」から生じる違いなのですから。

 逆に言えば、グローバリズムや構造改革がマズイのは、それらの前提する
「方法論的個人主義」
 という「個人に価値を要素還元する倫理観」そのものだということになります。

(※これは「核家族」に要素還元しても同じ過ちが起こりますが、このことについてはまた今度)

 方法論的個人主義は、たとえば市場原理主義でも前提されていて、「経済人(ホモエコノミクス)」の前提は、「自然人」と非常に酷似した思考様式だとも言えるのです。



 そこまでくると、「軍隊は国家の姿を守るものである」という軍隊観を、経済観にもリンクさせる重要性がわかるでしょう。

 つまり、経済というのも「国家の姿を保つため」にあるのです。

 みなさんは、「経済」=「経世済民」ということを知っているでしょう。

 しかし、しばしば「済民」のことばかり強調して、「経世」のことを忘れるケースがあります。

 済民を掲げて
「俺の生命と財産を守れ!政府!」
 とやったり、
「俺の貧乏を何とかしろ!政府!」
 とやる請求する心根が入り混じると、それは、
「労働者をコキ使える自由を寄越せ!政府!」
 と請求する連中と変わりはないでしょう。



 そうではなく、「経世」と「済民」はセットなのです。

 国の姿を保つためにも民を済う必要があり、国のすがたを保つような民の済い方が必要である……と、そういう話であるはずなのです。

 また、そうでなければ、我々は、日本経済において地繋がりある各構造を守らなければならないという意味でのナショナリズムを根拠に持ちようがない。

 で、ナショナリズムは「方法的個人主義で価値付けしない価値」として前提するところに意味があるのです。

 すなわち、国家や土地、共同体、皇室などなど、ナショナルな姿そのものに、いわば信仰的な価値がある……ということこそ、最終価値としておかばければならないということです。

 それを、個人や弱者救済という要素に還元して価値付けるのは、軍隊観としても、経済観としても、安倍首相の使う論理と根本的には違いがない……ということになってしまうのですよ。

(※もっとも、ヤンさんは保守派の軍隊観の滑稽さを強調するためにあえて方法論的個人主義を取ったのでしょうから、おそらく上述のようなことは百も承知の上と存じますが)


(了)

 

 

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