Fish On The Boat

書評中心のブログです。記事、それはまるで、釣り上げた魚たち ------Fish On The Boat。

『ヒドゥン一九九四』 第二話

2017-10-01 18:00:01 | 自作小説5
 帰宅してすぐさまなんとなしにテレビをつけ、予約炊飯で炊きたてのごはんを軽く食べてから、床にごろりと寝そべる。朝のワイドショーに、特に興味を惹かれるトピックはなかった。とあるトピックを解説する出演者の得意げな早口に気だるさを感じる。テレビを消して、カーテンをしっかりと引き眠る準備をする。
 編集部からはまだ何の連絡もなかった。ここをちょっと直そうというメールもない。そのままでオーケーが出てすでに掲載されている可能性もあったが、わざわざ確認する気は起きなかった。
 今回の記事にはいつもより手ごたえを感じていた。記事を書く前段階、リバルブ・ラブのあのライブの要所々々を的確に把握した後、まるごと身体全体で飲みこんで自分のものにした。そのうえで書いた、わかりやすくて会場の熱狂を封じ込めたような内容になっていると自負していた。なにより、不思議とこの記事を書いた昨日は虚無感の襲来がなかったのだ。大きな負の要素がない状態で書けた記事だ、能力を十分に発揮できた満足感があった。
 立ち止まって考えてみれば、これまで、ここまでやりつくした満足感を味わった仕事をした覚えはほとんどない。
 さらに驚いたことに、今もあの執拗な虚無感には悩まされていなかった。いつぶりだろう、というくらい久しくこのような晴々しく温かいこころ持ちで過ごせた一日はない。そう気づいてみると、これから眠るのがもったいない気がしたのだが、しっかり疲労は感じていたから、気持ちよく眠れることを信じてベッドに横になる。
 目を閉じてすぐに、僕は高校のグラウンドフェンスの前の道に立っていた。僕の制服のズボンをつかんで左右に振る林がいる。20センチくらいのネズミだ。蝶ネクタイが自慢の林ネズミが胸を張ってこちらを見つめ、なにか言いたげだ。
「……なんだ?」僕のほうが口火を切った。
「なあ、用意はできてるのかよ。そのために来たんだろうが」
 何を言っているのかまったくわからない。林の、そのネズミのひげがひくひくと動く。
「何の用意だよ」
「はあ?せっかく待っててやったんだぞ、なんて言い草なんだよ。ほら、こっちこいよ」
 林ネズミはいつのまにか十歩ほど前にいて小さく手招きしている。
「じゃあ、行こうか」という声が背後から聞こえてきた。笑顔の鍋島先輩だった。
「え、なんか、これ、行かなきゃなんないんだ……?」とわけもわからない。
 僕は鍋島先輩に腕をひっぱられて、林の後を追うことになった。
 見なれた一本道の左のわき道から、林は住宅地に入る。高校時代には歩いたことのない区域だ。この住宅地に住む友達はいなかったし、僕は徘徊も散歩もしない性質だから、この区域に興味もなかった。先を行く林のしっぽの動きをみていると、彼はたぶんご機嫌なんだろう。気持ちよさげに空中へしなやかに波打つしっぽだった。鍋島先輩から腕をふりほどいて、並んで歩きながら、僕らも住宅地のほうへと道をとった。
「待ってよ!」と女生徒が駆け足でやってきた。あっ、と思う。このあいだ名前のわからなかった、僕のあごくらいまでの背丈の女生徒だ。
 鍋島先輩が、「来たか、みさおちゃん」と手を振っている。みさお、みさお、……覚えがあるぞ、と胸中で針にかかった彼女のフルネームを再生するレコードに耳を澄まそうとすると、
 先輩は「大道みさおだろ?」と僕の表情からこころを見透かしたかのように、あっさり女生徒の名前を教えてくれるのだった。
「あ、大道っ。久しぶり」僕がほっとして言えば、
「このあいだ会ったじゃないの」と大道みさおは軽く頬をふくらますのだった。
 ごめん、ごめん、と謝る。
「謝らなくたっていいけど」眉を下げた大道は、しょうがないなあといった風だが目もとは柔らかい。
「よしよし、みんな揃ったね。ほら、ちゃんとついてくるんだぞ。ひっひっひっひっ……」林は口元を両手でおさえてとても可笑しそうに頭を小刻みに揺らしていた。
 林との距離をずっと十歩ほどの間隔で保ちながら、僕と鍋島先輩と大道みさおの三人は住宅地の奥へとどんどん進んでいく。
