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朝日記180112 映画「否定と肯定」 見るまえと見たあと

2018-01-12 16:25:45 | 自分史

 

 朝日記180112 映画「否定と肯定」

 こんばんは。きょうは最近みた映画をとりあげました。

映画「否定と肯定」の概略 

徒然こと 1 みるまえにおもうこと、映画「否定と肯定」

徒然こと2 見たあとにおもうこと、映画「否定と肯定」

写真は、プログラムから表紙とキャスト・スタッフ。絵は 婦人像です。

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 映画「否定と肯定」の概略

「ホロコーストはなかった」として、「あった」とするユダヤ人歴史学者
(レイチェル・ワイズ)を訴えた英国人歴史家。判断する英国王立裁判所独特の裁判方法。勝つ道を探る法廷弁護士が興味深い。4つ星/5つ星 (日本経済新聞夕刊2017・12・8シネマ万華鏡)

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徒然こと 1 みるまえにおもうこと、映画「否定と肯定」

友人への手紙

よるはさすがに寒いですね。元気ですか。

 いま(2017/12/15)、鴨井のTOHOシネマズで、英米合作映画「否定と肯定」という映画が上映されておりこれに注目しています。明日にでも見にゆく計画です。

この映画は裁判映画で、実話に基づくらしいのですが、ホロコーストはいったいあったのかということをとりあげます。歴史的な事実や社会的懸案に対してその時代の空気があって、事実は一体どうなのかということをクールに問題を投げかけ、また吟味することが、必要であったときに正しく追求し議論することができるか。

あるいは、感情的に拒否されたり、歪曲されたりすることがあって、無言の社会的圧迫が、あって、話せば叩かれるという危惧のもとで沈黙するということになるのか。

一度結論に帰着した問題は‘深い眠りに入る’いうことになるのか興味があります。

この映画は、そういう空気に着目したものであるかどうかはわかりませんが期待します。 

判決はどうなるかはおよそは見当付きますが、それを社会的な俎板にのせることを実際に行ったことの意味が語られるであろうこといに興味をもちます。見た人の批評では、退屈はしないようです。

丁度、先月に、ヤスパースの「責罪論」を読んで、ドイツの戦争への贖罪をどうみるか日本の贖罪は、かれらと同じ次元なのかということに関心をもちました。大きく見れば、ドイツも日本も「バビロン捕囚」にあり、戦勝国の悪口は、言えない枠組みになっています。 原始的ルールのもと、ともども敗戦国の桎梏に縛られているとみています。

そして、戦勝側世界で、われおもうに、いまユダヤ系の政治的力が大きくなりすぎ、それに対する危惧が英国やアメリカあたりにもあるのではないかと感じます。(トランプはかれらに政権の安定をもとめていますね) そういうときの思考の自由、発言の自由、個性の自由、そして行動の自由に、思い馳せます。思いすごしかもしれませんが製作者の勇気を感じます。映画製作側のその辺の知性のバランスがみものかなと思っています。

 

 

 

徒然こと2 見たあとにおもうこと、映画「否定と肯定」

友人への手紙

 昼間、先般見た映画「否定と肯定」のプログラムを見て過ごしました。アウシュヴィッツのホロコーストがほんとうにあったのかということで英国の歴史学者David Irvingというひととアメリカのユダヤ人歴史学者Deborha Lipstatzとの訴訟です。娯楽映画としてもおもしろい映画でした。たまたまヤスパースの責罪論を読んでいたこともあってこの映画に行きました。

 ヤスパースの責罪論はドイツ人はひたすらナチスドイツの犯した人類文明史的な罪をみとめ、戦勝側の意志に恭順の意に服すという意味で、精神的に奴隷身分の道をとることを表明します。しかし、これからの歴史的な主役は戦勝国にあるので、戦後体制では世界平和に頑張ってくれ、これからの世界でおこる責任はあなたがたであると言い切っているところが面白いところでした。現在は、戦勝国であるアメリカと英国でにおいても、ユダヤ人の地位が高くもあり、一方、反ユダヤ的な姿勢をとるものに対して糾弾する暗黙裡の戦後秩序があるとみます。

