本題に行く前の閑話「秘められたインド」その2 | 『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

『真理への翼』(サイババの導きと叡智)

これは『哲学の透視図』を改題したもので、サイババとの体験談、教えを通して「人間とは何なのか?」「死をゴールとした人生に何の意味があるのか?」「真理とは何なのか?」といったものの答えを探究していくものです。

前回の続き、です。

秘められたインド

私は前回の記事で
《秘められたインドは、世俗に生きる普通の人々(言い換えれば、それを知る資格をまだ持たない人々)がどのように「それを知りたい」と望み、物理的な努力と情熱によってインド全域を調査して回っても決して知ることはできません。

秘められたインドが、訪ね来た誰かに、自らの奥深くに隠している真実のほんの僅かでも現して見せることがあるとすれば、それはその人が、それ教えるために秘められたインドそのものによって呼び寄せられた人であった場合だけです》と書きました。
そして、ポール・ブラントンは、まさしくそうした・・・秘められたインドによって呼びよせられた人であり 《彼がインドで出会った人々は、普通の人々が絶対に会うことのできない、秘められたインドの住人たちでした と。
 
そして、これがどういうことかを具体的な事例として教えるエピソードが、この本の中に記されています。
それは以下のような出来事です。
 
彼がイギリスの古書店で知り合い、秘められたインドについての不思議な知識を語って聞かせ、彼の未来に対する信じられない予言をして、彼の秘められたインドに対する好奇心を極限まで高めたインド人は、その後数か月の間彼を自宅に招き交友を重ねますが、やがて目に見えない運命の働きによって別の道へと引き裂かれて行き、交友が途絶えた数年後に、静かに」この世を去ります。(ブラントンは彼の死を、全く偶然のような出来事の中で教えられました)
 
彼はインドへ渡ることを夢見続けますが、そのチャンスはなかなかやってきません。
それ迄の間、彼の心の支えとなっていたのは、コンサルタント的、アドバイザー的な働きにおいて大きな影響力を発揮していた、元心理学の大学教授である友人でした。
この元教授のもとには、一介のオフィスボーイから大会社のトップに君臨して社会に大きな影響を与えている人物まで、実に多くの人々の相談が寄せられ、そのすべてに貴重な、学識を超えたカリスマ性を持つ助言を与え、彼らに大きな益を与えていました。
 
その友人はブラントンに「君はこんな仕事につくべきではなかった」と、彼がジャーナリストという売文業に生活の糧を求めていることを非難し、残念がっていました。
そして「君は本当に、売文業の虜になった哲学者だ。君はなぜ、大学の教授になって静かな研究に専念しなかったのだ! ・・・君は心の根源に達しようと努力している。 君はいつの日か、インドのヨーギや、チベットのラマ僧や、日本の禅僧のもとに出かけていくだろう。そして、ある不思議な記録を書くだろう」と、くだんのインド人と同じように、彼の未来について予言めいたことを告げました。
 
そんな友人に対して、彼はある時、胸にしまい込んでいたある質問をしました。
その質問とは 「あなたはヨーギのことを、どうお思いですか?」と言うものです。
それに対してその友人はこう、謎めいた一言をもって答えます。
「友よ、彼らは知っている! 彼らは知っている!!!」
ブラントンが、インドの地に渡たることが出来たのは、その12か月後のことでした。
 