「いったいさあ、どこへ行くっていうんだろ。まだなのかな?」二人にそう問いかけると、二人は目をあわせて、くすくすと笑いだす。
「大丈夫。もう少しでちゃんと着くから」大道が諭すように、明るい声で言った。
 僕の頭の中にはちょっとした妄想が生じてきた。林、鍋島先輩、大道がグルになって僕をはめているのではないか。サプライズパーティまがいのなにかでも開こうとしているのかもしれない。不信感や猜疑心、とまで大げさではないのだけれど似た気持ちが抑えられず、
「……なに、企んでる?」とぼそっと訊いてみた。
「なにも企んじゃいないよ」鍋島先輩が真顔で答える。
「冒険、冒険」大道もさきほどよりもいくらかおちついた笑みをうかべ、ルーズソックスの脚でスキップする。
「おうい!」先を行く林が声をあげた。家が少なくなり、寂しくなってきた区画のひとつのガレージの前に彼は立っていた。
「着いたな」鍋島先輩が唇をなめた。いったい、このガレージの中に何があるっていうのだろう。重要なアイテムが眠っているのだろうか。それははたして僕にどんな関係があるのだろう。そもそも僕に関係はあるのだろうか。
 林が鍋島先輩に、シャッターを上げてほしいとお願いしている。体格のいい鍋島先輩が、一気にシャッターを持ちあげる。すぐさま僕は中を覗き込んだ。前、右、左。暗がりには壁しかない。そのかわり、不相応なくらい立派な階段が地下へと伸びていた。
「……行くの?」あまり乗り気ではなかったからそう訊くと、
「もちろん!」と林が弾んだ声をあげ、あとの二人もこちらをみておおきく何度も頷いていた。
 リノリウム張りの冷たい階段を一歩一歩たしかめながら降りていく。すると、意外に広くて天井の高い地下空間にでた。
 黄色い照明が点いていて、全体としては茶色を基調としたその濃淡で壁や床が仕切られているような空間だ。階段を降りたところから少し下りの勾配になっていた。空間の中心に大人十人が手をつないでも囲いきれないくらい太くて丸みを帯びた柱がある。天井と床それぞれに向かって、より太くなる形状をしたいびつな柱だ。その右側を僕と大道が、左側を林と鍋島先輩が降りていく。
 地下空間の薄茶色の壁には蔦がからまったかのような細かい模様が一面に刻まれていた。整然としないゆるやかな曲線で壁と床、壁と天井がつながっていて、壁自体も若干たわんだような形状だった。それは、もしも建築家ガウディが地下空間をデザインしたならこれに近い洞窟的なイメージを作りあげるのではないかと思わせるものだった。
 僕らはやがてそれぞれに柱越しのゆるやかなカーブを抜けた。その先で二組が合流して見たもの。それは、地下繁華街だった。
 とはいっても、ぱっと見渡して確認した五店舗は、喫茶店、居酒屋、食堂、ラーメン屋、床屋だったが、どれも無人で、客もいなければ店主らしき人物や店員もいない。まったくのもぬけの殻だった。林たちはこんな場所を知っていたのだろうかと気になって三人を見まわすと、林を抜かした二人は初めてこの光景を目にしたような、この光景にぼうっとしてこころを抜き取られたような顔つきをしていた。林がこの場所を知っていたのかどうかは、ネズミの表情なのでよくわからない。きょろきょろともしていないし、呆然ともせず、ただ胸を張って鼻をひくひくさせていた。
「なんだ、ここ。……廃墟?昔、炭鉱業が最盛期の頃に賑わっていたのかな」この非現実感の手を取ってなんとか現実感と握手させる理由を見つけたい気持ちで言った。
「いや、よく見てみろよ。えっと、みさおちゃん、ここ廃墟ではないよな?」鍋島先輩が、わかるよな、というように僕をひとり飛ばして大道に顔を向ける。僕も大道がどう観察して判断したのか、その答えを知りたくて隣の大道の顔を覗きこむ。
「そうだね。ここってちゃんと掃除されてる感じがしない?生活感があるような感じがするんだけど。営業時間じゃないとか、定休日とか、そんな理由じゃない?」
 なるほど、そうかもしれない、と大道の言葉をふたたび頭でなぞった。
 林が「ちょっと、いろいろ見てみようぜ」と小走りで駆けだした。鍋島先輩も、大道も、あっという間に林に続いていって、僕は取り残されていた。