とはいえ、戦勝国の民である英国人のなかには、本来の戦勝特権として、さまざまな見方をもつ自由が温存しているとみられます。彼らだから言えるという質のものを意味します。David Irvingは、プロ・ヒットラー的な見方をこどものころから持っていた。彼は、ドイツにわたり、ドレスデンの無差別爆撃の調査で世界的に有名になりました。

一方、アウシュヴィッツについては、ヒットラーの関与がないとしたりして、おおいな論議を巻き起こしこれが結果的にロンドンでの訴訟になりました。映画はそれをLipstaz側の弁護団側に焦点を当て、Irvingに対して勝訴する事実をモデルにしたストーリです。豪華な弁護団チームを編成したLipstat側、圧倒的な資金的なバックアップを画面から自然に見せます。一方、Irvingは一人単独。そしてチームワークで、Lipstaz側の作戦勝ち、これを映画としておもしろく見せます。そして歴史家として事実に反することを主張するということでIrvingを鋭く批判したLipstaz。 Irvingはこれを名誉棄損として法廷に持ち込みましたが、結果は彼の申し立ては却下されます。

とはいえ、ほんとうの真実はなんであったかは明らかにされえない。 彼の過去のマイナーな文章上の意図的な痂疲は、反ユダヤ主義者ならやるであろうとの判決でした。Irviingには社会的刻印がなされます。Lipatat側は、これで胸をはって相手を犯ユダヤであり、極右的存在として異端扱いできる十分な勝利となりました。そういう状況です。戦後体制の保持ということの勝利はでありますが、繰り返しになりますが問題の核心が消えたわけではない。これまでの筋としての戦後体制のlegitimacyが継続していく。その価値観が’定見’あるいは、'晒らし’Dispositionとして据え置かれることになります。 

 ところで、映画の企画側とは別ですが、手に入れた映画のプログラムの解説では, 正統性は、プロ・ユダヤ的であれかしとべったり書かれ、その過剰さは読んでいて、やや不快さが感じました。(TVのワイドショーと大してかわりません)。プロ・ユダヤ是認を前提とした問題提起や評論や解説です。

 Ask the Question(またはAsk the Premise)と呼ばれていますが、質問の前提の正しさを伴う質問というパラドックというのがあります。相手への問いかけの前提のなかにすでに質問者の好みの結論を内蔵してしまっている論理的矛盾を言うようです。これを平然と起こしているのに驚きます。みんながそういっているから正しいとする論法です。憲法学者で木村草太氏が巻頭論評を書いていましたが、うえの戦後体制のlegitimacyを危うくする相対主義の登場を徹底的にたたくべきという類のものでありました。

私の目下の意識は、この映画での敵役であるDavid Irvingにたいして向けられています。冷静な少視点(Rationality)をもって、彼を見ておくことは意味があるとおもったからです。(結構、Wikipediaなどで客観的なレヴューをみることができます)

一度結論に帰着した問題は‘深い眠りに入る’といったのはミルであったか。

帰着した問題においても、本質的に重要な要素を含むことは、現体制のlegitimacyのもとでも、あえて見えるところに晒しておく(Disposition)こと。そのもつ積極的な意味を感じています。 見たくないものは見ないのが人の常ではありますが、わすれることで問題は解決するわけではないからです。「ゴジラ」はまたかならず現れます。これがこの映画への感想です。


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畏友安部忠彦さんからのコメントです (あらいやすまさ)
2018-01-13 12:30:31


安部 忠彦sさんからのコメント;
映画を観ずに、荒井さんのコメントを流し読みしただけの状態で「肯定と否定」について思いついたことを書き連ねてみます。
 
否定を左端に、肯定を右端に置く横軸を想起しています。
当然中央部分は「判断保留」です。
縦軸には「事実と推定」を置きます。

この二軸フィルターを通してみると、自分が否定的にとらえていたはずのことが推定によるものであり、判断保留に置くべきものを間違った場所に置いていることに気が付きました。
 
私の場合ホロコーストについては情報をほとんど持っていないので判断保留になりますが、自分がよく知っているつもりで肯定か否定においているものが実は怪しいのではないかという気がしてきました。



荒井 康全からの返事;
It is a very smart interpretaion from mathematical topology between fact degree and recongnition one for "my question to premise" in essay,Abe san. Yes,very nice.

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