新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

日本大学フェニックスの悪質なプレー問題を考える

2018-05-27 08:25:34 | コラム
偽らざるところを述べていこう:

私はどちらかと言えば、これまでこの問題については日本大学とフェニックスに対してい厳しい論調で臨んで来なかったと思っている。そこにはそれなりの理由もあるのだが、マスコミ論調とその影響で(と敢えて言うが、未だに我が国では悲しいかなマイナースポーツであるところから脱していないフットボールのことを一般の方がどれほどご存じかと思うから言うのだ)これまでに関心がなかった方たちが一斉にフットボールと日本大学に対して批判的になっておられたとの感が拭えないと思っている。

正直なところ既に指摘した通りで、誰がどう弁明しようと何だろうと、非は日本大学フェニックスの側にあるのは疑いの余地はない。日本大学には責任を逃れる余地は残されていないと言える。また、関西学院大学のあのプレーで負傷したQBの親御さんは真実を述べたのだからとの理由で、宮川泰介の減刑だったかの嘆願書を出されるというのには違和感を禁じ得ない。いや、それ以前に「如何なる理由があろうともあのプレーをした宮川泰介を告訴する」とまで言われるのには、如何なものかと思っている。

私は高校2年の頃(1949年)だったと思うが、サッカーの公式の試合中に左足だったかの向こう脛を激しく蹴られたことがあった。当時は「脛当て」などという高級なものはなく、我々は素足に手編みした毛糸のストッキングを履いていただけだった。その瞬間は「痛いな」とは感じたが、現代風に言えばアドレナリンがでまくっていた緊張する試合中だったので、何とも感じないで試合を続けた。だが、終わってみれば臑が割れて大出血の上に骨が見えるかと思ったほどの深手を負っていた。

その瞬間に激痛が襲ってきて立っていられなかった。応急手当の真似事をした上で仲間の肩に縋って帰宅した。相手の無防備の脚を蹴ることは明らかな反則だったが、試合中のことで誰に蹴られたかなどは解らなかった。ましてや、反則で負傷させられたからといって相手校の選手を訴えるなどは夢でも考えられなかっただろう。だが、フットボールでは試合の進行の仕方が違うので、誰が何時どのような規則違反をしたかは7人の審判の1人で至近距離にいる者が見ているからマーカーが投じられるのだ。

あの宮川泰介が犯した規則違反は余りにも常軌を逸していたので、現在に至るまでの厳しい日大側に対する責任と原因追及が続いている。そこまでは十分に理解できる。何度でも言うが「非はと言うか、責任は日大側にある」のだから。だが、被害届の提出や告訴にまで持って行かれるべき性質なのかなと、私は未だに半信半疑である。だが、「そこまでなさらない方が・・・」などと言い出せないのだと思わざるを得ない。

私は宮川泰介が勇気を出して(出したのだろう)監督とコーチに如何なる指示を出されてあのプレーに及んだかを正直に告白したのは、結果的には良かったとは思っている。だが、だからと言って、規則違反をせざるを得ないとまで指示か命令を解釈したのは免罪になる性質ではないと思っている。勿論、もしも監督とコーチが宮川君が述べたような指示を出していたのであれば、彼らの責任は宮川以上に重大だろう。

これまでに関係者であるとか、野球出身のスポーツジャーナリストまでがテレビに登場して色々と意見を述べたり解説したり、時には「御託を述べているな」と「フットボールとは何か」を知らずに語っているのは如何なものかと思ってきた。既に「彼らは何か日本大学に対して含むところがあるのかなと感じた」とも述べた。体育会乃至は強豪校の運動部の実態と在り方を外から見ただけで云々するのが適切ではないと思わせてくれる論調もあった。だが、世間には受け入れられてしまったようだ。

そこに、ここに至って漸く元京都大学監督の水野弥一氏(確か現在は立教大学監督)が産経新聞に「競技の本質を正しく理解を」と題して投稿しておられたが、私はこれを読んで「漸くにして初めて正当な議論が出てきた」と感じた。

水野氏は“「止められたのに止められなかった」「けしかけた」ということであれば責められるべきだ。だが、今回のことをもって、アメフット界全体がおかしいと思って欲しくない。アメフット界全体が、ああいうことをしないように自分を振り返るのはよいと思う。”と言っておられる。更に結びには”アメフット界として、「あのような反則は普通はしない」「起こりえない」とはっきりさせて、多くの人に理解してもらう必要がある。”と言われている。この辺りは日本大学フェニックスにこの際に誓ってもらいたいことではないのか。では誰が誓うのかは言うまでもないだろう。



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