 いったい何が起こっていて、ここはどこなのだ。ひとりになると、やっぱりあらためて考えてしまうし、答えはわからなかった。こんな場所があるなら、昼休みや放課後に何か食べたり飲んだりしに寄ることができたのに、知らなくて損した気分にもなった。僕は地下空間の真ん中の路地へと歩く。林も鍋島先輩も大道の姿も見えない。彼らは、どこを見にいっているんだろう。何の気なしに、床屋の前に置いてある、今は止まったままの赤と青と白のサインポールをしばらく眺めていた。そこへ、おうい、と鍋島先輩の声が響く。なに、と応えると、先輩が駆け足でこちらへ戻ってきて、
「注文受けるってさ!」と笑顔を見せた。
 え、誰かいたのか、と不信に思うと、そんな僕のこころを察したかのように先輩が食堂のほうにあごをしゃくる。食堂の座席には、知らないうちに何組かのお客が座っていた。驚いて、ラーメン屋のほうを向くと、こちらにもカウンターにやはり数人のお客が座っていた。
 だけれど、そのお客たちはみんなマネキンのように身動き一つしない。僕ら以外動かない世界にいた。
「なんか、シルエットだけは見えるけど。あのさあ、時間止まっちゃってない?」
 そう言うが早いか、僕の見ていたものは錯覚だと言わんばかりに世界は動き出していた。床屋のサインポールもくるくる回っている。今動き出したんだという素振りすら見せず、過去から連綿と続いてきた流れのままであるといった体で、そこに疑いの余地すら微塵も感じさせないくらいだった。そんな自然な時の流れ始め方に面食らった。そして見えた光景は、まるで昔見た有名なアニメ映画のようだった。そのアニメ映画では、繁華街でものを食べると後戻りできなくなる魔法にかかるのだった。とはいえ、そのアニメ映画は、一九九四年の段階では制作されていないのだが。
 再びいろいろな店の店内を眺めてみる。老夫婦が多かった。でも、おじさんの一人客もいるし、テーブルでトランプゲームのぶたのしっぽをやっている家族連れまでいた。
 そんな僕に鍋島先輩が、「なあ、注文何にする?」とせっついてくる。いや、これは食べてはいけないパターンなのではないのだろうか。
「なあ、なあ」鍋島先輩は早く返事しろと表情で訴えている。
「なあ!なあ!おい!なあ!」としつこいったらない。
 いい加減にしろ、と思ったところで目が覚めた。また、あの頃の夢の続きを見たのか。
 目だけを開けて目覚めた僕はあお向けの姿勢でマットレスにずっしりと沈み込むように寝ていた。記事の執筆や夜警の疲れは、沈み込んだ身体の底からさらにしたたり落ちて、重力に吸い取られ四次元の果てに消え去っていったかのようで、僕はすっきりしていた。いつもの虚ろな気分もない。蛙人形の時計の針は午後五時すこし前をさしていた。

 シャワーを浴びながら、夢に出てきた大道みさおの記憶をたどる。たしか小学三年生のときに、神奈川から僕のクラスに転校してきた子だ。その頃の同級生の女子たちと比べると格段に運動ができ、ドッジボールでは球技の得意な男子並みに速いボールを放っていたし、相手から投げられたボールにもひるむことなくキャッチを試み、そのほとんどを成功させた唯一の女の子だった。かわいい子ぶることもないが、花が咲いたような笑顔になったり、この世がおしまいになったかのようながっかりした表情をしたり、感情表現に乏しいこともなく、ちょっとおてんばだったけれど、それゆえに輝いてみえる女の子だった。それが、中学生になると、一気に大人しくなって目立たない子になった。控えめで、小粒な存在感になった。
 僕にしても中学生当時からの大道の印象は薄くぼやっとして、こんなことがあったっけなあというエピソードすらひとつも思い浮かばなかった。高校が同じだったことも忘れていたくらいだ。夢の中では、鍋島先輩とくだけたやりとりをしていたけれど、現実はどうだっただろうか。思い出せなかった。小さな町の小さな小学校のことだ。鍋島先輩も小学生当時から大道と一緒だから、学年は違っても顔は見知っていただろう。
 そんな大道みさおがなぜ僕の夢に出てくるのだ。夢には、人の深層意識に閉じ込められているものが出てくると読んだことがあった。また、記憶の整理として夢が使われているとも別の本か雑誌で読んだことがあった。
