意識の進化、次元上昇をアシストする“イエス-道(Jesus,the Way)”

“イエス-道”という視点から、人生を生きる秘訣・コツを考える“斬新的な聖書リサーチ”

2月4日(日)更新 家入レオの『Shine』とヨブ記の謎解き

2018年02月04日 22時41分57秒 | 歌の歌詞に観る“イエス-道”

家入レオの『Shine』とヨブ記の謎解き



今回のブログでは、家入レオの『Shine』というナンバーの歌詞についても、『イエス-』という視点から少し解説してみたいと想います。


私がこのナンバーを初めて聴いた時に、この歌詞の内容に私の心がグイグイと惹き付けられたことを今でも覚えています。


家入レオの『Shine』について、まずYOUTUBE等で聴いてみて下さい。


この歌詞の中にある

一人じゃないよ_君のそばにいるよ

変わらないものは_いつもここにあって

このけがれのない_今を生きるShine

そこにはもう迷いもなくて

というフレーズは、まさにイエスの山上の説教における『あなたの内なる光』を指していると考えられます。


これは、誰の中にも存在していますが、この『内なる光』が明るく輝いているか、暗くなっているかの違いというものはあります。


イエスが山上の説教の中で最も説きたかったこと、それは『あなたの内なる光』を暗くしてはならない····ということだったと、私は観ています(マタイによる福音書6章22節~23節を参照)


旧約聖書のヨブ記をこの家入レオShine』の歌詞と重ね合わせて研究するのも、面白いのではないかと想います。


それでは、これから『Shine』の歌詞の内容が、ヨブが経験したことにどんなふうに対応しているかについて観ていきたいと想います。

 

 「つまづいたその手に掴んだその未来は·····

 

試練に遭遇していた時、ヨブはある意味において"つまづいた"と言えるかも知れません。"つまずいた"と言っても、ヨブが神に対して不従順になったとか、神に向かって反旗を翻したとか、神に対して不信仰を抱いたとか、そういうことを私が言っているのではありません。ヨブはあくまでも神の側にいて、信仰を全うしようと考えていたのです。この点において、ヨブに向かって「あなたはなおも堅く保って、自分を全うするのですか。神をのろって死になさい」と言い放ったヨブの妻とは対照的です(ヨブ記2章9節)。

 

ヨブは、一体、何に対して"つまづいた"と思いますか?

 

実は、ヨブ自身、自分が何につまづいているかについて気づいていなかったのです。それに気づかないまま、何故ヨブがこのような悲惨な試練に遭わなければならなかったのかについて、3人の友人たちとあ~でもない、こうでもない····と、時間をかけて議論·論争していたのでした。でも結局、納得のいくような答えを見つけることは出来なかったのでした。

 

さて、さらに『Shine』の歌詞を観ていきましょう。

 

あきらめかけた時に_何かが生まれたんだ

 

ヨブは自分がこれまで蓄積してきた神に関する情報と3人の友人たちが知っている神に関する情報とを激しくぶつけ合って、議論を尽くしたにもかかわらず、自分の試練に対する答えらしきものに到達できませんでした。そのため、ヨブは自分が試練から救われることをなかば諦めかけていたと思われます。でも、そのような時に何かが生まれたというのです。言い換えれば、転機が訪れたのです。試練の解決の糸口が見えてきたのです。

 

とは言え、たまたま偶然に、『棚からぼた餅』風に、ヨブが試練の解決の糸口を発見したということではありませんでした。

 

そう_瞳を閉じれば_あの日の空に包まれてるよ_いつでも_you can shine

 

そうなんです。ここに問題解決のヒントがあるのです。ヨブの試練という難問題を解く鍵があるわけです。

 

すなわち、ヨブが"瞳を閉じる"ということが、試練の答えを見出だすためにどうしても必要なことだったのです。"瞳を開いたまま"の状態でいたら、いくらヨブが友人たちと議論や論争したとしても、結果は虚しいのです。収穫はないのです。

 

ここで"瞳を閉じる"とは、何を象徴しているのでしょうか?

