貨幣=借用書・金融不安定性仮説・政治という道徳的行為【ヤンの字雷】 | 進撃の庶民 ~反新自由主義・反グローバリズム

本日は、ヤン様の寄稿コラムです!

 

本コラムにある、「政治とは道徳的行為であり、資本主義の欲望を制御する行為」という言葉が素晴らしすぎます。

 

この言葉を理解している政治家が日本にはいったいどれほどいるんでしょうか?

 

激動の時代の今、日本を、そして日本人を第一に考える政治をするしか、私達は生き延びられません。

 

ヤン様のコラムを読んで、同じように考える日本人が一人でも多く増えていくことを願います。

 

それではヤン様コラムをどうぞ!

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貨幣=借用書・金融不安定性仮説・政治という道徳的行為【ヤンの字雷】

異端と呼ばれた経済学者、ハイマン・ミンスキー

 本日は貨幣=借用書という定義をさっと復習した後に、資本主義経済において実は2つの異なる性質の市場が存在するという話をしてみたいと思います。

 

 貨幣とは「債務と債権の記録」であり、これが特定の地域、共同体などに流通すると流通貨幣、略して通貨と呼ばれるようになります。貨幣論を語る際に例えば「徴税こそが貨幣を通貨たらしめる力の源である」という租税貨幣論、もしくは信用創造における万年筆マネー(※1)、もしくは資本主義の発展の源泉は債務であるという本質論、もしくは現代通貨(不換紙幣)の価値の源は国力であるという話。

 これらは色々と触れなければならず字幅が足りないので、さっと上述したように記しておこうと思いますが、下記に非常に端的に表現しようと思います。

 「国内での通貨の移動は(帳簿的)記録にしか過ぎない(※2)」

 

※1 万年筆マネー:端的にいえば万年筆で書類に書き込めば、それで信用創造が完了する。通貨が生み出せるという銀行の仕組みです。銀行の貸出は、借り手の返済能力に左右される。預金には左右されないという話。ジェームス・トービンが提唱した論。

※2 あくまでマクロで見た場合。記録にしか過ぎないので、通貨(借用書)を使用して何をするのか?が重要という話。例えば公共事業、もしくは社会福祉等々。逆に国債を仮に大量発行して「株式を買う」「金融で運用する」などは何も生産せず、即ち意味がないでしょう?

 

 さて、1980年代に活躍した正当なケインズ派の、そして当時は異端と呼ばれた経済学者ハイマン・ミンスキーという人がいます。彼が提唱したのは金融不安定性仮説というものです。

 ハイマン・ミンスキーは当時、そして今の主流派経済学者が唱える「市場は1つ」という議論を否定し、「市場は金融市場(金融経済)と商品市場(実体経済)の2つ存在するし、それぞれ性質が異なる」と定義しました。どういうことか?

 

 主流派経済学の貨幣観は端的にいえば「貨幣も商品である」「従って生産した財・サービス(商品)と、商品である貨幣を交換するのだ」という、突き詰めれば「物々交換経済学」なのです。

 つまり「貨幣も商品である」から「金融市場も商品と商品が交換される市場」であり「つまり実体経済、金融経済という区分けはありえない」ので「市場は1つ」と仮定するわけです。

 

 しかし歴史的に振り返っても、金融市場は主流派経済学の言うように均衡しないし、むしろ数々の金融危機から不安定であるのは明明白白です。

 2003年にルーカス批判で有名な主流派経済学者、ロバート・ルーカスが勝利宣言をしました。この内容は「もはや経済学の理論の通り、金融危機や恐慌は起こらない!」という滑稽なものでした。なぜならばそのわずか5年後にリーマン・ショックという大規模な金融危機と静かなる恐慌が起きたのですから。

 

 翻って1980年代に金融不安定性仮説を提唱したハイマン・ミンスキーはどうか?1980年代といえばまだ、新自由主義とグローバリズムに世界が舵を取り始めたその時ですから、この時代から「金融市場はバブルと崩壊を繰り返す不安定性を有している」と喝破したのは慧眼というほかないでしょう。もちろんながら彼の貨幣観は現代貨幣論(MMT)、国定信用貨幣論に則ったものでした。

 2008年のリーマン・ショックのときにウォール街の住人が密かに「ミンスキー・モーメントだ・・・」と異端と呼ばれた経済学者の名を思い出し、つぶやいたのだそうです。

金融不安定性仮説

 ハイマン・ミンスキーの金融不安定性仮説は池田信夫さんに言わせると「素朴すぎる理論」であるそうです(笑)池田信夫大先生は恐らく、難解で理解しがたい理論を信奉されているのでしょう(笑)

 金融不安定性仮説の金融市場のサイクルの骨子は以下のようになります。(Wikiより)

①調子のいい時、投資家はリスクを取る。

②どんどんリスクを取る。

③リスクに見合ったリターンが取れなくなる水準まで、リスクを取る。

④何かのショックでリスクが拡大する。

⑤慌てた投資家が資産を売却する。

⑥資産価格が暴落する。

⑦投資家が債務超過に陥り、破産する。

⑧投資家に融資していた銀行が破綻する。

⑨中央銀行が銀行を救済する(‘Minsky Moment’)

⑩1に戻る。

 もう少し端的にも表現できます。

1)投資家(投機)は欲望にかられてリスクを取り、最終的にチキンゲームを繰り広げる。

2)何らかのショックで暴落。慌てて売却するので余計に暴落する。

3)融資していた銀行に不良債権がかさばり、中央銀行(および政府)が救済せざるを得なくなる。以下、1)に戻り無限ループ。

 

