「書かなければいいの?」7月23日
『道徳 記述式で評価』という見出しの記事が掲載されました。今までも報じられてきた内容です。ただ、この記事にコメントを寄せている愛知教育大教授子安潤氏のおっしゃっていることがよく理解できなかったので、少し触れたいと思います。
子安氏は、『子供たちが自由に考えているように見えて実は枠組みが決まっており、評価もその範囲でされてしまう。教育は個人の尊重を原則にすべきで、教師が記述すれば公的に生徒の内面を値踏みすることになる可能性があり、そうした評価はすべきでないだろう』と語られています。
私が理解できないのは、まず、「枠組みが決まっており、評価もその範囲内でされてしまう」という点についてです。評価という行為は、「記録」ではありません。記録には記述者の価値判断は影響しません。機械でもできますし、その方が正確な記録となります。
しかし、評価は、ある基準、目的、別の言い方をすればある価値観が物差しとならなければできません。教員が授業をするとき、何の目的もなくただ発問したり、指示したり、資料を配ったり、板書したりすることはありえないことはだれでもわかるはずです。つまり、授業をする以上、教員はある狙いをもち、その狙い達成できたかどうかを判断する基準と方法を準備して臨み、もし達成できていないと判断(評価)したときは、別の手立てを講じて狙いの達成を目指すのです。この基準なり狙いなり目的なりというものが、子安氏の言う「枠組み」なのだとすれば、子安氏の見解は、意図的計画的な試みである授業そのものの否定につながってしまいます。
次に分からないのが、「教師が記述すれば公的に生徒の内面を値踏みすることになる」という意見です。指導要録や通知表に書きさえしなければ、構わないということなのでしょうか。教員が心の中で評価していても、それを記録に残すなという主張なのでしょうか。
あるいは、私的なメモの類なら構わないということなのでしょうか。しかし、現在では公務中に作成したメモも公文書であるとして、情報公開の対象となるケースがほとんどです。意味はありません。
さらに、「内面を値踏み~」ということがいけないことのように書かれていますが、いわゆる児童理解という概念は、教員が子供の内面を推し量ることであり、語感は異なりますが、値踏みとほぼ同じ概念です。それもいけないのでしょうか。
実務的な問題としても、担任が変わるときの引継ぎは、指導要録等の文書を用いて行われます。35人の子供すべてについて、文書なしで担任の記憶だけに基づいて引継ぎすることは不可能です。道徳については、引継ぎ不要、つまり子供の現状についての理解はいらないという立場なのでしょうか。
子安氏が理想として描く道徳の授業とその評価の在り方が見えてきません。あれもだめこれもだめ、と否定するだけでは、道徳の授業は成り立ちません。そもそも道徳授業はするな、というのであればそれなりに首尾一貫していますが、そうなのでしょうか。
もしそうだとすれば、そういう方だけにコメントを求めたM紙の在り方にも疑念が湧いてしまいますが。