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ビートルズ REVOLUTION

明治維新の立役者 山城屋和助

2015年08月05日 | 日記
明治維新の立役者 山城屋和助
長州藩の奇兵隊は長州藩諸隊と呼ばれる常備軍の一つである。
奇兵隊などの諸隊は1863年(文久3年)の下関戦争の後に藩に起用された「高杉晋作」らの発案によって組織された戦闘部隊である。この諸隊の編制や訓練には高杉らが学んだ「松下村塾」の塾主・吉田松陰の『西洋歩兵論』などの影響があると指摘される。


1872年、山城屋和助自刃の事件は明治維新に欠かせない逸話として、誰もが知っている話として、このサイトでも何度となく書いてきた。

その度に事件に関する項目をネット検索し、それに関する類型の定形文を見てきた。なかには、にわか作家よろしく、面白おかしく書いてあるものもあったが、総じて一つの定形がある。
「野村三千三は奇兵隊に入隊。下関砲撃事件に参加、戊辰戦争には越後口へ出征し、小隊長として活躍、密偵としても行動していたといわれた。この間に山縣有朋の知遇を得た。志を転じて商人となり、横浜に店舗を構えて山城屋和助と称し、親交ある山縣を介して陸軍省からの預り金を基礎に生糸の輸出貿易に着手、陸軍の御用商となった。諸省の用達となって、明治初期の政商の代表格として巨富を得た。明治4年12月貿易のことでアメリカやフランスに行き、翌年6月帰朝した。普仏戦争による生糸価格暴落で大きな損失を出し、さらに予定期日までに陸軍省からの預り金60万円余を返済できず、5年陸軍省内で自殺し、波乱に富んだ人生を36歳で終えた。」

この情報だけで内容は充分伝えているが、そこに「フランスで札びら切って豪遊し、それが日本の当局の耳に入り、呼び戻される。刎頚の友、山縣有朋に強く糾弾され首と交換だと暗に奨められ自刃した」、と書けば、赤穂浪士の大石内蔵助が芸妓をはべらせ遊興する様を彷彿とさせ、劇の筋書きとしては完璧である。

過去におこった歴史ストーリーは、ただ真実ばかりを書いても面白くない、そこにある程度の脚色もあって、読者を楽しませる、といったような昨今の風潮は、発行部数を競うばかりで、とどのつまり発行元に利益をもたらすことに帰結する。もっとも利益激減策としての方法なのかもしれない。

桓武にさかのぼる

このシリーズのモチベーションは、維新の前の時代、京都南禅寺の別荘群の造成動機が発端だった。
当時「琵琶湖疏水建設」という大事業が国家的に進められていた。時代的に、「電力」という考えがなく、自家水力という、文明開化時代にふさわしい、水の動力で産業を動かすという、原始の文明国家の姿の日本国であった。
軍人「有朋」の無隣庵(隣家がないほど広い)の別荘で、物がない時代に、軍人がどうして広大な敷地の別荘を所有できるのか、という疑問だった。それ以来、関係する資料をネットで検索しまくった。
すると、とんでもない桓武天皇(784年)時代まで辿り着き、まさに歴史は一本の線で繋がっていると実感した。

そのときの一部を書き出してみる。


「南禅寺は徳川幕府とつながりが深かったので、こうした広大な土地を寄進され所有が認められていた。
しかし明治政府が1871(明4)年と’75(明8)年の2度にわたり上知令を発布したため、一転、全国および京都の大寺院の所有地ともども召し上げられた。
京都・寺町の寺院から没収した用地に、京都府が「新京極」を開設(’72年)したことを紹介した。南禅寺の旧寺領については結果的に高級別荘地として分譲されることになった。
この地にいち早く別荘を計画したのは時の権力者、山縣有朋(やまがた・ありとも、1838~1922)である。山縣は長州藩士のころ京都で諜報活動に従事したことがあり、また明治になってからは琵琶湖疏水工事を認可した内務大臣、完工時には総理大臣として竣工式に列席するなど、京都および琵琶湖疏水と因縁浅からぬ軍人政治家。
京都では、最初(‘91年)、木屋町二条の旧角倉邸を購入し「無鄰菴(むりんあん)」と称した(現在は料亭「がんこ高瀬川二条苑」)。
次に94(明27)年に旧南禅寺領の一角(現 草川町)3,100平方メートルを購入し、新たな別荘(現在の無鄰菴)の造営に着手した。琵琶湖疏水建設時、もし当初計画どおり動力源の水車が設置され、それを利用する工場が一帯に建設されていたなら今に伝わる日本の近代庭園文化は生まれておらず、それどころか、この地域だけでなく東山山麓の環境が影響を受けていたのである。」
(引用〆)