 

逆にいうと、ヨブが"瞳を開いていた"ために、彼は"つまずいてしまった"、あるいは、"つまづいたままでいた"とも言えます。

 

では、"瞳を閉じる"、あるいは、"瞳を開いている"とは、何を意味していると思いますか?

 

また、瞳を閉じた時にあの日の空に包まれ···るとは、一体、どういうことなのでしょうか?

 

とても意味ありげな感じがしますね。

(1月8日 月曜日更新)

 

空にあるどんよりした雲に覆われていると、輝いている太陽が見えなくなってしまいます。覆っている雲がない状態(これが"あの日の空に包まれる"ということ)なら、大陽の本来の輝きが見えるわけです。

 

そのように、あなたが『内なる光』がいつでも輝ける(=you_can_shine)ために、あなたの瞳を閉じておくことが必要である····というわけです。

 

では、ここでいう"瞳を閉じる"とは、何を意味しているのでしょうか?

 

"瞳"というのは、実は、マインドを象徴しています。

 

従って、"瞳を閉じる"とは、マインドというフィルターを通して見ることをやめることです。マインドを働かせて、あるいは、マインド主導で、物事を見て、判断し、ファイルアンサーを出してしまう習慣や癖から自らを解放することを意味します。

 

マインドが得意とすることは、自分が蓄積してきた過去の記憶情報(他者から聞いたこと、常識、伝統的な考え、固定観念、教育やメディアなどを通してインプットされたもの、洗脳なども含む)に照らし合わせて、物事についての最終的な判断を下すこと、白黒をつけようとすること、決めつけたり、思い込んだりしてしまうことです。

 

このようなマインドに支配されている限り、『あなたの内なる光』である「このけがれのない_今を生きるShine」は輝き出すことはないのです。まずは、マインドという"瞳"を閉じなければならないのです。では、どのようにしたら、この"瞳"を閉じることができるのでしょうか?

 

感じる力_君は持ってるから

 

あなたの内なる光』である「このけがれのない_今を生きるShine」と言われている変わらないものは_いつもここにあって」とあるように、常にあなたの内側に存在しているものなのです。それはあなたの一部だから、いや、あなたの本質であり、あなたの最も神聖なるものであり、あなたの命そのものとも言えます。自分の内にもともとあるものなので、あなたはそれを感じる力は持っているのです。感じる力を使ってこなかったために、感受性は鈍っているかも知れませんが、感じる能力は残っているはずなのです。


あなたの内なる光』である「このけがれのない_今を生きるShine」を感じるというよりは、むしろ、それがもともと自分の中に存在していたという事実に気づく思い出すというべきでしょうか。実は、そのための近道、秘訣、奥義ともいうべきものが、イエスが山上の説教の中で説いた『さばくな』という具体的なノウハウ、実践的な教えなのです(マタイによる福音書7章1節を参照)。

 

さばかない』ことを実践していく時に、マインドの働きは自ずと停止してしまうのです。すると、これまで長い間マインドというフィルターを通して観て認識していたのが、マインドを介さずに直観で観る新しい認識回路が開かれることになるのです。(これこそが、信仰の目で見る、信じるという行為を意味しています。)

 

この時にようやく、これまでマインドが妨げとなっていたために(これがイエスが言っている"目に梁がある"という状態)、入ってこれなかった新たな情報、事実、真実、真理が堰を切ったように、溢れんばかりに流れ込んでくるようになるのです。

 

実は、ヨブはこのような貴重な体験したのです。しかも、ヨブの試練が消え去っていく直前に···。

 

これを裏づけるようなヨブの言葉が、「わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。」(ヨブ記42章5節)である·····と、私は観ています。

 

もちろん、このような貴重な体験をしたのは、ヨブだけではありません。たとえば、例の十字架上でイエスに救われた犯罪人も、マインドを介さずに直観で観る新しい認識回路が開かれたのでした。