初めてインドに渡ったときの自分について、ブラントンはこう記しています。
『ヨーギたちと、彼らの秘められた知識を求めて、私は東へ旅した。主な目的のほかに、その時の私は、霊性の光ともっと神聖な生命を見出したいという思いを抱いていた。
私はこの探求をつづけて、灰緑色のガンジスや、広大なヤムナや、絵のように美しいゴダヴァリという、聖なる河川のほとりを遍歴し、インド国中を回った。
インドは私を、彼女のハートまで連れていき、消えゆきつつある彼女の賢者たちは、私のために実に多くの扉を開いてくれた。
ついこの間まで、私はあの神を人間の空想が作り出した幻覚とみなし霊性の真理を、単なるかすみ眼であり、幼稚な理想主義者たちの嗜好品として作られた方便にすぎないとみる連中の一人だった。
私もまた、神学的パラダイスをこしらえて、神の領域の管理人でもあるかのような顔をして確信ありげに御託を並べて回る連中を見るとイライラした。
無批判な神学者たちの、虚しい狂信的な努力と思われるものに対しては、軽蔑以外の何物も感じなかった。」
そしてこう続けています。
(しかし)私はついに、神を容認するに至ったのである。
社会からすればこれは、取るに足りない個人的なことに見えるかもしれないが、唯物論と冷徹な理性に依存し、宗教的な情熱を欠く現代世代の子供としては、大した業績だと思うのだ。
私のこの信仰は、現代の懐疑主義者が取り戻し得るであろうたった一つの方法によって取り戻された。
議論によってではなく、圧倒的な経験がもたらす立証によってである
しかも、私にこの徹底的な変化を起こさせたのは一人の密林の賢者、…6年間、山の洞窟に住んでいたという、少しも気取らない隠者(筆者注釈・ラーマナ・マハリシ)であった。
彼が、大学の入学試験をパスしないのは十分あり得ることだ。
それでも私は、私のこの人に負うところがいかに深いかを記すことを恥としないのだ。
このような賢者たちが生まれているということは、《知的な西洋人が注意を向ける価値がある》というお墨付きをインドに与えるものであろうと考える。
今は政治的社会的混乱の嵐によって隠されてはいるけれど《秘められたインドの霊的生命》はなお存在する
私は、われわれの社会に生きる有象無象の輩たちが、物欲しげにあこがれている力と静けさを獲得した何人かの熟達者の、確実な記録を描こうと努力した。
私はこの書物の中で、他のことがら、…不思議なことや奇怪なことの存在も立証した。
 
今、イギリスの片田舎の日常生活に戻り、タイプライターのキーを叩きながらこの物語を記していると、それらのことは信じられないような気がしてきたりする。
そして、懐疑的な世の人々に向かってこんなものを書いている自分の無鉄砲さに驚いたりしてしまったりもする。
しかし私は、現在の世界を支配している唯物論的な思想がいつまでも続くとは信じない。
すでに、来たるべき思想の変化の預言的な兆候も認めることができるのだ。
はっきり言うけれど、私は奇跡は信じない。
私と同世代の大方の人もそうだろう。
しかし私は、自然の法則に関する、我々の知識が《不完全なものである》ということもまた確信しているのである」
 
そんなブラントンが、インドに辿り着く前から、待ち受けているであろうあらゆる苦難を覚悟で探そうとしていた秘められたインドは、彼がホテルで荷物をほどく前から、扉を開けて、出会うべき人々を順序立てて用意して待っていました。
 
秘められたインドがブラントンに用意していたゴールは、ラーマナ・マハリシでした。
                    「ラマナ マハル...」の画像検索結果
ブラントンがそこに至る旅は、彼曰く 「深い叡智と、奇妙な力を持つと称される、いわゆる聖者たちのたいそうな評判を聞いて、焼けつくような日々をろくによりも眠らず、彼らに会う旅をする、…しかし、その苦労の結果として出会えたのは、聖典の奴隷か、由緒ありげに見えるもの知らずか、金儲け主義の魔法使いか、少しばかりの技を持った手品師にすぎなかった」と言うような、筆舌に尽くせないような苦難に満ちた健康と神経をすり減らすものになりましたが、それでもなお、その旅のすべては、ブラントンが知りたいと渇望していた秘められたインドの奥深くに隠されていた、真理という明かりのともる宝殿へと続く、扉の一つ一つとして存在している人々との出会いを用意して、彼を導くものでした。
 
そしてそれは、他の誰にも与えられたことのないような、特別なものでした。
 
当時のインドは、イギリスの植民地であり、多くの西洋人が、都市部だけでなくジャングルに囲まれた奥地まで支配者、開発者として住んでいました。
ブラントンは当初、そうした人々に、秘められたインドへ接触するためのアドバイスや、助力を頼もうと思っていました。
しかしそれが、いかに世間知らずな、的外れな考えであったかをすぐに思い知ることになりました。
彼はそのことを思い知らされた時の出来事を以下のように記しています。
 
『私は、トリチノボリの巨大な岩で作られた遺跡の陰で、一人のロンドン子に会った時のことを今でもはっきりと覚えている。20年以上、彼はインドの鉄道事業の責任ある地位を占めていたのだ。私が彼を質問攻めにするのは避けられないことだった。私は、ついに、核心の質問をしてみた。
「ヨーギにお会いになったことはありますか?」
その時彼は、私の質問に、ちょっと呆然とした表情を浮かべた後、こう言ったのだ。
「ヨーギですって?それは何ですか?動物ですか?」』
…つまり、そういうことです。
インド人に生まれようが、支配者としてインドにどれほど長く住んでいようが、それを知る資格のない人が、それを知ることは決してあり得ないのが、秘められたインドなのです。
 
