エスノメソドロジーについて2 言語ゲームの成立
こんにちは。石田智巳です。
今日は,エスノメソドロジーの続きです。
20年ぐらい前に買った『エスノメソドロジーの現実』(世界思想社,1990)の中から具体的な事例を紹介してみたいと思います。
そして,新しい教育社会学との関連について語ってみたいと思います。
うまくいかな?
では,どうぞ。
エスノ=人々,メソドロジー(方法(論))。
単純にいえば,人々のそのときどきの言語ゲームはどんなルール(方法)で成り立っているのかを,明らかにするのだ(多分)。
そういう言い方はしていないけど。
違背実験について述べておきたい。
これは,「医学校にせ面接実験」というものだ。
細かいことは除くが,学生に面接試験についての研究をしているから手伝ってほしいといって,被験者になってもらう。
そして,実際には行われていない面接官と受験者との「にせ面接」の録音を二種類きかせる。
最初録音に出てくる受験者は,「可もなく不可もなく」であり,2番目の録音に出てくる受験者は「礼儀知らず」のように作られていた。
学生は,それぞれをきいて、よくないと思ったところで用意された装置のボタンを押すようにいわれ,聞き終わったあとで,それぞれの受験者の印象と,ボタンを押した箇所の説明を求められる。
こうして,学生にまず「『構え』をつくる」ようにしむける。
そして,実験者は「これですべて終わりました」と書類をカバンに片付ける。
その後で,この二人について何かもっと知りたいことはないかを訊く。
当然というか,学生は,この二人の面接の結果がどうであったかを知りたいわけだ。
実は,ここからがこの実験の本番である。
「『構え』をつくる」の次は,「『不調和』をつくりだす」である。
つまり,学生の作った「構え」とは矛盾するような情報が与えられる。
2番目の学生であれば,「礼儀知らず」であるという印象が「『構え』をつくる」段階でさんざん述べられていた。
しかし,実験者は二番目の学生について次のようにいう。
「父親は会社の副社長で,大金持ち」
「大学ではほとんど全優」
「面接官からの評価は,上品で礼儀正しい青年である。落ち着きがあり,感じもよく,自信に満ちている。・・・・充分に推薦に足る」
「録音を聞いた他の6人の面接官も同じ意見」
「あなたは26番目の学生だが,23人が面接官と同じ意見」
こういった情報を与えられた学生は,何とかつじつまを合わせようとするがうまくいかない。
困惑するばかりであるが,再度録音を聞かされる。
さて,これを次数を1つあげて抽象度を高めて説明すると,以下のようになる。
学生は,2番目の面接の様子を聞いて,(ガーフィンケルのねらい通りに)「礼儀知らず」という「構え」を持つ。
これは,まさに現象学的な社会学における「同一説」,つまり情報は解釈する側の「動機図式」によって,いろいろに解釈できるという理論が採用される。
世界の側に客観的な正解があるわけではない。
ある絵が「ウサギ」に見えるか,「アヒル」に見えるのかはまさに「動機図式」による。
写真は,本の11頁の図であるが,ここには「文脈から判断する」と書かれている。
これは僕の字ではない。
ということは,これは古本屋で手にとって買ったということだろう。
この実験は,動機図式の効力を失わせるために考案された手続きである。
だから,「礼儀知らず」という動機図式に従って聞いた学生に,「礼儀知らず」とは矛盾するデータを与えることによって,この動機図式を破壊する=「不調和を作り出す」ことが行われた。
ガーフィンケルは,当初,この実験において,学生たちは別の動機図式も利用できないため,「混乱」「アノミー」に陥るだろうという仮説を持っていた。
しかし,実際には,そのような理想的な混乱状況に陥った学生は一人もいなかった。
学生たちは,むしろ代わりの動機図式である「上品で礼儀正しい青年」に従って再解釈をして,成功した。
要するに,自分が録音の最初の方で持った「礼儀知らず」というコードで,終わりまで聞いてしまったコトを反省するのである。
この実験で確かめられたのは,まさに「同一説」であり,「礼儀知らず」も「上品で礼儀正しい青年」も,どちらも録音の中の受験者に備わる性質ではなく,学生の側の物象化作用(=知覚の意味付与作用)によって作り出された性質ということだ。
この実験は,まさに知覚の意味付与作用がどのようにして行われるのかを見せてくれた。
フッサール的な現象学的な知覚が重要な意味を持つのは,知覚された中味は人それぞれであったとしても,それを疑うことができないからである。
疑うことができないが故に,確かに外の世界が存在することを告げている。
あるものを見て「おいしそう」と思う人と,「不味そう」と思う人がいても何ら不思議ではない。
それは,外的な対象の性質ではなく,そう思う人の側に表れてくるわけだから。
だから「おいしそう」と知覚したそのことは疑えないのである。
でも,牡蠣が大好きな人が牡蠣を食べてあたったら,その後,それまでの「うまそう」という知覚にはならないことも予想できることだ。
この実験は,外的に作り出された実験によって,知覚された中味が変化した。
これは,判断が代わったといいたいところだが,知覚された中味が変化したということなのだろうか。
ここは少しわかりにくいが,方法としての厳密性を求めているわけではないだろうから,敢えて問わないというか,まあいいや。
特筆すべきは、そういう状況になったときに,まさにガーフィンケルが「秩序の維持」を問題にしたように,人間は不調和をなんとか脱しようとする,というか,バランスを取ろうとするところにあるのだろう。
僕も,このブログのどこかで書いていたことだが,会話が成立するのは,中味云々よりも,会話を成立させたいという動機の方にあると思うのだ。
ある政党の政治家が,特に国会などの状況において,すぐれた説明をしたとしても,敵対する政党の政治家たちは,中味にうなずくわけにはいかない。
なんとか,「それは違う」といわせようとする。
あるいは,やじる。
逆に,親しい人たちと話をしているときには,楽しい会話を,あるいはみんなが望む方向での会話を,成立させることに無意識に努力や配慮をする。
だから,重要なのは内容ではない。
少々よくわからなくても,にこにこ聞いて「そうそう」と続けることができる。
あんまりそうだと思っていなくても,「そうだよね」ということができる。
目的は,会話を続けることだから。
この「医学生にせ面接実験」の例は,まさに自分がおかれた状況の秩序を保つために,自分の知覚の中味(判断?)までが変化したのである。
別の実験では,電話がかかってきた場合に,受話器を取ってから5秒ないし10秒間沈黙してその後話をするという設定となっている。
この場合,電話を受ける側は,まさに実験だと知っているから「ためらい」がある。
暗黙に設定しているルールに対して違反をするわけだから。
しかし,実験であることを知らない電話をかける側は,うける側のまさに「期待に反して」,誰も沈黙について問わなかったという。
そして,「電話の調子が悪い」とか,「寝ぼけているのかと思った」とか,特別な何かがあったと思うだけで,受け手がすぐに応えるというルールに従う能力を疑っていない。
まさに,言語ゲームは,成員の,ゲームを成立させようという無意識的な意志によって成立するのである。
国会の答弁でいえば,言語ゲームを成立させないような意志によって,「成立しない状況」が成立するのである。
今日はもう書かないけど,これが「新しい教育社会学」に関わっていることに気づきました。
また書いてみたいと思います。