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海龍王寺

2018-02-25 22:19:20 | 奈良
2018年2月18日、奈良市内観光に行きました。西大寺の後、駅前からバスで移動です。法華寺前で下車し、海龍王寺にお参りしました。

説明書より「和銅3年(710)、平城京に都が移された時、藤原不比等が、ここに邸宅を構えるにあたり、付近一帯を治めている土師氏から土地を譲り受けた際、土師氏ゆかりの寺院がありましたが、寺院を取り壊さなかったので、邸宅の北東隅に残ることとなりました。養老4年(720)、藤原不比等が亡くなり、娘である光明皇后が邸宅を相続したので、邸宅は皇后が起居する皇后宮となり、北東隅の寺院は『皇后宮内寺院』となりました。天平3年(731)、遣唐留学僧として唐に渡っていた玄昉の帰国をひかえ、無事に帰国を果たし、最新の仏教・仏法を我が国に伝えることを願われた光明皇后は『皇后宮内寺院』の伽藍を整えられます。隅寺(海龍王寺)の歴史は、ここから始まりました。天平6年(734)唐を出発した玄昉は、東シナ海で暴風雨に遭遇いたしますが、狂瀾怒濤に漂いながらも海龍王経を一心に唱えたことで九死に一生を得て種子島に漂着し、翌天平7年(735)平城宮に戻ってまいります。
 聖武天皇・光明皇后は、最新の仏教・仏法のみならず、鎮護国家の基礎となる仏教政策も学び取ってきた玄昉から、いつでも自由に意見を求めるため、内裏に近く、自身が起居する皇后宮内にある海龍王寺の住持に任じます。住持に任じられた玄昉は、唐の洛陽宮にならい、海龍王寺を「平城宮内道場』と定め、伽藍の拡充および収蔵する経典などを充実させる一方、密教にも通じていたことから聖武天皇・光明皇后、聖武天皇の生母である藤原宮子のために祈願・祈祷を修したことで、天皇家との関わりが非常に深くなった海龍王寺は『天皇家の私寺院』となり、『宮廷寺院』として天皇家を支えていきます。
 奈良時代は『宮廷寺院・宮中内道場』として繁栄いたしましたが、平安京に都が移ると、平城京の衰退と並ぶように海龍王寺も衰退いたします。鎌倉時代を迎え、真言律宗の宗祖である叡尊の滞在をきっかけに伽藍の復興が進められ、戒律の道場として栄えます。貞治4年(1365)から明和3年(1766)の間、海龍王寺から5名の西大寺長老を輩出し、真言律宗の中でも筆頭格の寺院になりました。
 鎌倉時代は戒律の道場として栄えたものの、室町時代に起こった応仁の乱の影響を受け、江戸時代まで衰退が続きます。江戸時代になり徳川幕府から知行百石を与えられたことで伽藍の維持・管理を行っていましたが、明治の廃仏毀釈の際、東金堂および什物を失うなど大きな打撃を受け、その後、昭和28年(1953)まで荒廃にまかされていましたが、昭和40年~42年にかけて西金堂・経蔵の解体修理を行い、現在に至ります。
 暴風雨の中、海龍王経を唱え、無事に帰国を果たした玄昉が住持に任じたことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定められ、遣唐使の渡海安全祈願を修することになりましたが、海龍王寺に残されている海龍王経には、東シナ海を渡った奈良時代の人々の思いが刻まれています。また、玄昉は般若心経の流布・講釈を熱心に行ったことから、海龍王寺において般若心教の写経が盛んに行われ、隅寺心経と称される般若心教の写経が現在も海龍王寺に残されており、般若心経写経の原本として大切にされています。
 国宝・五重小塔、重文・西金堂は『平城宮内に残る唯一の奈良時代建造物』であり、「宮廷寺院』の伽藍を現在まで伝えています。」
奈良県奈良市法華寺町897
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表門(奈良市指定文化財)
「海龍王寺は光明皇后が天平3年(731)に創立したと伝え、この表門の位置は平城京の東二坊大路に面する場所にあたる。16世紀建立、四脚門、切妻造、本瓦葺、左右築地塀付。円形の本柱の前後に立つ合計四本の控柱の数から、このような形の門を四脚門という。控柱の角の欠き取り部分が大きく、屋根の垂木の先が反り増しているなど、中世建築の様式を今に伝えており貴重である。」







一切経蔵(重要文化財)
「正応元年(1288)建立、桁行三間、梁間二間、一重、寄棟造、本瓦葺。室町時代と寛永7年(1630)に修理が行われ、昭和40年~42年にかけて解体修理が行われました。経典や文書を納めたことから、高床式の建物になっています。」

西金堂(重要文化財)
「奈良時代の天平3年(731)建立、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺。鎌倉時代と昭和40年~41年にかけて解体修理が行われました」

五重小塔(国宝)
「天平時代前期(729-749)建立、高さ4.01メートル(相輪まで2.85メートル)、創建当時から西金堂内に安置され、細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて作られています。天平時代の建築技法を現在に伝えており、建築様式の発展をたどるうえにも重要であることに加え、建造物としての天平時代の五重塔はこれ一基しか現存しておらず、非常に価値が高い。この塔は屋内で安置することを目的としたため、近くから見たり拝んだりすることから工芸的な性格を重視しており、小塔の外部は細部に至るまで忠実に作られています。海龍王寺は皇后宮の内廷寺院として、聖武天皇・光明皇后を支えましたが、五重小塔及び西金堂は、光明皇后宮内に残る唯一の天平時代建造物であるとともに、内廷仏教と内廷寺院の中心伽藍を現在に伝える仏教建造物として貴重な役割を果たしています。」

本堂(奈良市指定文化財)
「17世紀中期の建立、桁行五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺。本堂は奈良時代に建っていた中金堂の位置を踏襲しており、深い軒の出と勾配の緩い屋根、それに堂内の柱配置が整然としていることなど、奈良時代の仏堂の様式と似ている点が多い。建立年代は寛文年間(1665年頃)とも伝えられ、江戸時代の建物でありながら古風な造りであり、古い伝統建築の様式が好まれた奈良の地域性を知ることができて貴重である。」

















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