これは部分的に書き出したもので、おいそれと桓武天皇時代の「親王任国に充てられたのは常陸国上総国上野国の三国である。親王任国の守である親王は太守という」。まで到達しないが、このサイトの前頁を追っていくと、詳細が書いてあるので参考になる。

記事の主な内容は明治維新に到るまで、その後、だが、そうした記事を追っていくと、現在の日本の骨格がまるで透視図のように透けて見える。

今回は、「山城屋和助」の個人をダイジェストしたものだが、通俗的でない解釈で、分析してみると、そこには世界の列強帝国を相手にして孤軍奮闘している日本の先人たちの篤き血潮を直に触れることが出来る。



山城屋和助 事件
user-pic あやたろう (2012年8月29日 08:17)
山県有朋と山城屋和助事件について、「陸海軍騒動史」松下芳男著、くろしお出版、参照。
山城屋和助はもともと、野村三千三という名前で、周防国玖珂郡山城郷の漢方医の子に生まれた。父は息子を僧侶にしようとしたが、三千三は寧・むしろ武芸を好み、高杉晋作の奇兵隊に加わり、戊辰戦争に従軍した。
この奇兵隊の軍監であったのが、山県狂介(有朋)で、これが野村三千三の、山県有朋との関係の始まりである。
野村三千三は、戊辰戦争でも、馬関の対外戦争でも、勇敢に働いたので、山県有朋に評価されるところとなった。そして、戦乱が収まり、明治新政府となると、維新の功労者、特に薩長土肥の功労者は仕官の便宜を得ることで優先された。
まさに長州出身である野村三千三も、望めば新政府の文武官の地位を得ることができたであろうに、志を翻して、商人になる決心をした。山県有朋は、内心、三千三が商人になることにあまり賛成ではなかったのだが決意が固いので、そういうなら商人として便宜を図ろうという黙約を与えた。

もともと卑賤の身である野村三千三にとって、文武官の地位ですら十分に魅力的であるはずなのに、何故に商人を志したかというと、どうも「戊辰戦争の際の三井商人の暗躍」に心を動かされたらしい。

そもそもが明治政府、すなわち「官軍は、三井からの融資がなくては幕府軍と戦う資金」など全く工面できなかった。これから三千三は、金の威力をみてとったのだろう。

さて三千三は「山縣有朋」の許諾を受けると、木戸孝充のもとに赴いた。木戸は商人となる門出の餞別として、500両を三千三に与えた。三千三はこの資金で横浜に行き、洋銀相場に投資したところ、一挙に1万両の稼ぎを得た。そこで横浜仲道三丁目に店舗を開き、山城屋和助と改名して、貿易商を始めたところ、トントン拍子に発展して、480人の使用人を抱えるまでになった。

このような商売繁盛はもちろん、山城屋和助の才覚もあったろうが、より重要なのは、山縣有朋とのコネである。すなわち陸軍の権力者である山縣有朋が、兵部省の武器弾薬などの御用達を山城屋に斡旋したのだから、濡れ手に粟の稼ぎになったことは想像に難くない。

一方で、政府は、軍事品の輸入の増大により、正貨が国外に流出するのを憂えて、「国産の生糸とお茶」の輸出」を奨励した。

山城屋はこれに乗じるべく軍需品買い入れの資金として軍から前渡しされた資金を、生糸の輸出に流用した。これは本来軍に対する違約なのだが、陸軍省会計監督の木梨誠一郎も長州出身であったので和助は便宜を得て黙認された。
fig10

基調報告「横浜開港と生糸貿易」
www.nias.affrc.go.jp610×877画像で検索
神奈川県歴史博物館(旧正金銀行
 


しかし、好事魔多しなのであって、生糸相場が乱高下し、和助は一気に負債を抱えた。

一旦落ち目になると、弱り目に祟り目で、日頃不満をもっていた人々、山県有朋とのコネを快く思っていなかった人たちが騒ぎ出し、
明治4年12月27日、和助は、陸軍省から14万9000円を借りて、パリに逐電した。この期に及んでも、よくそんな借金ができたものである。





