本気で離婚したい気満々でした。
よくさ、今は良い抗がん剤があるとかって言うんですけど、組み合わせられるようになっただけとか、なんでか分からないけど、コノタイプには、コノ組み合わせが効く。
と言うのが昔よりも分かってきているだけで、癌に関しては、結局五里霧中。
アメリカでやっている遺伝子解析法も、使えない癌が存在する。
一時、癌の万能薬と勘違いして、当てはまら無い乳癌の患者に、某抗がん剤を大量投与したりして、大量殺人が行われた。
患者の遺族は集団で起訴したが、結果は勿論国の全面勝利。
癌患者は、なった瞬間から、命張って実験体になっている感が強い。
俺も、稀にリンパ節で止まっていることもあると言うが、結局、右胸も同じ様な影が飛び散っている。
しこりが出来るタイプでは無いので、検査は難しい。
造影剤を入れてMRIをとったが、見つからなかったじゃ無いかと、旦那ちゃんは言うが、手術前日の検査とは、ちょっと違う。
あれは造影剤と癌細胞の大好物、ブドウ糖を入れて活発にして映りやすくしているはずだ。
だから一時間も置いてから撮影した。
何しろ過去、とある女性の乳癌だかの細胞を、永遠の細胞と勘違いして、研究しちゃったぐらいなんですから、どうしようも無い。癌というのは、永遠のパートナーですね。
絶対治療が遺体の分かってますが、抗がん剤治療などを受けることで、丸く収まりましたが、一生重いもの持つな。
命令を破ってベランダ片付けたので、傷口が開きましたが、もうそんな事どうだって良いです。
脇が全然視えないし、神経二本撮られてて、触っても分からないから、傷テープ旦那ちゃんに張ってもらってますし。
恥ずかしいとかも無いです。
このまま永遠にセックスレスでも、もうしらんです。
「右胸も調べてもらった方が良い」
と、やっと旦那ちゃんが言いました。
絶対に転移無い!!
から和らいでくれて助かります。
健康診断で、右胸も怪しくて、左は速効ステージⅣでしたが、みぎはね、同じ様な所見あり。でしたので。
調べられたら良いなと思います。
で、撮っちゃった方が這う開ければ、取って。
旦那ちゃんが気になるようなら、君の稼ぎ次第で乳房再建出来るけれど、阿呆の布団買っちゃったからなぁ。
俺は大丈夫。
今日めっちゃ怪しまれましたが、(女子トイレ)男にしてはかなり細身で、女性用のペンダントとか付けてたので。
私は、父方の、父の私にそっくりの妹が、校肉腫で十才で亡くなっていて。
父は何故か、私も早死にする物と決め込んでいて、冷たく接しられたものです。
祖父が、奥さん追い出して愛人家に入れて、奥さんは祖父が肺癌にかかると、全財産持って逃げて、その頃父は、乳癌から死亡した実の母と骨肉腫の妹のお骨を持って、父違いの姉に頼っていました。愛人にいびられて飛び出したようです。
結果として、愛人に可愛がられていた為に残った父の弟と、祖父が病気と貧しさの中で暮らしていたようですが、弟がある日学校から帰ると、祖父は末期の水でも欲しかったのか、土間で這いつくばって、そのまま事切れていたそうです。
そして、直接の三歳年下の弟は、神経芽細胞腫。
当時の主治医の意志とも連絡は取ったのですが、
全く使えませんでしたね。
「マー君の使ってた抗がん剤も、組み合わせで良いのがあるし」
はいはい。
私の乳癌は元々部分切除出来ない、1ミリでも多く乳腺を取ります。乳首も基地取って何も無いです。
退院してから、一生重い物持つな、の腕で植木や土を運ばされたり、重い状態で持って行ったんでしょうとバカにされたが、右手だけの量で運んでいたら、ゴミ袋が足りなくなるし、どのみち支える羽目になると思ったので、秤にかけて、回数が少ない方を取った。
ぶっ壊れ方は同じだ。
十年後生きていたら、是非旦那ちゃんにも長生きして頂いて、絶対にやってくれない『あーん』とかやってもらう。
抗がん剤が下手に良くなってると言うことは、癌と上手くおつきあいしなきゃならんと言うことだ。
ゲロゲロ吐いて、口内炎だらけになって、物が食えなくなって、弱りながらも、何かを求めるんだな?
生きるって、なんだ?
私には分からない。無に感じる。
だが、出来るだけやろう。
ある人が、ベント上オ息子さんにと言っていたが、目玉焼きや、野菜の皮むきから教えてみたのだが、本人が全く駄目だ。やる気が無い。
そして、学生時代の私に似て、朝が弱い。早く寝るくせに。
取りあえず、治療を受けることで、離婚は回避した。
その為には、絶叫するような痛い検査を何度も受けて、抗がん剤の組み合わせを決めないといけない。
そんで、禿げてゲロって、イイことなし。
弟も三回手術したし、抗がん剤は五回以上やった。と思う。
ヤツは、そんな治療を続けるよりも、
「一週間で良い。本当は僕もお姉ちゃんと学校に行って、授業を受けて、放課後にサッカーしたかったよ。一日でも多く長生きするよりも。あ、お母さんには言わないでね」
もう、そんな体力の無い、排泄すら自分でするのが困難な、まるで非力なひな鳥のような弟は、何故か周囲の大人に気を使い、俺だけに本当の気持ちを打ち明けてきたが、イザ弟が死んだとき、俺はヤツの遺体に、姉だというのに一切寄せ付けてもらえず、昨日まで世話していたのはなんだったんだ?!と思ったが、見知らぬ親戚に、
「子どもが見るモンじゃない」
と、どうやら私が弟の姉だと知らない風のオッサンに追い払われて、激しくムカついた。
そんな風に遠ざけられたが、弟は、死に際を教えてくれた。
最後の日は、島に居るはずのない、巨大な蜘蛛がパレットを洗っていた流しのガラスの外の、僕の傍で、うごうごと大きな体を蠢かしていて、気付いたのは隣の子で、絶叫が起こった。
僕は何となく、危篤三回目だし、呼び出しかな?
と思っただけだった。
だがとにかく大人は汚い。
葬式は人間の汚さが暴露される。
だから、一発で嫌いになった。
父の種違いの伯母も乳癌が肺に転移して、まぁ、日本舞踊の家元でいつもビシッと着物を着こなしていた人が、最後は脳にまで転移して、母が面倒見ていたが、必要な物は買って送ったりしていたが、悲惨な物だった。
母方は、癌はいないようだが、肺が弱く祖父は結核で片方肺が無くて、徴兵を逃れている。
それを、神様がタスケテ下さったと宗教に入信。
人生一切働かず、祖母が働いていたが、酒やめろmタバコ吸うなと煩くて、年中喧嘩していた。
最終的に祖母はアルコール依存症になった。
私と同じで、とても寂しかったのだろう。
色々事情はあったのだが、本当に、祖母には申し訳ないことをしたが、最後は手が付けられなくて、酷くボケていた。
祖父もアルツハイマーが酷かった。
性格も根性の悪い親戚が、勝手に祖父母を引き取ってしまったのが、事の発端だった。
二人貧しいながらにも、仲良く暮らしていれば、あんなことにはなら無かったのに、親戚の誰も理もなか卯、やらかした。
私を拉致って虐待したのと同じやり口で、祖父母は壊れてしまった。
そんなわけで、今日はゴールデンウィークを楽しもう!
サービスエリアなどによって、テキ屋の焼きそばの味を比べつつ、建設中のダムを見てきました。
留守番希望の息子さんは、帰って来たら、熟睡していマシタ。