体育とスポーツの日記

                      石田智巳が体育・教育,そして運動文化論と運動文化実践(主にランニング)について書いています。

わかっちゃいるけどやめられね。

愛知で話したこと4 まだまだまだヴィゴツキー

こんにちは。石田智巳です。

 

今日も9月11日に愛知で話をしたことの続きです。

くどくど,ぶつ切りに書いているから,これでは全く理解されない可能性がありますね。

それでも仕方がないので,記録を残しておくことにします。

では,どうぞ。

 

ヴィゴツキーの「心理間機能から心理内機能へ」,「文化-歴史的理論」,「発達の最近接領域」,「科学的概念の発達」を経てきた。

 ここまででも,体育同志会の課題が,運動学習によって発達させるのは何かに答えることであることがわかる。

 

普通,体育では運動能力や体力が運動学習で身につくと考えるのだが,体育同志会では,身体運動を制御と表現の二側面で捉える。

制御は認識的側面。

表現は技能的側面。

当然,この二つは絡み合っているので,技能がうまくなれば,認識的側面も変化する。

この認識的側面の変化をどう考えるのかが,これまで体育同志会では弱かった。

単に,「わかる」で表してきたということ。

 

総会が終わった後に,居酒屋でひづるさんと話しているときに,ひづるさんは「『できる』は見える。『わかる』は見えない」といわれた。

だから難しいわけだ。

そして,僕のヴィゴツキーを媒介とした提案もここにあるのだ。

 

その際にさらにヴィゴツキーの重要な概念を用いざるを得ないのだが,ここからが難解になるかもしれない。

その概念は,「内言」であり,概念の「意味」と「意義(語義)」である。

そして,言葉の発達における他者の存在である。

 

「内言」とは,二つの使われ方がなされる。

①子どもの言語の発達において現れるある段階を指す。

②言語化される以前に言葉の束のような体系を形成しているもの。

 

①は,言語の前には行動があり,その後自己中心的言語(外言,音声を伴う言語)の段階が来て,内言(音声を伴わない言語)の段階が来るというその段階。

②は,「この話が終わったら,居酒屋でサンマを食べながら日本酒を飲もう。」という文章が発せられる以前に,「話」「居酒屋」「サンマ」「日本酒」「終わったら」「希望」などが構造化されずに自分のなかの体系にあるその状態。

 

うまく話せないというのは,「いいたいこと」はあるのだが,それが文章にならない=順番に並べて文というまとまりをつくれないということ。

話し言葉は,それを後で起こしてみると,全然文章になっていないことが多いのは,内言に近いから。

内言は,自分自身に向けて語る言葉であるので,完全な文でなくてもよい。

述語主義だと言われることもある。

一方書き言葉は,話し言葉的に書いてみて,それを見ながら推敲していくために,構文となっている(なりにくい人もいるが)。

 

注)概念の「意味」と「意義(語義)」について説明していなかったので書き足します。

概念には,辞書に書いてあるような割と多くの人に伝達可能な定義(内包)=意義(語義)と,それを個人が受け取るときには個人的な「意味」となることである。

この「意味」とは,現象学的な知覚の意味付与作用と同じで,リンゴを作る農家と私ではリンゴに付与する意味や,リンゴから受け取る情報は違うということ。

 

だから,学校教育の目的の1つは,内言(知識,「意義(語義)」の「意味」化),内言の外化(話し言葉),構文化(書き言葉)を身につけさせることにある。

ヴィゴツキーによれば,8歳の子どもの書き言葉は2歳児の話し言葉なみになるという。

それは,一人で話しかける相手も文脈もないなかで書くからだ。

話しているときには反応してくれる他者がいる。

大人になれば,書き言葉の方が推敲がきく分,話し言葉よりよい。

 

運動を言葉にするのは,さらに難しい。

しかしながら,『たのしい体育・スポーツ』2015年9月号にも書いたが,運動を修正しようと思えば,それはその部分を何らかの言葉に置き換える必要がある。

そこが,意識できなければ,言葉にならなければ,変化させることはできない。

 