また、幼な子のようにならなければ神の国に入れないとイエスが言われたことがありますが、このような幼な子というのは、マインドを働かせて判断することをせず、むしろ、直観でありのまま観て、捉える傾向が強いものなのです。だからこそ、幼な子は神の国に入りやすいのです。

 

また、マリヤとマルタの姉妹がいました。なくてならないものは多くはない、ただ一つだけである、マリヤはそれを選んだ····とイエスは言いました。実は、このマリヤはいざという時には、すぐに自分のマインドを停止して、直観で行動したり、見聞きしたりすることができる人だったようです。だからこそ、すべてのことに優先して、イエスの足元で一言も漏らさすまいと思って、イエスの口から語られる言葉に聞き入ったのでした。

 

さて、先程の質問に戻ります。試練に遭っていた時に、ヨブは何につまづいたと言えるのでしょうか?

 

それは、イエスの教えにつまづいた···と、私は観ています。もっと具体的に言えば、さばくな』というイエスの教えにつまづいたのでした。ヨブ記の謎を解き明かすことができるのは、イエスの山上の説教の核心的教えとも言えるこの『さばくな』という教えなのです。ヨブのつまづきの原因というには、まさにここにあった····と、私は観ています。

 

ヨブと3人の友人たちは共に、実にマインド思考でヨブの試練の原因や神の義やヨブの義などについて議論·論争を展開していたのです。だから、埒があかなかったのです。行き詰まったわけです。マインドというのは、過去の限られた情報から無理やりファイナルアンサーを出そうとするからです。

 

でも、友人たちとの一連の議論や論争は、ヨブにとって無駄ではなかったと私は想います。マインドをフルに稼働させて、過去データを検索し、分析·解析しても、そこには答えがないということを徹底的に知ることができたからです。

 

だからこそ、ヨブはマインドで物事を捉えるという従来の思考パターンに頼ることを諦めることができ、次のステージへと移行する準備ができたかも知れないからです。

 

それが、家入レオの『Shine』の以下の歌詞だったわけです。

 あきらめかけた時に_何かが生まれたんだ

 

そして、ヨブが自分のマインドの働きを停止してみて、さばくことをせずに(この時に、心の目をおおっている覆いが取り除かれ、ヨブの『内なる光』の輝きを取り戻す)、『内なる光』主導で自分の試練をあるがまま観ていった時に、自分が体験している試練の真相、意味、メカニズムがはっきりと見えてきたのです。

 

ヨブの試練が根本から解決されるために必要だったものは、まさに、ヨブが長年馴染んできたマインド思考に支配されて『さばいていく』という癖·習慣に終止符を打つことによって、自分の『内なる光』の本来の輝きを回復させた状態で、そのにあって物事を観ていく、捉えていくという本来の人としての生き方をしていく、たったこれだけだったのです。

 

山上の説教の中でイエスが教えた有名な『主の祈り』を、皆さんはよくご存じかと想います。この中で、試みにあわせないよう、天の父なる神に祈るようにとイエスは教えられました(マタイによる福音書6章13を参照)。実は、この『主の祈り』の中には試みに会うことを避けるコツも、実はイエスが教えられたことを皆さんは知っておられるでしょうか?


そのコツというのは、「わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」( マタイによる福音書6章12節)にあります。


つまり、試練を自ら引き寄せないためには、『人をゆるす』ことです。『人をゆるす』とは、『人をさばかない』ことを意味しています。人を善し悪しでさばかないこと。善悪の固定観念のフィルターを通して人を観ることをやめるということです。


 

試練以前のヨブの信仰


ところで、つまづく前(=試練に遭う前)のヨブの生き方や人生と、ヨブがつまづきの原因に気づいて、そこから立ち上がった彼の手が掴んだ未来のものとを比べて観た場合、ヨブが一段と進化を遂げていった····と察することができます。