 深層意識が記憶の整理と相まって、たとえば今回、大道みさおが意識に上り、深層意識の小さなひとつのパーツとして、記憶と深層意識のやりとりのなかで、深層意識を撹拌して活性化させているのかもしれない。それは必然なのか偶然なのかはわからない。僕の深層意識の都合上、大道みさおが選ばれたのかもしれないし、深層意識内でランダムに抽出されたにすぎないのかもしれない。
 ただ、どちらにせよ、僕のこころの裡に隠されていた大道みさおがはっきりと意識上の存在となり、しっかりとこころの目で捉えられるようになった。そうした目で、夢で見た彼女の容姿や話し方を思い直せば、けっこうかわいらしい子だったんだなと、認識を新たにした。
 あまりに考え事に夢中になったせいで、髪を二度洗ってしまった。二度目の良すぎる泡立ちではっとし、現実に帰ったのだった。

 僕は両親以外に愛されたことがない。高校を卒業してからだって、恋人ができたことがなかった。大学時代から付きあいのある仲の好い女友だちはいたけれど、恋愛にまでは発展しなかった。相手も僕も、それぞれの個人領域を区切るボーダーを飛び越えようとはまったくしなかったのだ。それはなぜだったのだろう。とくに深く考えたことはなかった。
 胸が張り裂けそうなくらい淋しいときや、どうしても女の肉体を欲した時にはとても苦労したが、世の男にはそんなときに都合をつけられる逃げ道があったりする。慰めに、そういう逃げ道を何度か走り抜けた。
 富川への想いが強すぎたからそうならざるを得なかったのだ、といえばウソになる。高校卒業とともに富川への想いとはさよならしていた。でも、意識下に隠されたその想いがそこでウイルスへと変容し、恋愛を行うこころの箇所に侵入して感染し悪さを働いている想像をしてみると、その想像は案外でたらめではないかなと思えたのだった。でたらめではないとは、恋愛を行えない性質になったということだ。もしも、想像通りほんとうに富川への想いがウイルスに変わっていたのなら、その変化を仕向け助けたのは僕の情けなさや愚かさや狡猾さたちだった。
 自分から愛したくせに、向こうから愛されたのだという事実にしたがった。愛した時点で負けて試合は終わっているのに、その事実に気づこうとしない。再試合をでっちあげていた。僕は弱く、そして今もなお弱いままだった。そんな態度が想いをウイルスにし、恋愛不全にさせる。
 濡れ髪のまま、そんな思念に浸って現実世界に不在だった僕の耳を、鳴り響く電話の着信音が鋭く刺激する。実家からの電話だ。珍しく、電話口には母がいた。
「正月は、帰って、こないのかぁい」息切れでもするように、途切れ途切れだった。
「うん、帰れないよ。ごめん」
「……帰って、こないのかぁい」聞きとれなかったのか、母はまた同じことを口にしていた。
「う、うん。ごめん、機会があったら帰るから」口先だけで言った。
「お父さんが怒ってねぇ、こわいんだよぉ」父には、癇癪をおこして怒鳴り散らす癖がある。思うままにならない母の世話に嫌気がさして怒鳴ったのだろうか。
「母さん、父さんの言うことを聞いて素直にしないといけないよ」
「母さんはぁ、ちゃんとしてるよぉ」訴えるような、絞りだす声になった。
「そうだね、母さんはちゃんとしてるね。父さんにはね、あんまり怒ったらだめだよって僕が言ってたって言っておいて」
「わかったよぉ」
 それから数秒の沈黙の末、電話は切れた。
 在宅介護は大変だと聞いてはいたけれど、そうか、父さんは母さんにあたっているのだな。酒量も増えているのかもしれない。
 でも、それ以上考えたくなかった。僕にどうしろと言うのだ。僕には僕の人生があり、親を世話するために生まれてきた人生ではないのだ。
 力を込めて考えをそう振り切り、アタマは一瞬でこの件からそっぽを向いたはずなのに、呼吸のたびにしくしくと重く胸はきしんだ。

 スウェットにコートを羽織った恰好で、なんとなくレンタル店へDVDを借りに行った。帰り際コンビニで発泡酒を買い、部屋で映画を観た。モノクロの、昔の時代劇だ。しかし、どうしてもストーリーも会話も頭にはいってこなかった。夢の中でまた富川に会えるだろうかだとか、実家は限界に近付いているのだろうかだとか、次に夜警の仕事で田中さんに会うときには事の顛末を言おうか言うまいかだとか考えだしているからで、さらにはうとうとしだした。今日はよく眠っているはずなのだが、長い睡眠時間の割に浅い眠りなのかもしれない。ここ何回か見た夢がはっきりしすぎているのは眠りが浅い証拠なのではないか。