パリに着いた和助は、一流ホテルに宿泊し、劇場に遊んで、女優と交遊したり、競馬に入れ込み、さらには金髪美人と婚約したとの噂も流れた。まさに自暴自棄の豪遊である。
この有様は当然に本国に報告されることになり、司法卿江藤新平、陸軍少将桐野利秋など、非長州系の政府要人の知るところとなり、特に血の気の多い桐野は激怒した。江藤は、西郷隆盛に使者を送って桐野を宥めるとともに、陸軍省に赴き、事の真相の究明を始めた。流石に山県有朋は、この騒動を握りつぶすことはできず、山城屋和助に帰国を命じた。
陸軍省は当然に和助に借金の返済を命じたが、この時点で和助の借金額は64万8000円にも達し、それを返済する資金などあろうはずもない。そこで進退窮まった和助は自害の決意をするが、その前に、陸軍省との関係で問題になるような手紙をすべて焼き捨てた。
そして明治5年11月29日、陸軍省の詰所の一室で、所持の短剣で腹を切って伏した。辞世の句は、「世の中にその名も高き山城屋 開けし御代の土とこそなれ」というのもので未だ若干37歳だった。
この事件は、薩長対立のご時世の中、薩摩をして山県を追求せしめるに十分なスキャンダルであった。山県はこれを受けて、近衛都督の地位を降りて西郷隆盛に譲るとともに、明治6年には陸軍大輔も辞任した。しかし、なぜか西郷は山県を陸軍卿に推挙した。また、西郷が征韓論の破綻で去ると、山県は、近衛都督に復活した。
しかし、山県は脇が甘く、三谷三九郎事件も引き起こしてしまう。三谷三九郎はもともと江戸の出身であるが、幕末に、長州藩に渡すべき資金を幕府に奪われるという失態を演じ、明治維新になってなんとかこの罪を許してもらうとともに、長州藩とのつながりを深めた。そして、山城屋和助と同様、兵部省の御用達を任され、巨額の前渡金を得る立場となった。
ところが、三谷三九郎の手代が相場の失敗により、陸軍からの前渡金20万円を使い込んでしまうというスキャンダルが起こった。陸軍省はこれをうやむやにしようとし、司法卿江藤新平が追求したが、追求しきれなかった。

ただ、世間の評判は三谷三九郎に冷たく、次第に三谷は落ちぶれ、長屋で1円31銭の家賃の支払いにも苦しむほどになった。三谷三九郎を陥れたのは、三井財閥の陰謀という噂もあったが、真相は不明である。
こういう山県、あるいは長州がらみのスキャンダルは、薩長間の亀裂を深めさせ、後の西南戦争の一因にもなった。

補則データ
文久年間(1861-64)に帰郷、文久3(1863)年に還俗して長州藩士高杉晋作が組織した奇兵隊に入隊。下関砲撃事件に参加、戊辰戦争には越後口へ出征し、小隊長として活躍、密偵としても行動していたといわれ、この間に山縣有朋の知遇を得たという。志を転じて商人となり、横浜に店舗を構えて山城屋和助と称し、親交ある山縣を介して陸軍省からの預り金を基礎に生糸の輸出貿易に着手、陸軍の御用商となった。諸省の用達となって、明治初期の政商の代表格として巨富を得た。明治4年12月貿易のことでアメリカやフランスに行き、翌年6月帰朝した。
普仏戦争による生糸価格暴落で大きな損失を出し、さらに予定期日までに陸軍省からの預り金60万円余を返済できず、5年陸軍省内で自殺し、波乱に富んだ人生を終えた。年36。
京都大学附属図書館 維新資料画像データベース)
(記事引用〆)

-若くして命を断った男- より

木戸孝允を始め、前原一誠、伊藤博文と長州人脈を頼り金策するが、みな手のひらを返したように山城屋を避けて会おうとはしない。山県に至っては身をくらませて所在さえ分からない。
 もはやこれまでと思った山城屋は、帰国した折亡くなっていた幼い娘に「秋露妙消童女」と戒名をつけ、「山しろや和助の墓」と自分の墓碑銘を書いて総ての手紙、あらゆる証書を焼き捨て切腹の場に向かう。
 一点の証拠も遺さずに死んだ山城屋和助は黒い噂のあった長州出身官僚を薩摩軍人の鋭い追及からも、また江藤新平司法卿の追及からも救った。
 そして山県有朋をはじめとする長州官吏はその後、天下に馳せる一大長州閥を形成、日本を支配する。 こうして明治新政府最初の政商汚職事件は幕を下ろした。山城屋和助という若き商人の命と引き替えに。 
 山城屋和助の家系を調べた庄司忠は、「商人になって一度郷里に帰ってきた和助は、巻きたばこを銜え、マッチで火をつける実にハイカラな男であった」(『山城屋和助とその家系』)と書いている。武士に見切りをつけ、新時代は商人こそ、と思った維新の若者の姿が浮かんでくる。
 山城屋亡き後、パリで結婚の約束をしたというワッチという女性が和助の死を聞きわざわざ日本まで来て、墓前で泣いたという。死してもなお女泣かせのやさ男であった。
 山城屋が自刃したとの話を聞いた左官の勝五郎は、夕刻家に戻ると妻子に水杯を交わし「今日まで山城屋に出入りし世話になった。この上は殉死し恩人の黄泉路への旅に同道せん」と言って夜腹を斬って死んだ。殉死である。
著:不動武志. 掲載 :えんじゅ5号
(記事引用〆)




