ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

いまさら驚かれても

2015-07-28 07:47:09 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「逆の驚き」7月23日
 読者投稿欄に船橋市の主婦I氏の『校長の「マネジメント」に懸念』という表題の投書が掲載されました。その中でI氏は、岩手県の中学校で起きたいじめ自殺事件における校長の談話を取り上げ、『おや?と思ったことがある。それは「学校をマネジメントする立場として…」というくだりである。昨今の校長というのは、教育者である前にマネジャーという意識をもって働いているのだろうか』と書かれているのです。
 I氏は、校長はまず教育者であるべきという考えをお持ちのようで、この校長の発言に驚かれているわけですが、私は逆の意味で驚きました。
 元々、校長は教育者であるべきという考え方が学校現場では主流でした。しかし、そうした考え方では、校長が強力なリーダーシップを発揮することができないという批判が、「世間の声」として高まってきたのです。その背景には、学校は教育という営みを行う神聖な場所ではなく、国民が納税の義務を果たした代価としての教育サービスを受ける権利を行使する場所であるという考え方、子供や保護者は消費者で学校はサービス業者という発想、そこから導き出される学校は消費者の選択に敏感な企業に学ぶべきという学校像があったのです。
 また、いじめや児童虐待、教員の不祥事などのトラブルに際し、きちんとした対応ができない校長、というイメージがこうした傾向に拍車をかけました。しかし、今回の東芝の事件を持ち出すまでもなく、過去20年間に限っても、多くの企業のトップが問題解決能力の不足、失敗を認めない責任転嫁の醜態をさらしてきたことでも分かる通り、それは過大な企業幻想に過ぎなかったことが明らかになったのですが、時すでに遅しでした。
 つまり、国民の要望によって、校長は教育者の側面を減らし経営者としての性格を増していったのです。その象徴的な事例が、民間人校長の登用です。まさか社会人となって20数年、営利企業で勤務してきた人物、利益を上げ管理職として評価されてきた人物に、教育者としての役割を期待するわけがありません。民間人校長に求められたのは、学校に与えられたヒト、モノ、カネを有効に活用し、数値に見えるかたちで成果を上げるというマネジメントだったのです。
 授業をしたことも、学級経営をしたことも、問題を抱える子供の生活指導をしたこともない人物、学習指導要領に目を通したこともなく、教材研究も子供理解研究もしたことのない人たちを登用し、学校の企業化を進めてきたのが、過去20年間の歩みだったのです。
 だから、I氏のような「驚き」を今更聞かされることに驚いたのです。校長は教育者かマネジャーかという論争をもう一度やってほしいと思います。

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