つまづく前のヨブの信仰というのは、ある意味、不安定でした。確固たるものではありませんでした。でも、神に褒められる程のヨブの神に対する忠誠、誠実さというものは、その当時の世の人たちのものと比べた場合、確かに雲泥の差があったと思われます(ヨブ記1章8節を参照)。


一体、ヨブがつまづき(試練)から立ち上がった後の信仰の内容というのは、どのような進化を遂げていったのでしょうか? また、それ以前のヨブの信仰には、どのような特徴があったのでしょうか?·········

(1月14日 日曜日更新)(1月21日 日曜日補足更新)

 

 

ヨブの信仰の純化

 

試練を通過しながらヨブの信仰は、純化していきました。一段と信仰に磨きがかかっていったのでした(ペテロの第一の手紙1章5~7節を参照)。

 

そして、"さばかない"という寛容の愛によって働く信仰をヨブは自分のものにしたと、私は観ています。

 

善悪の固定観念というフィルターを通してしか物事を捉えることしかできなかった"さばく信仰"をヨブが卒業したと言えます。そのようなレベルの信仰から、ヨブは解放されていったということです。

 

これは、ヨブにとって大きな進化です。霊的成長と言えます。ヨブの信仰のベクトルにおいて、大きな方向転換がなされたということです。

 

これは、言い換えると、山上の説教においてイエスが説いた『さばくな』と核心的教えをまさに実践していったということを意味しています。

 

"ヨブよ、よくぞ、そこに気づいたな"と、天の父なる神はさぞかし喜んだに違いないと想います。ヨブは旧約の時代にいながらにして、イエスが説いた新約の最重要の教えを会得したからです。

 

『さばく』というマインドの働きを停止した時に、心の目が開かれ、覚醒していくのです。それは、信仰の目から梁が取り除かれて、その結果、はっきりと真理、真実、真相、肉眼では見えない事実が見えてくるということです(マタイによる福音書7章1節~5節を)。········

(1月27日 土曜日更新) 

 ところで、イエスの弟子のヤコブは、特にヨブの忍耐という視点からヨブ記を観ていたようです。

 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」( ヤコブの手紙5章11節)

 

しかし、この聖句の後半の部分に注目してみて下さい。主がヨブになさった結末を見た時に、主がどれほど慈愛とあわれみに富んだかたであるという事実がわかるというのです。

 

でも、皆さん、誤解しないで下さい。ヨブが忍耐したからということで、ヨブが主の人知を超えた愛に気づいたわけではないのです。

 

確かにヨブは耐え忍びました。でも、耐え忍ぶだけでは、新しいものは生まれないのです。家入レオの『Shine』の歌詞を思い起こして下さい。

 「あきらめかけた時に_何かが生まれたんだ


耐え忍んでいる時に、フッと何かをあきらめた時に初めて新たなものが生まれたのです。ヨブ記にあるような起承転結の『転』が生じていったのは、ヨブが何かをあきらめた時だったのです。もし、ヨブ何かをあきらめることをしなかったら、ハッピィエンドな結末(ヨブ記42章10~17節を参照)は、おそらく生まれることはなかったと想います。


家入レオの『Shine』の歌詞の中に「つまづいたその手に掴んだその未来」というフレーズがありますが、ヨブが試練という境遇の中でつまづいたままでも、また、試練そのもを耐え忍んでいるだけでも、ヨブの手はハッピィエンドな未来を掴むことは、なかったのです。

 

実に、ヨブが試練というつまづきの中で耐え忍んでいる時に、これまでずーっとヨブが囚われていた善悪の固定観念という狭小な情報だけに照らして、すべての物事を捉えてさばいていた『井の中の蛙』的な世界観から解放された時に、試練で苦しんできたヨブの人生において大きな転換期、節目を迎えることができたということなのです。これがヨブ記の謎解きにおいて、とても大事なポイントになってくるのです。

 (1月28日 日曜日更新) 

 

 

さらに、ヨブ記の謎に迫る

 

さて、もう一度、以下の聖句を観てみたいと想います。

主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。」( ヤコブの手紙5章11節)

 

主がヨブになさったハッピィエンドな結末を見ると、確かに私たちは主なる神の愛の深さを納得できると思います。

 

では、ヨブの場合はどうだったのでしょうか?