 映画を見続けるのを諦めてリモコンを操作し、そのままひとまず短い休息のつもりでカーペットの上に横を向いて寝そべった。目を閉じ、なにも考えない。じんわりとした感触が目の疲れを知らせた。隣室からは洗濯機を回している音がする。ぼんやりとしながら、力は抜けていく。
 閉じた目の裏には、黒の素地に赤や緑や青や白の光が万華鏡のように千変万化しながら動いていて、それらは解読不可能ななにかを物語っているかのようだった。そのうち、様々な色模様は勢いを無くし薄くなって消え、暗闇だけが残った。暗闇を注視していると、突然暗黒がうねりだし目の中をわさわさと繁茂し始めて視界を飲み込んだ。もともとの真っ暗闇な視界が、さらに暗い漆黒に飲み込まれるのを見たのだった。
 気がつけば、住宅地にあった地下空間の食堂の一席に腰かけていた。四人用のテーブル席に僕がひとり座っている。
「いらっしゃい」女の声がして顔をあげた。知っている女だった。未香だ。大学時代からしばらく友だち付きあいが続いた女だった。未香の、小さなほくろの多い顔がほころんでいる。
「いらっしゃい。何にするの?」
「未香だろ?」
「未香さんっていいなよ。あなた高校生でしょ」
 そうだった。未香とは現実では同い年でも、この場では僕より年上になっている。
「未香さん、ここで働いているの?」〝さん〟づけで呼ぶと、なんだかふざけた芝居をしている気分になる。
 未香はそれには答えず、「いいお友達がいたのね、あなたって」と僕の背後に視線を移した。つられて振り向くと、後ろのテーブル席に鍋島先輩と大道みさおが並んで座っていて、僕にピースサインをしてみせている。
「あなたって、孤独な色合いが強いひとだなあって思ってた。独りよがりだな、ともね。なかなかどうして高校生のあなたはそうでもなさそう」澄んだまなざしで後ろの二人をみつめながら、未香が言った。
 それを聞いて、これは夢なんだ、と気づいた。「いや、これは……」と言いかけたところで未香が僕を手で制す。
「ゆっくりしていって」厨房へと戻っていった。もっと彼女と話していたい気持ちが後ろ髪を引いた。
 僕は夢の世界にいる。夢なら、僕の思う通りの状況を作り出せるはずだ。この夢に無理やり富川を登場させて、僕の思うように喋らせて、安っぽくたって、ハッピーエンドで癒される展開にしてしまえばいいんだ。まずは、この二人にはどこかへ消えてもらおう。僕は富川と二人きりになりたいのだから。
 はっきりした方法はわからなかったが、夢と気づいた以上、念じれば念じた通りになるのだと信じて、鍋島先輩と大道にこの世界からの退場を願った。
 二人を睨んで、消えろ、消えろ、と念じる。鍋島先輩が「なんだよ?」と口をとがらせ、そして大笑いする。大道も笑い始めた。
 鍋島先輩が「ばかだな!」と言い放ち立ちあがって僕の所までやってきた。制服の首の後ろの襟をつかまれて立たされる。
「無駄なんだよ」鍋島先輩は憐れむような目つきになった。
「もう!行こう!」両肘をつき両手にあごをのせていた大道も立ちあがって呆れ顔だ。
 僕の夢なのにコントロールできないのか。それより、消えろと念じてしまった消えない二人に言い訳をしないといけない。あれこれ言葉を探そうとしていたが、僕は鍋島先輩に羽交い絞めにされ、地下繁華街から退場させられるところだった。軽く暴れようともしたし、もうわかったからさぁ、お願いだからやめてよ、と懇願もしたのだが、鍋島先輩の力は緩まなかったし、解放してくれそうな雰囲気をちらりとも感じさせてくれなかった。
 じたばたしながら後ろ向きに引きずられていくなかで、アジサイを花瓶に生けた床屋や、入り口から薄く引き延ばされた紫煙が漏れ出ている喫茶店のそれらの店内が目に入った。何人かの客が、含み笑いをしている。
 最後にラーメン屋の店内に目をやれば、同じようにこちらに気を使いながら笑っているような客が何人かいる。その中に、ひとりだけ真正面からこちらを見るカウンター席の端に座る客がいた。細く長い手足とぽっこりでた白い腹が目につく。そして全体が緑色なのだった。
