昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

増補修正版24. 国の終戦前後(14-4)

2014-10-24 | 昭和初期

  傷痍軍人 ひと通りの多い所では傷痍軍人が2~3人で物乞いをしている姿も常だった。腕に赤い赤十字の記号の入った白衣を来て、松葉杖をついたり、眼帯をしていたりして首から紐で胸の前へ吊るしたボール箱に硬貨などを入れてもらっていた。何年かすると、偽物がいると言われるようになって間もなく、どこからも姿が見えなくなったように思う。 傷痍軍人とは限らないが顔や腕が焼けて白く膨れあがったケロイドのひともよく見かけた。もちろん、ほぼ全員が焼夷弾の燃えている油脂を浴びたひとだったろう。当時、どこかの女学校で、腕にケロイドのある学友のために、全校生が夏にも長袖の制服を着用することにしたことが美談として報道されたことだった。

 

  物価急騰 昭和20年8月の敗戦以降、多数の外地からの引上げ者流入等も原因して食料不足は更に増大して、小売物価は4ヶ月後には2倍、6ヶ月後には約3倍に、2年後には数十倍となった。

少し脱線するが、第1次大戦後のドイツのインフレは更に凄まじかったようで、小学校の時に級友O君からもらった百枚を超える郵便切手(全部無スタンプ)は加刷切手と呼ぶらしいが、元の切手の上へ初めの料金の“0”の数を9桁も12桁も増やした額を、色を変えて重ね刷りしたものである。物価が1兆倍も上がって、実際に使用されたのか、上がるのを見越して準備したが、その前に敗戦したかは知らない。ドイツは支払不可能な賠償金を課せられたためのハイパーインフレを物語る典型的な証拠品である。この先例から日本へは賠償金が課せられなかったことは有難かった。

 

日本の戦後5年間は大不況とインフレとが同時に起こるスタグフレーション状態となり、治安の悪化や社会混乱が続き、食料不足から多数の餓死者も出た。その5年間で、小売物価が、物によって違うが敗戦時の約百倍となるというインフレに見舞われた。しかし、前記したように戦勝国が賠償金支払いを免除してくれたり、昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、米国の政策が、日本をソ連や中国など東側国との間の砦とする方針に変化して、日本を大支援し始め、日本のスタグフレーションは終了したので、日本は幸いハイパーインフレにはならなかった。私より2歳上で、当時から町工場を経営していた、後になっての友人が、その頃三輪車を造っていて毎日バケツに一杯札が詰まって笑いが止まらなかったと何度も聞かされた。札とは昭和25年1月発行の聖徳太子の肖像画の千円札のことだ。その頃、公立中学校教員3年目(昭和25年)と4年目の私の月給は、それぞれ、聖徳太子5枚と7枚とであった。
 

 人間宣言 終戦の翌年元旦に発布された詔書の後半に、昭和天皇が現人神(あらひとがみ) であることを自ら否定したと解釈される部分があり、以後、その部分を指してマスコミなどが「人間宣言」と表現している。

 

 旧円封鎖 臨時財産調査令によって、翌年3月3日午前零時現在で財産調査を行い,財産税算定の基礎とする。昭和21年8月21日の軍事補償打ち切り対策により,原則として3千円を超える部分の旧円預金は支払いを凍結され(第2預金封鎖)、最終的には財産税が課税されることになった。

22年11月には財産税法を公布し,10万円以上の財産を保有する個人に課税されることになった。その税率表の一部を掲げる。
  10万円を超える金額 5%  11万円を超える金額 30%  12万円を超える金額 35%〈中略〉 500万円を超える金額 85%  1500万円を超える金額 90%

ただし、複数の銀行に預金していた場合は各銀行について行われた。

 

日銀が発行紙幣を大幅に増やした事もあって、さらに急速にインフレが進み、農産物などは殆ど物々交換でしか入手出来ない状況となった。それらにより、戦時国債等は紙切れ同然になり、0.1%以下といわれるドルを持っていた人を除いて、ほぼ100%の人が殆どの財産を失った。  

 

  為替レート 簡単に記すが、戦前のそれは 1ドル=2円、1ポンド=10円 と学んだと記憶する。(ネットでは確かめられなかった)戦後の日本は貿易自由化を目指し、1ドル=360円 の固定相場制をとった。これは昭和48(1973)年まで続き、変動相場制へと移行した。

 

  買い出し 昭和16年当時はこの配給量の不足分を補う為のパン、ウドン、ソバなどの食料品の入手も可能だったが、その後日常生活に欠かせない生活物資はすべて配給制となり、主食の米に次いで調味料、魚介類、肉はもとより野菜まで、口に入る物は全て配給制度に組み込まれたので、余分な食料品の入手ができなくなった。配給は政府の命令で結成されていた隣組を通じて行われた。食糧は正規の配給だけではとてもたりないので、国民の多くは筍生活をしながら農家へ買い出しに行くことを繰り返したことや、この帰りを警察官が駅などで待ち伏せしていて、特に米を没収されたことは前稿でも述べた。没収した米の行方はどうなっていたのだろうか。

 

  


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