 

重要なポイントは、ヨブが試練の真っ只中にあって、すなわち、肉眼ではまだ何も変わっていない状況、試練の解決の兆しが一切見えない状況の中にあって、ヨブが主なる神の変わらない深い愛、測り知れない愛がわかったということです。ハッピィエンドな結末が目に見える形となって現象化する以前に、ヨブが『神の愛』という"肉眼では見えないの事実"をしっかりと捉えていたということに注目する必要があるのです。

 

肉眼で確認することが不可能な段階で、結末がどうなるのかが全くわからない····そのような状況の中で、『神の真実の愛』を認めることが、まさに"信仰"と言えるのです。

 

このような信仰のメカニズムを解明するために、以下の詩編の聖句がヒントになると想います。

 

あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」 (詩篇18篇25節~26節)

 

このような視点からヨブ記を観ていくと、一体、何が見えてくるのでしょうか? 

 

ヨブが神の慈愛やあわれみなどを微塵も"感じられない"ような悲惨な試練の中にあって、それを知ることができる方法というのは、そんなに多くはないと想います。いや、一つだけしかないのではないか·····と、私は観ています。

 

その方法というのが、イエスが山上の説教の中で伝授したノウハウです。それは、『ジャッジしないこと』です。『さばかないことを実践してみること』こそが、ヨブにとっても試練を解決する突破口を大きく開いた····と、私は観ているのです。

 

神の真実の愛の栄光を観るためのは、『さばくのをキッパリとやめること』が最高の方法と言えるのです。一生懸命、自分のマインドを働かせて、思索することことでも、また、自分の想像力をフル回転して神の愛をイメージすることでもないのです。

 

ところで、先ほど引用した詩篇の中に、「あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり·····」とあります。つまり、神の真実の愛を知るためには、それに先だってヨブ自身が愛のある者になっていなければならないということです。そうでないと、たとえ神の愛を知りたいと思ったとしても、神の愛は歪んで見えてしまうことになるからです。


あなたは···、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。」 

 

では、イエスは山上の説教の中で、天の父なる神の愛の栄光を歪むことなく、ありのまま観るための秘訣というものをどのように語られたのでしょうか?


実は、イによる福音書5章44節~48節において、イエスがその秘訣を明らかに示されたのではないか·····と、私は観ているのです。


「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。


ここでイエスは、一体、何を言いたかったのでしょうか?

 

完全な天の父を知るためのコツというのは、私たちも同様に完全な者になることであるというのです。もう少しわかりやすく言うと、悪い者と良い者、正しい者と正しくない者とを区別したり、分け隔てしたりしない愛において、天の父なる神にように完全になることだと、イエスは言っているわけです。

 

言い換えれば、寛容という愛です。別の表現で言うと、それは『さばかない』というタイプの愛のことなのです。

 

人は、すべての点において神のように完全になることは不可能と言えます。でも、『さばかないという寛容の愛』において完全になることは、人には可能なのです。"このことに気づきなさい"と、イエスは山上の説教において切々と訴えているように、私には思えてならないのです。

 

使徒パウロは"愛とは何か"について説明していますが、筆頭に『寛容』をあげたことは注目に値します(コリント人への第一の手紙13章4節を参照)。

 

聖書を通じて『神の愛』とはいかなるものかとよくよく観ていくと、実は、『"さばかない"という寛容の愛』がベースとなっている、基調になっている、特徴となっていることがわかります。

 

寛容という愛』は、『ゆるす』とか『あるがまま認める』とか『分け隔てしない』とか『片寄りみない』と同じような意味あいです。山上の説教の中で天の父なる神について、イエス自らが天の父なる神に関して啓示された中身というのが、このような『寛容の愛』だったのです(マタイによる福音書5章44節~48節を参照)。

