心は空気で出来ている

空気を読むな、呼吸しろ。

読書感想文の思い出が薄くてたいしたこと書けないのでぼんやりした話を書く

 息子はまだ4歳なので、読書感想文とかドリルとか、夏休みの宿題がありません。そもそも保育園児に夏休みはありません。お盆休みはありましたが。そのお盆休みの時に、着ぐるみのジバニャンを見てきたわけですが、その日仕事帰りの嫁が息子に聞いてました。

 「ジバニャンどうだった?」

 「どう」(うなずきながら)

 ?……どう?

 そしてまた別の日。

 「お味噌汁の味、どう?」

 「どう」(コクリ)

 「お腹の具合、どう?」

 「どう」(コクリ)

 なんか使い方が違う!だけど「どう」説明していいのかわからない!

 ことほど左様に汎用性の高い「どう」という言葉。普段から何気なく使っているのに、いざ正しい用法とその意味を説明しようとするとわからなくなる。相手が4歳児ともなれば、その難しさは父の国語力をはるかに超えてしまう。こんなにも親を悩ませる受け答えをするとは、我が息子ながら、なかなかとんちが効いてるなと思うごくまです。

 そう、本題は読書感想文。子供の頃、一番得意だった科目は国語です。本当です。本当なんです。人生における学力のピークである中学生時代、国語だけは上位1割に入る成績でした。トップ10じゃなくて、上位1割です。あの頃は1学年300人くらいだったので、上位30位以内ということですね。はい、一気に箔が落ちましたね。

 そんな話はどうでもいいとして、小学生の頃から本をよく読む子供だったので、作文とか感想文は嫌いじゃありませんでした。むしろ好きでした。なのに、どんな本を読んで、どんな感想文を書いたか、ほぼ記憶にないんです。夏休みの宿題とかで必ず出てたはずですから、書いたはずなんです。でも覚えていない。

 な~んとなく覚えているのは、書き上げたのはいいけど、自分で思ったように書けてなくて、仕上がりに満足できなかったという思い。これは感想文に限らず、作文でも似たようなことを感じてました。とりあえず書くことはできるんだけど、自分で書いてていつも「なんか違う」と感じてましたね。綺麗にまとまってないなと。

 普段の宿題のみならず、他にも文章を書く機会がありました。小学校の必須クラブていうのかな?授業の一環でやるやつがあるじゃないですか。今もあるのかどうか知りませんけど。僕はそれで「読書クラブ」に入って、ひたすら本を読んでたんですね。たぶんその活動の中でも感想文を書いたりしてたと思うんですけど。それで、6年生の最後の卒業制作みたいな企画があって、みんなでネタやストーリーを考えて小説を作ろう、という話になったんです。

 僕がメインの設定を考えたんですけど、超能力少年ジムが悪者と戦ってどうとかっていう話だったと思います。もろバビル二世の影響ですね。小学生だからそんなもんだと思いますけど。その時も、みんなで案を出し合いつつなんとか最後まで書き上げたものの、全く締まらない話になって、違うなぁ、違うけどしょがないなぁって思ってました。

 たぶん、同学年の他の子と比べて読書量はかなり多めでした。だけど、文章を書く能力については、学校の授業ではまともに身につかなかった。国語は好きだったので、算数と違って授業はちゃんと聞いてたはずです。それでも、読む能力に比べて、書く能力はかなり貧弱だったと思います。

 そうそう、平井和正の「幻魔大戦」にハマってのもその頃です。たしか劇場アニメが公開されて、大友克洋の絵を初めて見たのもその映画でしたね。映画を見れなかったんで、原作の小説を買って読んでました。今思うと、小学生にはちょっと厳しい内容ですが、そこそこ読みこなしてました。たぶん超能力少年ジムにも影響を与えてますね。(笑)

 そんな風に、文章を読み解く力はあっても、構成する力がない。だから、自分が書いた文章を、普段読んでいるような本と無意識に比べておかしいとは感じるけれど、どうすればまとまりのある文章が書けるかはわからない。そんな状態でした。

 考えてみたら、今ここに載せてる文章もたいがいオチない話ばかりで、小学生のころから進歩してないってことなんですよね。本を読むのが好きで、大人になってからは文章を書くのも好きになりましたが、きちんと構成された綺麗な文章はいまだに書けない。どんだけ進歩がないんだと。動かざること山の如しかと。

 でも今年は大雨で山崩れが起きたりして、大変でしたよね。崩れてぐちゃぐちゃになるくらいなら、山は動かないほうがマシ。もう何を言ってるのかわからなくなってきましたので、そろそろお開きにしたいと思います。