インドを旅した人間が、偶然のいたずらや幸運によって、あるいは興味本位の会いたいという願望や熱意がもたらす努力によって、聖者や賢者や本物のヨーギに出会うことなど、絶対にあり得ないことです。
なぜなら、彼らは、例え目の前にいたとしても、自らを探し求める相手にそれを知る資格を認めなければ、狂人や凡人や無知で愚かな俗物を装って相手をやり過ごすからです。
 
これは、アヴァターであるサイババ様にも言えることです。
たとえ、目の前にサイババ様がいて、何かを話しかけ、何かを物質化して与えたとしても、その人にそれを知る資格がないのであれば、決してサイババ様がアヴァターであることを感じ取ることはできません。
サイババ様をインチキと信じたい人間には、サイババ様は、ただのインチキ聖者に見えるように仕向けられるだけです。
 
サイババ様の近くには、サイババ様の信者や帰依者だけでなく、サイババ様を罵りたい人々も、誹謗中傷したい者も、傷つけたり殺したい者も導かれてきます。
なぜなら、あらゆる神の化身、聖なる人々の物語にはそうした人々が必要不可欠だからです。
もの
 
サイババ様を神の化身と信じることができる経験をすることは、神の最大の恩寵であり祝福です。
その資格を持たない人が、それを得ることなどあり得ないことなのです。
しかし、そういう人もまた、サイババ様によって、アシュラムに招き入れられます。
その人に相応しい、役を与えるためにです。
 
 
サイババ様のアシュラムには、ダルシャン(神の姿を見ること)スパルシャン(神に触れること)サンバーシャン(神と言葉をかわすこと)を求めて、毎日何千何万という人々が訪れていました。
                    「サティヤサイバ...」の画像検索結果
 
そうした人のすべては、サイババ様が、その資格を認め、世界中から呼び寄せた人々です。
例外は一人も存在しません。
しかし、だからと言って、サイババのアシュラムに呼び寄せられた人々が、善良な人々だけかというと、けっして、そうではありません。
 
人は、コンピュータがなぜコンピュータとして機能しているかをほとんど知りません。
宇宙がなぜ宇宙として存在しているのかも、その宇宙になぜ自分が生まれたのかも、宇宙を生み落したのが何であるのかも知りません。
宇宙の神秘は未だ人知の及ばないところにあり、サイババ様は、その宇宙をも越えた存在です。
サイババ様を知ることは、宇宙の神秘のすべてを解明するよりも、果てしなく人知の及ばないものなのです。
そうである以上、サイババ様のなさることもまた、誰にも理解できないことを本質として存在しています。
 
一般的な思い込みの中には、もしサイババが神の化身なら、そのアシュラムには神に救済されるにふさわしい善良な人々や徳高い人々、霊的完成度の高い人々だけが呼ばれるのではないか」と思っているかもしれませんが、それは大きな間違いです。
もちろんそこには、ヒマラヤに隠れ住む最高峰のヨーギや、聖賢、聖者も(どこにでもいる普通の人々を装って)いますが、泥棒や、詐欺師や、殺人者のような犯罪者もいます。
それが「なぜか?」といえば、神を動かす最大の力は祈りであり、彼らもまた、自分の悪事がばれないように、警察につかまらないように、罪が許されるように、誰よりも(つまり、世間的には善人で、有徳とされているような無神論者よりも)熱心に神に祈ってきた人々であり(それは今生のことではなく、前世でなしてきた祈りの場合もありますが)、悪人ではあったとしても、神が化身した今、神の身近に呼ばれ、祝福を得る資格を持っているからです。
 
神は、善人悪人の区別をしません。
神は、どんな悪人であれ、善人であれ、区別なく、すべてを救済するために働きます。
神は、すべての人の祈りを叶え、すべての人を愛し、救済しようとするだけで、決して罰することはありません。
人を裁くのは神ではなく、カルマの法則という神の敷いた天の法であり、その人が思いと、語る言葉と、物理的な行為によって犯した罪の報いです。
 