自分自身の経験でいえば,運動経過が物理的な時間で1秒だったとしても,一つ一つの動きをより細かく意識できるようになることが,うまくなるときの変化である。

そのためには,運動そのものの経験が豊富にあることと,あわせて意識化が必要になる。

その意識化は言葉化なのだ。

 

その意味では,ソシュール言語学をもっと学ばなければならない。

ソシュールにとって言葉の機能とは,ものに名前を与えていくのではなく,一つのものに切れ目を入れていくようなものだ。

『たのスポ』にも書いたし,この話は有名なのだが,虹は7色というのは日本だけのようだ。

英語圏では6色で,アフリカでは2色で表すところもあるという。

7つの色がはじめからあってそこに名前をつけていくのではなく,虹という現象に,言葉で切れ目を入れていくのだが,言語体系の違いや,文化体系の違いや,必要度の違いによって切れ目の入れ方=色の付け方が変わるのだ。

 

だから,身体運動だって言葉にしてみなければ,動作に切れ目を入れることはできない。

そして,その仕事をやったのが,山内基広さんなのだ(詳細は,『たのスポ』前掲を参照)。

 

身体運動の教え合い学び合いというのは,運動の言葉化を伴うことになる。

ところで,その言葉には,運動のやり方に関わる手続き的知識として,動作の順番を表したものが用いられるだろう。

そこには映像的な情報も同時に与えられることでわかりやすくなる。

 

やや使い方に飛躍が出てくるが,授業で教師が使う科学的概念は,先の「意義(語義)」と「意味」でいえば,「意義(語義)」であるが,もちろん教師のよって語りに味付けがなされるわけであり,教師の「意味」が当然,含まれてくる。

それと同じで,体育授業で教師が使う運動のやり方についての語り,例えば,ドル平泳法のやり方については,書籍や雑誌に書かれているような割と一般的な「意義(語義)」とその書き手の「意味」が付与されたものとなっている。

だから,東京の人と,大阪の人で,解釈が違ったりする。

違う方が面白いけどね。

 

それを,実際の授業で教師が使うことになると,その教師の言葉が子どもに内化する。

このときに,それぞれの子どもにとっての内言の体系に入るわけで,それまでの水泳の経験,水と関わった経験,オリンピックの泳ぎの映像などから構成されて,言葉となって(ならない場合もある)外化される。

そのため一人一人にさまざまな「意味」が構成されて,言葉に表現される。

子どもにとって運動の言葉は豊かではなく,かなり限られた言葉にならざるを得ないと思うが。

 

でも,その言葉やその手前の内言の体系は,うまい子と下手の子の違いではなくて,みんな様々に違いもっている。

うまい子でも,言葉にしてみると,「ぐー,ぱっ」というかもしれないし,「蹴って,スーって伸びて,頭が浮いたら,ぱっと息して,あごを引きながら足が沈んでくるのを待つ」というような言葉かもしれない。

さらに,その一連の流れのなかで,自分が課題としている「呼吸のときはあごを上げすぎないようにする」かもしれないし,「沈んだら力を抜く」のかもしれない。

 

繰り返しいうが,大切なのは言葉にするということである。

ただし,ヴィゴツキーもいうように,生活的概念にあたる歩く,走る,跳ぶなどは,歩けるし走れるし跳べるけど,それを言葉にするのは難しい。

でも,新たな動作を習得するのであれば,必ずまず教師によって言葉が用意される必要がある。

それは球技でも同じ。

 

運動のやり方に関わる言葉をなしに,考えさせようとするから,子どもたちが何をしていいのかがぼける。

他教科は教科書があるから(小学校で唯一教科書がないのが体育),まずはその言葉(記号)が提示される。

その意味では,教科書があってもいいかもしれないが,やはり指導法の研究はそれぞれの研究会の考え方が反映されたものでもよいと思う。

僕は,自分が言葉が大切だと思っているから,こう考えるし,人によっては「教えてはいけない」と思っている場合もあるだろうし。

 

頑張ってみたものの,やはり時間切れでした。

ここまで書いてきて思ったのは,言葉にならない子どもの認識を想像するのも面白いのですが,それはまた別機会に。

明日は必ず終わらせます。

 

 

 

 

 

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