ヒマローグ

毎日の新聞記事からわが国の教育にまつわる思いを綴る。

自分のことになると

2017-08-19 07:41:15 | 我が国の教育行政と学校の抱える問題

「自分のこととなると」8月12日
 國枝すみれ記者が、『さよならの言い方』という表題でコラムを書かれていました。その中で國枝氏は、『延命治療はいやだ。ひつぎは段ボールでいい。墓もいらない。そう思って生きてきた』と死後の儀式についての考え方を述べています。
 しかしその國枝氏が、『実家で飼っていたキエリボウシインコのたろうが7月末、水も飲めなくなると、米国から一時帰国して入院させ、点滴、酸素吸入をして、流動食も与えた』『段ボール箱での埋葬はしのびなく、飯びつをひつぎにしてヒマワリを敷き詰めた庭に埋めた。美しい石を探して墓石にするつもりだ』という行動を取っているのです。そしてそのときの心理状態を分析して、『延命治療も人間式埋葬も、たろうの望みではなく、私が心の平穏を得るためのあがきだ』と振り返っていらっしゃいます。
 國枝氏に親しみを感じます。人は他人事として距離を置き、冷静に論理的に物事を判断するときと、自分自身が当事者として渦中にいるときとでは全く異なる判断・行動をしてしまうことがあります。それをその人の「本音」といってもよいと思います。
 以前、このブログで人権教育に熱心な教員の話をしたことがあります。男女平等教育の視点から学校のあり方を批判していた彼女が、娘が小学校に入学するときには、娘の好みに逆らって赤いランドセルを買おうとしたという話でした。彼女も、「自分の娘のことになると、一人だけ黒いランドセルではいじめられるのでは、と気になって」と語っていました。日頃、男子の上履きが青で、女子の上履きが赤と決められているのはおかしい、と校長を突き上げていた彼女が、です。
 学校教育には、様々な場面で、正論=建前と本音、他人事と自分事という2つの判断が併存しています。体罰問題でいえば、体罰は許されない、教育者としての敗北という正論と、あの連中には口で言っても分からないという本音、いじめは被害者の立場に寄り添ってという正論と、あの子にも問題があるんだよなという本音、保護者の苦情は貴重な情報提供と考えてという正論と、穴生や煩いんだよなという本音、などです。
 これは、正論と本音という言葉を、他人事と自分事という言葉に置き換えても成り立ちます。つまり、よその学校や学級での体罰報道には他人事だから、体罰は教育者としての敗北と言い、自分が行った体罰には、あの連中相手に他にどんなやり方があったって言うんだよ、と開き直るという具合に。
 私は、先ほど、國枝氏に親しみを感じると言いました。私も他人事と自分事を使い分けてしまう人間だからです。それは人間の性だと思います。しかし、私的なことであればそれで済むかもしれませんが、公的なことを論じるとき、自分の弱さを自覚しながらも正論を述べるのであれば、やせ我慢してでも正論で判断・行動する姿勢を貫く必要があります。そのやせ我慢だできてこそ、公的な場で発言する資格があると考えるべきです。自分をふり返ると胸を張って言うことはできないのですが。

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