人は誰であれ、無数の過去世を生きており、その人の人生を支配している運命はそうした無数の過去でなしてきたカルマの結果として形作られたものです。
運命とは何をしても、何をしなくても同じ未来を与えるものではありません
なぜなら、その人生で経験する一つ一つの出来事は運命によってきめられていたとしても、そうした一つ一つの出来事に対する、あなたの反応や対応は無数に存在しているからです。
そして、その反応・・・、つまり、いかに神の子に相応しいふんべつと愛に満ちた思いと言葉と行為によってそうしたすべての出来事に反応し行動したか、…あるいは悪魔の子のように、憎しみや怒りや妬みや傲慢さや邪悪さに反応し行動したかによって、運命は修正されながら未来を形作っていくものだからです。
つまり、過去の結果と、未来を決定する原因のすべてが現在にあるのです。
 
どれほど自分の罪の許しを神に祈ろうとも、泥棒は泥棒としての報いを、詐欺師は詐欺師としての、殺人者は殺人者としての報いを、来世で刈り取らなければならない人生の中に生まれます。
しかしそれでも、その祈りは無駄ではありません。
なぜなら神は、そうした人生の中で罪を償わせることによってその人を正し、救済へと続く道へ導くからです。
ただの悪人は罪の向きを受けながら破滅へとつきすすんでいくだけですが、神に祈る悪人は救済へと導かれて行くのです。
悪人は、帰依者としては、最低のランクにいる人々です。
しかしそれでもなお、神に何の興味を示さない、無神論者や頑なな唯物論者よりは神の近くにいるのです。
 
サイババ様に呼び寄せられる人々の中には、神の存在も、サイババ様も決して認めない、無神論者や唯物論者もいます。
なぜなら、そうした人々もまた、「神などいるはずがない、サイババが神の化身などであるはずがない!」と、神やサイババ様のことを誰よりも熱心に考えている人々であり、その本質は、無神論ではなく、無神論という仮の姿を取った負の信仰だからです。
真の無神論者とは、神を否定する人々のことではなく、神に何の興味も抱かない人々のことです。
 
サイババ様の信者や帰依者の中には、側近として日々サイババ様の祝福を受けていながら、ある日突然、サイババ様を裏切り、サイババ様を誹謗中傷する言動を取り始めたり、サイババ様の教えに反する言動を取り始める人たちがいます。
 
それもまた、彼らのカルマの報いとして、彼らに授けられていた運命にすぎません。
そうした人々は、自らの過去世において、そうした役割を演じざるを得ないカルマをつみ重ねていたにすぎません。
 
たとえそれが側近などと言う立場にいる人であったとしても、物理的にサイババ様の近くにいる人と、霊的にサイババ様の近くにいる人とは決してイコールではありません。
物理的な目に見えるところで与えられているサイババ様に祝福と、目に見えない霊的な領域で与えられているサイババ様の祝福は、決してイコールではありません。
 
誰が真にサイババ様の帰依者であり、誰が真にサイババ様の近くにいるのかを真に知っているのはサイババ様だけであって、それ以外ではありません。
これを理解していない人がいかに、サイババ様の(自称)帰依者や信者の中に多いかを、私は常に見てきました。
 
サイババ様の帰依者の中にも、それ以外の人の聖賢、聖者の中にも、サイババ様の真実のすべてをあるがままに知っている人は誰一人存在しません。
もし「知っている」かのように装う者がいれば、それは100%間違いなく、聖者やグルを自称するインチキ聖者か詐欺師か、自らの愚かさも知らない愚か者の類であって、それ以外の何者でもあり得ません。
 
すべての人が知っているのは、自らの霊的の成熟度に見合った、サイババ様の真実のほんの僅かな開示にすぎません。
1億人のサイババ様の信者がいるとすれば、一億通りの、最低から最高までの理解や誤解や無知といったものが存在していて、それは他のすべてのものと同じようにピラミッド型の人員分布図を作って存在しています。
サイババ様の真実を、人間が知り得る中で最も深く、適切に知っているものは、太古の聖者やマハリシ、マハヨーギたちであり、最も正しく解説しているものは彼らが聖典として残したヴェーダーやヴェーダーンタです。
 
だからこそ、サイババ様は、人類を救済するために自らが携えてきた最も重大な仕事の一つは「ヴェーダを復興させることである」と仰っているのです。
 
話を、秘められたインドの解説に戻します
 
ブラントンがイギリスからたどり着いたインドの港はボンベイであり、最初に宿泊したのはホテル・マジェステックでした。
そして、旅の疲れの中で数多くある中の一つの荷をほどき、まだ何の準備すらできていない時点で、彼は同じホテルに、エジプトから来た魔法使い・・・、つまり、不思議を行う生身の人間が客として宿泊していることを知るのです。
 