 この前提条件は上述したように「金融市場(金融経済)と商品市場(実体経済)が別々のものである」ということが定義されています。

 しかし別々のものであるのですが、バブルが起こるときには実体経済には影響が大きくなく、バブル崩壊をすると多大な影響を及ぼすという性質を持つことには注意が必要です。

 これは歯車(実体経済)と潤滑油(金融経済)の関係に例えるとわかりやすいでしょう。機械の歯車はある程度の潤滑油が必要になりますが、潤滑油が大量にあるからといってその動きがどこまでも滑らかになるものではありません。しかし一転、バブル崩壊という潤滑油の不足の事態になると歯車と機械そのものも動きを軋ませるというわけです。

 これはつまり、本来は実体経済が主であり金融経済は従であるというわけです。

 

 さらに論考を進めると、資本主義とは実体経済と金融経済という性質の違うもの、いわば別々の動きをする歯車の上に立脚しているような不安定なものであるという結論にたどり着きます。

 なぜならば商品市場というのはある程度均衡しやすく、安定性もあるのですが、金融市場というのはハイマン・ミンスキーの喝破したとおりに不安定でその速度を上げたり、落としたりするものです。

 簡潔に申し上げれば何も生産をしない(本来は)潤滑油のくせに、人の欲望、金を得るというその目的に突き動かされ、それを政治が容認することでその上に立脚する資本主義というものも不安定化するというわけです。

 

 このように考察していくと、新自由主義やグローバリズムが信奉する「小さな政府」、つまりは政治が市場に出来る限り関与しないという理論は、資本主義を不安定にするだけのものであったという帰結にたどり着くわけです。

政治とは道徳的行為であり、資本主義の欲望を制御する行為

 政治とは道徳的行為であると定義するとすると、これが唯一資本主義の暴走を抑える抑止力たり得ると、上述した論からは帰着します。

 資本主義そのものは際限なく債務を拡大して成長する経済主義でありますが、その原動力は人の欲望に依拠しています。

 「もっと良い暮らしがしたい」「お金をもっと欲しい」「ブランド物が欲しい」etc...

 

 しかしこの欲望を制限なしに放置すればそれは即ち、際限のないバブルと崩壊を繰り返して非常に不安定かつ弱肉強食な世界をこの世に顕現させるでしょう。いえ、もうすでにアメリカなどでは顕現していると思われます。

 トップわずか8人のもつ富が、世界のボトム5割(35億人)のもつ富と同額である(!!)というその事実自体が、すでにそうなっているという証左です。

 

 そして歴史的に見ても資本主義が不健全かついびつ、ある意味での「純粋な資本主義」「欲望丸出しの資本主義」になったときに、その富は金融市場に流れ込み、そして不安定性を増すというのは産業革命に依るイギリスの興隆と、その後の凋落の歴史からも見て取れますし、または現在の先進国となった国家の殆どがその過程において”保護主義(資本主義の制限、規制)”を選択肢たことで台頭した、という面からも「純粋な資本主義はマズい」というのは反証可能でしょう。

 これはハジュン・チャンという経済学者の統計(グローバリズムが台頭する前と後)によって、世界経済の成長率がどのように鈍化したのかでも明らかです。

 つまり「政治という道徳的枷のない資本主義は、暴走する。不安定化する、不健全である」のであり「資本主義が健全であるためには、政治の枷が必要である」のです。

 

 そしてもう少し大きな視点、つまり国際政治学的な視点で俯瞰してみますと、国際政治学の基本原則として「世界は無政府である」というものがあります。これは外交などに関して「主権国家にこそ、その決定権がある」という話なのですが、経済的に見ましてもグローバリズムがマズいのはまさに「世界は無政府である」という点なのです。

 つまりはグローバル企業が国家を飛び越えて動き出し、金融が国家を超えて動いているが、これをコントロールする術は世界政府などないのであるから、つまりは存在しない。

 よってグローバリズムというイデオロギーによる経済の実態とは、暴走する資本主義であると定義可能なわけです。

世界に何が求められているのか?

 資本主義は債務を際限なく膨らませて経済成長する経済主義であり、そしてそれには政治という道徳的枷、規制が必要である。

 なぜならば金融市場は不安定なものであり、金融市場と商品市場に立脚する資本主義そのものが不安定性を内蔵しているシステムであるからだ。それを安定させるのが政治の役割であるというところまでを論じてきました。

 そして世界政府など存在しないのであるから、資本主義は主権国家の枠内である程度コントロールされるべきであるというわけです。

 

 であるのならば、世界は何を向き合わなければならないのか?日本は何をどうすればよいのか?という問題ですが、これは明確に「経済も含めた国家への回帰」であり、グローバリズムの果には問題の解決手段はなく、従って破滅的結末が待ち受けるだろうと解釈可能です。

 国家への回帰とは言い換えれば、ナショナリズムの復活、回帰とも表現可能でしょう。

 これは論理的な結論であるだけでなく、すでに世界で起こっている”民衆の本能の現象”でも支持をされるであろうことは明らかです。

 イギリスのブレグジット、トランプの大統領就任、欧州における移民制限を掲げる政治勢力の台頭。これらはすべて暴走する資本主義への、民衆の抵抗と共同体への回帰という解釈が可能であるのですから。

 

 本日は大雑把に貨幣=借用書であり、金融市場と商品市場は異なる性質であり、それに立脚する資本主義の不安定性および、それを安定させるための政治という役割、これらを一通り論じてみました。

 全体を俯瞰することで見えてくることもあろうと思いますし、また私の個人的な理解の仕方というのもそれと同様なので、多少でも議論の役に立てば幸いです。

(了)


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