 

実は、ここにこそ、人が神にアクセスしていくための重要な鍵、あるいは、秘訣があることをイエスは山上の説教の中で教えられたのです。

(1月29日 月曜日更新)(1月31日 水曜日更新)(2月1日 木曜日 補足更新)(2月2日 金曜日 補足更新)

 

 山上の説教で教えられたいわゆる『主の祈り』の中でも、また、それに対する補足のコメントでも、イエスはやはりその重要な鍵·秘訣を述べています。そのことに触れたイエスの言葉を、以下、参考までに引用しておきます。

 

わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」(マタイによる福音書6章12節)

もしも、あなたがたが、人々のあやまちをゆるすならば、あなたがたの天の父も、あなたがたをゆるして下さるであろう。」(マタイによる福音書6章14節)

 

 この『ゆるすという寛容の愛』を生きることによって初めて、人は『天の父なる神の寛容の愛、ゆるしの愛』というものをありのまま観ること、認めることが可能となり、そして、神と調和していく道が開かれていくのです。

 

天の父なる神にアクセスする、あるいは、接点を持つための鍵·秘訣とも言うべき『ゆるす』、言い換えれば、『寛容という愛』に生きる····そのための具体的なノウハウというのが、まさにイエスがマタイによる福音書7章1節で教えられた『ジャッジしない(さばかない)』を実践することなのです。

 

では、この『さばかない』とはどういうことなのかについて、今一度、整理しておきましょう。

 

さばかない』とは、過去から蓄積された既知の情報だけを検索し、分析して、答えを導きだそうとするマインドに翻弄されないことです。そのようなマインドの働きを意識的に停止することで、初めて、『さばかない』ことが可能になるのです。

 

井の中の蛙、大海を知らず』という諺がありますが、言うなれば、"井の中にある限られた過去情報"(=自分が持っている"既知の情報")だけを元に無理やりファイナルアンサーを導き出そうとすることが『さばく』ということです。

 

一方、『さばかない』とは、そのような『井の中にある"限られた既知の情報"』に依存せずに、むしろ、そこから解放されて、"今というこの瞬間、瞬間というリアルタイム"に自分が生きる軸足を置いて、

"大海にある既知外の溢れんばかりの情報"(=自分がまだ手に入れてない"既知外の情報")に心の大きく開いて、そこから貴重でフレッシュな情報を積極的に取り込んだり、吸収したりしながら、様々な角度や視点や次元から物事を観ていく、捉えていく、判断していくということです。

 

人というのは、心の目に""がある時に、その『既知外にある情報という大海』が見えなくなってしまい、自ずと人は『さばく』という行為をしてしまうものです。

 

心の目からその""が取り除かれた時に初めて、人は『既知外にある溢れるほどの情報という大海』に触れることができ、そこから入手した情報から様々な角度、視点、次元から物事を観たり、捉えたり、判断したりできるようになっていけるのです。その時に、人は『さばく人』から『さばかない人』(=寛容の愛の人)へと進化していくのです。ヨブという人は、試練の中で、実にこのような進化を遂げていったのです。だからこそ、ヨブの心の目は、はっきりと見えるようになり、神を"寛容の愛に満ちた神"として正しく認めることができたのです。だからこそ、ヨブの試練はもはや消えざるを得なかったのです。

 

自分の心の目からこの""を取り除くための具体的なノウハウというのが、『さばかない』ことを実践することだ····と、山上の説教の中でイエスは教えられたわけです。そして、この教えをヨブが実践していった結果、もはや解決しないのではないかとさえ思われたあの悲惨な試練が、なんと急展開を迎えることになったのでした。

 

ヨブ記というのは、山上の説教の中でイエスが説いた核心的教えがしっかりと解った上で読み直すと、実に面白いストーリーであることが判明します。ヨブ記は、とてもわかりやすく、感動的な物語であると言えます。

 

(2月3日 土曜日 更新)(2月4日 日曜日 更新)

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