「現在の日本人は・・・プロの怠け者です」 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は有閑爺い様の寄稿コラムです!

 



人気ブログランキングへ
 


老いの一徹:「現在の日本人は・・・プロの怠け者です」
 

現在のほぼすべての日本人は、救いようのないほどの怠け者で、その腕前たるや熟達のプロです。
 こう言われると、これまたほとんどの人は「バカを言うな」と怒ると思います。

 しかし、統計値を見る限りこのことは否定のできないことなのです。

 生産の統計ではこのところ20年あまり、伸びを見せていません。昨今は人口の伸びが止まりましたが、それまでは人口は増えていましたので、一人当たりの生産量から見る限り、完全な停滞状態です。
 人と言うものは、今日は昨日より工夫をして働きますので、人口は伸びずとも生産が伸びて普通です。がしかし伸びてはいないのです。出来るのにやらないことを普通は怠けると言います。
 だから、現在の日本人は20年以上にわたり怠け続けてきた、プロ中のプロと言える怠け者の遊び人です。

 なぜ我々はこのような情けない国民になり下がったのでしょうか? それには大きな理由があります。

 大きな理由とは、政府の負債を否定することです。
 すなわち、政府が負債して、得た資金で社会資本を構築することを頑なに拒んでいるのです。そして拒む「言い訳」が、「負債は将来につけを残すことだ」であります。
 政府が負債をして社会資本を構築しようとすると、負債をした分だけ余分に仕事ができますので、その分余計に働く必要があるのです。しかし、負債を拒めば働かずに済みます。怠け者の遊び人を続けることが出来ます。
 「負債は将来につけを残すことだ」と言えば働かずに済みます。怠け者には超便利な「言い訳」で、この「言い訳」は現代の日本人はほぼ全員が使っています。

 逆に政府が負債をすることを認めれば、国民はダム・堤防・防波堤・道路・橋・鉄道・港湾・空港から競技場やスポーツ施設あるいは科学技術の実験設備さらに軍備等々を建設整備するために、今より余計に汗水たらして働かなければなりません。こんなことは怠け者にはできません。
 残された社会資本はこれから日本を背負う若い人にたいへん有益なものとなることは疑いようがないのですが、現在の日本人は己が怠けたいために、そうしたものを残そうとはしません。

 そして、政府が負債をしたことによって構築される社会資本以外に残るものは、「私、日本政府は日本銀行券を借りました。いづれそのうち返します。」という証文だけです。
 怠け者と言うの者は、証文すら残すことを嫌うのです。
 「お借りしました。いずれお返しします」という証文は約1000兆円ほど日本にあり、それが年々増えています。このことは誰も返せと言っていない、つまり証文を握って「金を返せ」と言った人は明治以来一人もいないことを意味しているのです。
 にもかかわらず、返せと言われたらどうしようという妄想にかられ、「私は絶対証文を残さない」と壮大な勘違いをして、怠け続ける道を選んでいるのです。

 怠け者は生きてきた証拠(社会資本や証文を残すこと、仕事をしたという達成感や誇り)を何一つ残さないのが特徴です。すーっと空気の中に消える屁のような人生を送ることが怠け者のやることです。

 しかし、怠けるだけでは退屈になりますので、今の日本人はあることに熱中しています。
 あることとはお金を貯めることです。せっせせっせと貯蓄に勤しんでいます。働きアリは冬を越すために食料を貯め込みます、つまり食べるために貯めているのですが、日本人の場合は統計を見る限り貯蓄は増え続けていますので、貯めるために貯めている状態でしょう。
 貯蓄が目的の貯蓄になっていますので、守銭奴と言える状態でしょう。つまり自ら望んでお金の奴隷になり下がっているのです。

 結局、日本人は自分では自覚していませんが、ビヘイビアから見る限りは完全に怠け者の守銭奴です。

 因みになぜ守銭奴と思われるような行動をとるかなのですが、通貨そのものに価値があると考えている人が多数を占めており、価値のあるものだから貯めておかなければならない、そう考える人が多数いるからです。金をためれば貯めた分だけ経済規模が縮小するのに、そんなことは我関せずです。
 結局、お金を貯めた分だけ働かなくてもよいのですから、二重の怠け者です。政府を縛って怠け者になり、自分を縛って怠け者になっているのです。

 なぜこうした考えを持つ人が出来たかと言うと、経済学を教える人がそう教えた、つまり「貨幣には価値がある」と説いているからです。現代経済学と言うのはレーガノミクス以降に台頭し勢力を得た経済学であり、マネタリストと言われる人たちの主張を大きく取り入れており、経済を語る場合に、まず「貨幣」と言う言葉を口にするのが特徴です。つまり口を開けば「金、金、金」と本当にうるさいことうるさいこと、金の亡者のごときです。
 そして次に、「大事なことは金融だ」と口にするのです。「金融で立国できる」とまで、つまり金の貸し借りこそ経済と豪語するのです。ベニスの金貸しシャイロックをもしのぐさまは守銭奴そのものであり、まさに亡国の所業と言えるものです。

 翻って私が子供のころは、そこらあたり戦災で焼け野が原で、物資の輸送は馬車がやっていました。トラックもあったのでしょうがガソリンが手に入らないため主役は馬でした。早朝に運転手ならぬ馬方さんが裸馬を引いて飼葉屋さん、今で言うガソリンスタンドに集まってきて、お茶を飲みながら一時を過ごし、馬の背に飼葉をのせて仕事に赴く、といった光景がごく普通にありました。
 その頃の経済学はマルクス経済学が主流でした。マルクス経済学は生産をなしそれを分配するのに貨幣は不要と言う立場であり、レーニンは「金(本位通貨である金属の金)で便所を作ってやる」とまで言ったとされています。つまり当時は「貨幣」を蔑視する人が多かったのです。考え方が異なればこれほどの差があるのです。
 また、当時の実業界では取引の大部分を約束手形という私的な借用書で行っていましたので、通貨と手形の差は信用度のみと言った認識でした。つまり「通貨は借用書である」と正しく理解していたのです。借用書の数など問題でなく、借用書の裏にある取引つまり生産活動が大切なのだ、と皆が認識していたのです。
 さらに、商取引の中心が東京に本格的に移行したのは敗戦後であり、馬車が活躍していたころは大阪での商取引はまだまだ大きなものがあったのです。大阪は江戸時代から取引は手形で行うものでありましたし、手形とは紙切れだと誰もが認識しており、手形自身に価値など認めていませんでした。「生産の約束」に価値があっただけです。

 「生産の約束」を果たすためにやることはただ一つ働くことです。働くことで役に立つものを作り、それを引き渡すことです。
 「約束する」と書いた紙切れを束にして貯めておいても、誰一人その約束は果たしてくれません。それに気づかないのが守銭奴の守銭奴たるゆえんです。
 私がなぜ敗戦後の日本の輸送事情を述べたかと言うと、そうした劣悪な輸送状況を現在のような効率的な状態に作り出したのは、当時の人が政府の負債を拒否したのでもなく、お金を貯めたのでもなく、ひたすら働きぬいたからだということが言いたかったためです。

 私は日本国民に、「自分たちが今していることは、怠惰に時を過ごし、閑があればお金を貯めることを考える、そんなさもしい人生を送っているのだ」、ということに早く気付いてほしいのです。早く目を覚まし、勤勉を美徳としていた昔に戻ってもらいたい、そう願うのみです。
 


発信力強化の為、↓クリックお願い致します!

人気ブログランキングへ