昭和2年生まれの雑記帳

一市井人の見た昭和の記録。今は思いも寄らない奇異な現象などに重点をおきます。
       

増補修正版24. 国の終戦前後(14-7) 

2014-10-23 | 昭和初期

 

  傷痍軍人 ひと通りの多い所では傷痍軍人が2~3人で物乞いをしている姿も常だった。腕に赤い赤十字の記号の入った白衣を来て、松葉杖をついたり、眼帯をしていたりして首から紐で胸の前へ吊るしたボール箱に硬貨などを入れてもらっていた。何年かすると、偽物がいると言われるようになって間もなく、どこからも姿が見えなくなったように思う。 傷痍軍人とは限らないが顔や腕が赤く焼けて膨れあがったケロイドのひともよく見かけた。もちろん、ほぼ全員が焼夷弾の燃えている油脂を浴びたひとだったろう。当時、どこかの女学校で、腕にケロイドのある学友のために、全校生が夏にも長袖の制服を着用することにしたことが美談として報道されたことだった。

  物価急騰 昭和20年8月の敗戦以降、多数の外地からの引上げ者流入等も原因して食料不足は更に増大して、小売物価は4ヶ月後には2倍、6ヶ月後には約3倍に、2年後には数十倍となった。

少し脱線するが、第1次大戦後のドイツのインフレは更に凄まじかったようで、小学校の時に級友O君からもらった百枚を超える郵便切手(全部無スタンプ)は加刷切手と呼ぶらしいが、元の切手の上へ初めの料金の“0”の数を9桁も12桁も増やした額を、色を変えて重ね刷りしたものである。物価が1兆倍も上がって、実際に使用されたのか、上がるのを見越して準備したが、その前に敗戦したかは知らない。ドイツは支払不可能な賠償金を課せられたためのハイパーインフレを物語る典型的な証拠品である。この先例から日本へは賠償金が課せられなかったことは有難かった。

日本の戦後5年間は大不況とインフレとが同時に起こるスタグフレーション状態となり、治安の悪化や社会混乱が続き、食料不足から多数の餓死者も出た。その5年間で、小売物価が、物によって違うが敗戦時の約百倍となるというインフレに見舞われた。しかし、前記したように戦勝国が賠償金支払いを免除してくれたり、昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、米国の政策が、日本をソ連や中国など東側国との間の砦とする方針に変化して、日本を大支援し始め、日本のスタグフレーションは終了したので、日本は幸いハイパーインフレにはならなかった。私より2歳上で、当時から町工場を経営していた、後になっての友人が、その頃三輪車を造っていて毎日バケツに一杯札が詰まって笑いが止まらなかったと何度も聞かされた。札とは昭和25年1月発行の聖徳太子の肖像画の千円札のことだ。その頃、公立中学校教員3年目(昭和25年)と4年目の私の月給は、それぞれ、聖徳太子5枚と7枚とであった。
 

   預金封鎖 敗戦6ヶ月後の 21年2月に突如、新円切替と預金封鎖及び資産没収のための財産調査が行われ、旧円は約3週間のうちに新円に交換しないと無価値になってしまうことや交換した新円は預金する事が義務づけられた。預金封鎖後は毎月の生活費しか引き下ろせないこととなった新円は印刷しないで、旧円に普通切手大位の藍1色刷りの粗末な証紙を貼るだけだった。その証紙を貼っていない札は通用しなくなったのだ。その頃、私を可愛がってくれた叔母が急死し、相当後になって、そのへそくりが見つかったが全く使えなくなっていて、叔父が嘆いていたのでよく覚えている。預金封鎖が解除されたのはほぼ2年半後の昭和23年年7月のことである。

旧紙幣の失効 その時流通していた紙幣の通用は1ヶ月後の3月2日限りとされた。

  預金引き出し額の制限 封鎖預金からの現金引き出しは、1ヶ月につき世帯主300円,家族1人につき100円とされた。当時の標準世帯を夫婦と子ども1人と考え(実際には子どもはもっと多くいた)合計で500円となり、500円生活(当時では最低限の生活)と言われた。また、事業主の給料の支払いは、1人につき500円までとされた。ちなみに、昭和20年と21年の(インフレ進行のさ中、年内でも変動は大きいが)日本銀行百年史・資料編による消費者物価は次のようである。(1銭=1/100円)

20年--白米10kg 6円、はがき5銭、豆腐1丁20銭、入浴料大人20銭・週刊誌60銭 

21年--白米10kg36円35銭、雑誌中央公論 4円、はがき15銭、公務員初任給:540円

 

 


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