彼はその人物を紹介するための書き出しにこう書いています。
《この男は、あの、疲れ切った観客をだまして一儲けし、劇場にももうけを与えるという、たちの悪い手品師連中の一人ではない。
この男は、中世の魔法使いの系列に属するのだ。
彼は毎日、普通の人々の目には見えないが、彼にははっきりと見える、不思議な生き物たちと付き合っているのだ。
・・・少なくともこのようなものが、彼が作り出した奇妙な評判なのである」と。
 
「ホテルの従業員たちは皆、恐れるような顔つきで彼を眺め、息をひそめて彼のことを語る。
彼が通り過ぎると必ず、他の客たちは本能的に会話をやめ、その目に、戸惑ったもの言いたげな色を見せる。
彼は人々との交際を求めず、普段は一人で食事をとる環境を要求する》
 
ブラントンは、このマハマウド・ベイについて知った瞬間から、彼のことが頭から離れなくなり、翌朝「彼を何としてでも取材しなければ…」という思いとともに目覚めます。
 
ブラントンは、自分の名刺の裏に、会見の申し出と、彼に会見を承諾させる一助になるかもしれないと考えられるあるシンボルを小さな文字で書いて、その名刺を使用人に一ルピー銀貨とともに握らせ、マハマウド・ベイの部屋に使いに出します。
 
使用人は5分も経たないうちに帰って来て、「マハマウド・ベイは直ちにお目にかかると仰っています。彼は今朝食をとるところなので、御一緒にいかがか、と言っておられます」と返事を伝えました。
 
マハマウド・ベイは、ハンサムなフランス人のような顔からこぼれる微笑みをもってブラントンを迎えましたが、握手をすることは拒否し、椅子に座ることを勧めながらそれについてこう弁明します。
「どうぞお座りください。(握手は)許してください。私は決して握手はしないのです」
そして朝食を勧めます。
ブラントンは礼を言い、簡単な自己紹介とともに、会見を申し込んだ真意を告げます。
「新聞社から派遣されてきていらっしゃるのですか?」マハマウド・ベイが尋ね
「いいえ、私用で来ているのです。あることを研究したいと思いまして、その著作にための、若干の資料集めのために…」とブラントンは答えました。
そして彼は、単刀直入にこう尋ねます。
「あなたが魔法の力をお持ちだというのは、本当のことなのですか?」
その問いに相手は、「ええ、アラーが、私にそのような力をお与えになったのです」と毅然とした表情で答えます。そしてこう続けました。
「あなたは、私の実演をご覧になりたいとお思いなのでしょう?」
まさしくその通りだったので、ブラントンは頷きます。
「鉛筆と、何かしらの紙をお持ちですか?」
相手が尋ね、ブラントンはポケットから急いでメモ帳を取り出して一枚を引きちぎり、それから鉛筆を取り出しました。
それを見た相手は「結構です。では、何か訪ねたいことをその紙に書いてください」と告げると、窓際まで下がり、ブラントンにせを向けた姿勢で窓の外の街を眺めはじめました。
「どういう質問を?」
ブラントンが尋ね、マハマウド・ベイは「何でも、尋ねたいことをお書きください」と答えます。
ブラントンが紙に書いた質問は 「私は4年前にはどこに住んでいたか?」 でした。
マハマウド・ベイはブラントンに、紙をできるだけ小さく折りたたんで鉛筆と一緒に右手のひらにしっかりと握るように命じます。
 
ブラントンが言われたとおりにすると、マハマウド・ベイは目を閉じ、深い精神集中の状態に入ります。
やがて彼の瞼が開かれ、彼は静かにこう告げました。
「お尋ねの質問は、『私は4年前にはどこに住んでいたか?』ということではありませんでしたか」と。
ブラントンがおどろきのなかで「おっしゃる通りです」と答えると、マハマウド・ベイは「手の中の紙を広げてみてください」と告げてきました。
ブラントンが言われた通りた手を開き、その中に握りしめていた紙を開くと、その紙の、自分が書いていた質問のすぐ下に、質問の答えが、…つまりブラントンが4年前に住んでいた町の名前が正確に鉛筆で書かれていたのです。
 