 あ、と声が出た。先輩、ちょっと止めてくれないか。しかし、先輩は容赦なく僕を引きずっていく。だめだめ、と後ろから声がして頭蓋骨に響いた。そのとき、ラーメン屋のその客がこちらに向かっておもむろに右手を振り上げたのだった。よぉ、と親しげな挨拶でもするように。そうなのだ。あの客は、目ざまし時計に付属している人型蛙人形のあいつなのだった。
 あいつから目が離せないまま引きずられて、ついに地下繁華街が見えなくなる大きな柱を迂回する道にはいった。もうずっと観念しているよ、と降参の意志を明確にすると、先輩はやっと僕から腕をほどいてくれた。
 上がり勾配の道を歩いてまもなく階段に着き、三人でのぼった。地上に出る。眼前に広がる、晴れ渡った一九九四年のいつかの日。懐かしくも新しい、それはいつかの日だった。
 階段のあったガレージを出るなり、僕の脚は宙をこぎはじめる。ふわふわと30センチくらい身体は浮き上がり、脚は自転車をこぐように宙を回転し始める。僕は思いきって力を抜いて、地面に倒れかかるようにした。ぐん、と体が持ちあがるように浮いた。いまや、地面と平行に、一メートルくらいの高さで僕は宙に浮いていて、水の中にいるときのように、泳いでいた。平泳ぎのように手で空気を掻き分け、バタ足のように足をゆっくり交互に上下させて推進力を得る。鍋島先輩が部活のコーチみたいに腕を組みながら、「焦るな、バランスだからな」とアドバイスを飛ばしてくる。背筋に力を込めると、低空で路面すれすれをいき、あわててまた力を抜くと立っている時の目の高さまで横になった姿勢で上昇した。大道が駆け寄ってくる。僕はこの自由が嬉しくて、近づいてきた大道にもこの自由を分けてあげたくなった。伸ばした手を、大道が握る。すると、彼女の身体も僕と並行して宙に浮いた。
「わあ!やったあ!」と大道は声をあげた。僕は彼女の手を引いて、二人で空へと上がっていく。
「大事な話があったんだけど」打ち明けるように大道は言う。「でも、今度でいいかな」と笑って、僕との空中遊泳を楽しんでいる。
 急降下し、急上昇する。
「ジェットコースターよりずっと楽しいね!」内面でどくどく波打っているだろう彼女の強い脈動を感じさせる、興奮した言い方だった。
 僕だってすごく楽しかった。空から俯瞰する、高校周辺の風景。上昇して全体を眺め、少し降下して、細部を確かめる。駅前のスーパーの店舗の裏側を初めて見た。あんなに雑然としているものだなんて知らなかった。そして向こうからやってくる汽車が見えた。自然、視線が駅舎をなぞり、さして遠くない場所に富川悠香の姿が見えた。あの同級生の男と談笑しながら駅へ向かっている。
 いつもそうだった、と僕は思い出す。つきあっているわけではないらしいのだけれど、いつもいっしょにいる男がいた。
「大道、ちょっとごめん」僕は大道から手を離し、決意して富川に会いに行こうとした。
 大道は何も言わなかったが、宙に浮いたまま哀しげに微笑んでいた。僕は富川を呼び止めるための気持ちを整え、身体に若干力を込めて降下していくのを待った。しかし、意に反して少しずつ上昇していく。どういうことだ、とわけがわからなくなる。では、と逆に力を抜いてみた。それでも、上昇は止まらない。完全にコントロールを失った状態だ。あっという間に、飴玉くらいの大きさだった富川の姿がただの点になり、大道の行方も見失ってしまった。
 上昇は止まらず、このままじゃ宇宙に突き抜けていくのかなと変に冷静な予測もしている。この分だと酸素が減っていくぞ。そう思った途端、実際に空気が薄くなったのに気がついた。なにげに呼吸が苦しいのだ。何か良い対処法はないのかと考えても、考える分だけ身体は上昇していきながらくるくる回るばかりだ。
そのうち息がかなり苦しくなってきた。それも急激に尋常じゃない息苦しさに変わっていった。これはまずい、と必死になってもがいた。うわあ!とこころは叫び、手も足もばたつかせて状況にたてついた。そんなところで目が覚める。
 現実でも、カーペットの上にうつぶせになった僕の鼻と口が腕に埋まって息が止まっていたらしかった。夢の中でもがいた拍子に顔が横へずれてなんとか手遅れにならずに空気を確保できたのだった。大量の空気を吸い込みすぐさま吐く、何度もそんな速く深い呼吸を繰り返した。心臓がバクバクしていた。
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