「知りえないもの・・・日本経済を支える通貨量」 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は有閑爺い様の寄稿コラムです!

 



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老いの一徹:「知りえないもの・・・日本経済を支える通貨量」

 

 先だって、secretary-of-japan 様が寄稿された「いわゆる日本の借金問題」(続編を含む)で、私は大変無礼なコメントをさせていただきました。まずもってそのことに対しお詫び申し上げます。
 また、コメントに対しては懇切なご回答をいただきました。感謝申し上げます。

 その上で、通貨に関して次のような回答をいただき、ある種の感慨のようなものが湧いたことをお伝えしたくなりました。

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一般的な通貨量を示すM3は、金融機関発行のCPも含みませんし、一番広く取る広義流動性でも民間の非金融法人の発行するCPを含みませんから、この意味では現在経済学は正確に通貨量を認識出てきていません。
CPの発行量は減っていますが、その分、より捕捉しにくいビットコインなどの取引が増えていっていますから、通貨量を国家がコントロールできないというご指摘も正しいのではないかと存じます。 
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 私はエンジニアとして現役時代を過ごしましたし、経済学はずぶの素人ですが、少なくとも高度成長やバブル経済を経験の事実として持っています。その体験から、現代経済学が主張することの違和感は常に感じていました。
 その違和感の大きな部分が「貨幣論」と「金融論」です。ともに「お金」の話なのですが、私が現役の時代は、経理上お金のやりくりは問題だったでしょうが、そんなことは技術的な問題であり、本質的な要素は皆無でした。
 その経験から、日本経済を支えるに足る通貨量など誰にも分からない知りえないもの、通貨量など国がコントロールできない、と考えていました。なのでそもそも「貨幣論」「金融論」など経済とほぼ関係のない話なのに、というのが違和感の主たるところでした。

 拙ブログやコメントで「通貨量」のことに対し、私の考えを述べることはこれまでもあったのですが、その時に反論や異論をいただいたことはなく、「貨幣論」「金融論」など単なる言葉の遊びだったのか、とまで思っていました。

 この度、secretary-of-japan 様から上記のような回答をいただき、やっぱり通貨量は知りえないことだったのだ、と意を強くしました。
 と同時に、昔拙ブログで経済を計測・計量の観点から述べたことを思い出しました。その全文を紹介したいと思います。(一部「てにをは」の修正はしております。)

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経済学の不思議

 工学を学んだものからみると、経済学の現在の主張は奇妙奇天烈としか言いようがありません。

 少なくとも経済は数値を使って論じ得る部分が多くあります。また、思索思弁の対象というよりはインプット・アウトプットが比較的明瞭であるので、観測可能な対象だと思います。
 ですので、いわゆる哲学的思考で論じるものでなく、実験的実証をもって論じ得るものだと思います。
 事例が存在し、それを実証的に分析し得るわけですので、少なくとも経済関連の数値の観測あるいは計測方法は共有しないといけないでしょう。

 しかし、主流派経済学がケインズ経済学を葬り去るときに用いたデータとその分析手法は、今既に忘れ去られた感があります。
 しかし、分析の結果得られたと称している結論は非常に強固で、ある種の教義にまでなっています。
 例えば、ミルトン・フリードマンの唱えた「経済生産より早いペースで貨幣供給量が増えることによってのみ生まれ得るという意味で、インフレーションとはいついかなる場合も貨幣的現象である」が上げられます。この説は「デフレは貨幣現象である」との公理(結局は仮説のことです)にまで発展したものですが、突っ込みどころ満載の駄論です。

 まずは「経済生産より早いペースで貨幣供給量が増える」とは具体的にどんなことなのか?
 工学を学んだものからすると、「経済生産より早いペース」について、以下のような突込みが出来ます。
 「経済生産より早いペース」は何を観測すれば掴めるのかが、明らかである必要があります。
 はっきりしないと、議論は進みません。出だしが肝心なのですが、それすらはっきりしないのですから「駄」としか言いようがありません。
 その場合に「早いペース」の早い遅いを判定する閾値は、観測誤差をどう評価するのかを含めて、明らかである必要があります。そんなものは勿論示されていません。
 「貨幣供給量が増える」についても当然いろんな突込みが出来ますが省略します。三橋先生のブログエントリー「続 空論の経済学」でこの点の一部を取り上げられていますので、事の根深さが分かると思います。

 このように学問の成果としての結論としては「駄」の一言で切って捨てられますが、教義としては十分すぎるほど機能しています。なので、これを信奉する人達が「経済学者」なのです。そこが「経済学」の不思議なところです。

 この不思議はどうして生まれるのか?
 私は「主流派経済学の教義を信奉することが生活の糧である」状態こそが不思議の根源である、と思っています。
 「デフレは貨幣現象である」を信じないことには、学位は得られないでしょう。大学の教職にも就けないでしょう。そう信じる人を再生産することこそ俸給であるわけです。
 従って「経済学者」は、実体経済が自分たちが主張した通りになっていなくとも、そんなことはどうでもよいことなのです。

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 「通貨」を論じるなら「必要な通貨量」を知ることが大事なことだと私は思います。それを知りえない状態で放置できるということは、「通貨」および「通貨量」など経済にとっては副次的な話と考えてよさそうです。
 もしそうでないなら、私が上記の文で指摘した次の文言が役に立つと思います。

 『事例が存在し、それを実証的に分析し得るわけですので、少なくとも経済関連の数値の観測あるいは計測方法は共有しないといけないでしょう。』


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