ブラントンが、もう一度やってくれるように頼むと、マハマウド・ベイは快く承知して、再び同じ実演が始まりました。
今度ブラントンが書いた質問は『私は2年前には何という雑誌の編集をしていたか?』と言うものでした。
結果は同じで、マハマウド・ベイは正確にその質問を言い当て、手に握りしめていた紙には、その正確な答えが書かれていました。
ブラントンは、この信じられない力による実演を再度リクエストし、マハマウド・ベイは、これが最後という条件でそのリクエストにこたえます。
結果は同じでした。
 
ブラントンはあまりに信じられない出来事を目の当たりにしているうちに、気味の悪い恐ろしさに襲われ、心臓が止まりそうになります。
ブラントンは、何とか合理的な説明を見出そうとしますが、考えついたのは、何か特殊な催眠術が生み出す幻影を見せられているのではないか、言うことぐらいでした。
しかしその可能性をすぐに排除します。
なぜならブラントンは催眠術にも精通していて、その防御の仕方も知っていたし、彼が行う一連の実演の中にその痕跡を見つけることもできなかったからです。
彼はジャーナリストとして、『彼にこの秘密を教えてくれと頼むのは、月をくれと言うようなものだ』 とおそれながらも、こう口を開きます。
 
「あなたの行うその不思議な技のメカニズムを説明してはいただけないでしょうか?」
それに対してマハマウド・ベイは 「私はこの秘密を教える代償として、莫大な金の提供をもうしでられたのですよ」と答えます。
「しかし今はまだ、それをしようと言う気はありません」
ブラントンはそれでも、さらに食い下がり 「私が心霊学的な事柄に対して全くの無知ではないということは、あなたにもおわかりだと思いますが」と告げてみます。
 
マハマウド・ベイは 「わかっていますとも。私がもしこの先、ヨーロッパに行くことがあれば、・・・それは十分可能性のあることなのですが、あなたわは私の力になってくださるでしょう。その時には、もしあなたが望むのであれば、あなたも同じことがおできになるように、この方法を伝授しましょう」 と答えます。
「その訓練にはどのくらいの時間がかかりますか?」
「それは人にもよります。もしあなたが一生懸命、すべての時間を使ってそのことに打ち込むのであれば、三か月もあれば、十分に、方法を理解することはできるでしょう。しかしその後でさらなる何年間もの練習が必要になります」
マハマウド・ベイの言葉を聞いてブラントンは 「あなたの不思議な技の秘密の革新的な部分を明かすことなしに、この技のおおよその根拠、…つまり理論的な面だけを説明してくださることはできませんか?」となおも食い下がってみます。
マハマウド・ベイはしばらく考え込んだ後 「わかりました。私はそれをあなたにお話ししましょう」と答えてきました。
そしてこう続けました。
「しかし、今は許してください。明日、正午1時間前にここに来てください。話を続けましょう」と。
(次回の記事へ続く) ε=ε=ε= ヾ(*~▽~)ノ🏁
 

 
サイババ様の御言葉
『私を理解しようと試みてはなりません。
失敗するだけです。
それよりも、あなた自身を理解しようと努めなさい。
そうすればあなたは、私を理解することに、今以上に成功するでしょう』
 
(アヴァターである自分と他の聖賢、聖者との違いについての)サイババ様の御言葉
『私は苦行をしません。
私は何ものをも瞑想しません。
私は何も学びません。
私は志願者でもなく、求道者でもなく、学者でもなく、賢者ですらありません。
私は霊的な弟子を導き祝福するために来ました。
私は男でも女でもなく、若くも年寄りでもありません。
私はすべてです』
 
『あなたは今日、私を初めて見るかもしれません。
しかしあなたは私にとっで古くからの知り合いなのです。
私はあなたを、何から何までよく知っています』
 
『私の仕事は、真理と愛によって、人間を霊的に再生させることです。
私はあなた方に、いかに世のため人のために役立つように生きることができるか、実りある死に方をすることができるかを示すために来ました。
あなたが私に一歩近づくなら、私はあなたに10歩近づきます』
 
『私の使命は、あなた方に勇気と喜びを与え、弱さと恐れを撃退することです』
『あなた自身を罪人と批判してはいけません。
罪は単に、過失にすぎないものに間違って付けられた名前です。
心から後悔して、二度と繰り返すまいと決意するなら、私はあなたの一切の罪を許します』
 
今回の記事は以上です。
ではまた。
サイラム  <(_ _)>
 
おまけ
YOUTUBEで拾った、かなり昔の日本語バジャン