深い安らぎ 酔いしれるあたしは かぶとむし
今年の五月は、やけに涼しい日が多い気がします。夏はどうなるかな。
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朝、玄関を出ると、足元にカブトムシが転がっていた。
まだ夏は始まったばかりだというのに、もうこんなところで一生を終えてしまったのか。すでに子孫は残したのだろうか。それとも、まだなのか。俺は、まだだ。
こいつが子孫を残したかどうかは別として、夏を謳歌できないまま生を終えてしまったカブトムシに、わずかばかり憐憫の情が湧いたので、せめて土の上で死なせてやろうと思い、仰向けに転がっているそいつを拾おうと、手を伸ばした。
すると、死んだとばかり思っていたそいつが、指先にしがみついてきたので、少々驚いた。と同時に、少しホッとした。こいつには、まだやるべきことがあるのかもしれない。
アパートから少々離れた駐車場へ向かう道の、途中にある神社の森に、そのカブトムシを放してやった。そいつは、意外にもしっかりした足取りで樹の幹をつかんで、上へ上へとよじ登っていった。俺も、少しくらいは上を目指してみてもいいのかもしれない。そんなことを思った。
その夜は少々蒸し暑く、かといってクーラーをつけるほどの暑さでもなかったので、窓を開けて寝ていた。時折、微かな風と共に入ってくる夜気の涼しさが眠気を誘って、俺はいつの間にか眠りに落ちていた。
……がちゃり。……がちゃり。
夜中に、妙な音で目が覚めた。何か、固いものがぶつかり合うような音。まるで、鎧兜を身に着けた人間が歩くような。
ふと目を上げると、枕元に鎧武者が正座していた。
声を上げることもできず、俺は布団から飛び起きて、鎧武者と反対側の壁に背中を押し付けた。恐怖のあまり、まともに息ができない。口をパクパクさせている俺に向かって、鎧武者がしぶい声で話しかけてきた。
「驚かせて申し訳ござらぬ。拙者、今朝がた貴殿に命を助けていただいたカブトムシにござる」
か……カブトムシ?
「さよう。固い地面で裏返り、周りに掴まるものとてなく、途方に暮れておったところを、貴殿が神社の樹まで運んでくだされた。夜分に恐れ入るが、丑の刻でなければ、この姿で参上することが叶いませぬのでな」
ああ……そういえばそうだった。しかし、その恰好で丑の刻はやめて欲しかったな。
「是非とも貴殿に礼を申し上げたかったのでござるが、この姿でなければ礼を失すると思いましてな」
カブトムシだけに、ってか。礼はわかったから、帰ってくれないかな。
「しからば、この酒を一杯だけ馳走したいのでござるが」
鎧武者、いやカブトムシは、背後から徳利と湯呑を出すと、金色に光る液体を注いで、俺に差し出した。
酒?具体的な物が出てくるのは初めてだな。
「拙者はミミズやカタツムリどものような、軟体動物とは違いますぞ」
おまえら知り合いなのかよ。ところでこれ、人が飲んでも大丈夫なのか。
「御心配には及び申さぬ。至極、体に良いものでござる」
早く寝たかった俺は、あまり考えもせずにその酒をあおった。口当たりは実に滑らかで、樹の香りと、甘い後味のする、ウイスキーに似た美味い酒だった。
酒を飲んだ俺を見て、カブトムシは満足した表情で消えていった。
翌朝、日が昇る前に目が覚めたが、やけに体が軽い。あの酒は本当に体に良いものだったらしい。俺にしては珍しく、頭も冴えている。
その日から俺は、仕事をバリバリこなして、会社での評価がどんどん上がっていった。やがて昇進の話が来て、給料も上がり、仕事の調子もますます上がっていった。カブトムシがくれた酒は、たった一杯で俺の運まで上げてくれたみたいだ。
生き物を助けて、初めて恩返しらしい恩返しをしてもらった。ふと思い立って、カブトムシを放したあの神社へ、恩返しの礼を言いに、参拝に行った。
賽銭箱に小銭を投げて、神社の本殿で頭を下げると、どこからともなくあのカブトムシの声がした。
「良い夢を見られたでござろう……」
ふと気がつくと、俺は神社の森の樹の下で、よじ登っていくカブトムシを見上げていた。
まさか、ここから夢だったとはなぁ……。
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人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり……
ではまた!