三井広報委員会

「官軍資金提供」
三井越後屋は、創業からほどなく幕府御用達を命じられることとなった。官との結び付きは越後屋の安定経営の基盤となったが、幕末の動乱期においては、佐幕でいるべきか、勤王に加担すべきか、大きな決断を迫られていた。
貞享年間(1684~1687)における江戸・京都・大坂の三井越後屋各店は、既存呉服店の反発や抵抗を受けながらも旧来の商売の常識を覆すさまざまなアイディアを駆使し、売り上げを拡大していった。そしてこの時期、三井越後屋は呉服と両替の両分野で、幕府と結び付いていく。
 
貞享4年(1687)、当時五代将軍綱吉の御側衆であった牧野成貞(なりさだ)(下総関宿藩主)より声がかかり、御納戸呉服御用の役を引き受けることになった。御納戸とは、江戸城大奥にあった部屋のひとつで、着替え部屋や化粧部屋として用いられていたという。その呉服御用達となったのである。
 
このことは、創業以来続いていた他店からの営業妨害が解消されるという大きな効果をもたらした。江戸本町一丁目に最初の呉服店を開業(延宝元年/1673)してから14年、駿河町に移転(天和3年/1683)してから4年目のことである。
 
替御用の拝命
画像 御為替御用達 「三井次郎右衞門」 判鑑(公益財団法人 三井文庫所蔵)
 
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それからほどなく三井越後屋は、幕府から為替の御用も引き受けることとなった。元禄3年(1690)、江戸の奉行所より駿河町の両替屋に「大坂御金蔵銀御為替御用を希望するものは名乗り出よ」というお達しが発せられた。その募集に対し12名が応じ、三井からは2名が御用引受を申し出たのである。

「大阪御金蔵銀御為替御用」
 
大坂御金蔵銀御為替御用とは、幕府の金蔵である大坂御金蔵に集まった何万両もの銀貨を受け取り、それを60日後(すぐ後に90日期限)に江戸の御金奉行に上納することである。これまでは現金を東海道経由で送金していたが、それを為替によって行おうというのである。大坂で受け入れた金銀は、江戸での上納期限まで60日~90日あるので、その間に運用すれば大きな利息を計上できる。この為替の御用によって、三井越後屋は多大な利益を受けることになった。御用引受を根幹とした三井の両替店は呉服店から独立し、大坂高麗橋に出店。やがて大きな成長を遂げることとなる。

その後の江戸中期における三井越後屋は順調であった。元禄7年(1694)に家祖三井高利が没するが、高利の子どもたちは長男高平を中心によく結束し、宝永7年(1710)に大元方を設立。家制と越後屋の経営を一元化して組織をより強固なものとした。享保7年(1722)には『宗竺遺書』が制定され、三井家と事業が強く統制されるようになった。以後、幾度か大火に見舞われたり、三井家の内紛があったりしたものの、江戸後期まで経営的には比較的安定していたといえよう。

しかし、天保年間(1830~1844)頃からは、天候不順による大飢饉(ききん)をきっかけとした大塩平八郎の乱などが起こり、徐々に世の中が争乱の様相を帯びてくる。嘉永6年(1853)には浦賀にペリーが来航し、やがて横浜が開港した。それに伴う日米貿易の進展は国内織物業に大きな打撃を与えたのである。糸絹市場において生糸の価格はどんどん上昇し、三井越後屋本店の経営を圧迫していった。また、倒幕の機運によって世上は不穏な空気に包まれ、特に京都の秩序はほとんど失われた。こうした動静によって両替店経営も不振に陥っていった。

倒幕に加担する
 
江戸末期、倒幕のうねりによる社会の混乱は、慶応3年(1867)10月14日の大政奉還によって一時収束に向かうかに見えた。しかし、薩摩の大久保一蔵(後の利通)や西郷隆盛、公家の岩倉具視らは、あくまでも武力による倒幕を主張。同年12月9日に王政復古のクーデターを起こして新政府を樹立し、前将軍徳川慶喜に対して辞官納地(慶喜の内大臣辞任と幕府領の放棄)を命じた。これによって倒幕勢力と幕府側との緊張が増し、翌慶応4年(1868)1月3日の鳥羽・伏見の戦いを発端とする戊辰戦争へと発展していく。 

伏見の戦い絵図。左側は会津を含む旧幕府軍で右側は長州軍。両軍ともかなり近代化されていることがわかる。この開戦前夜、三井はその後の進むべき道を決めた。

こうした幕末の混乱期、三井越後屋の江戸と大坂の店は佐幕の中心地にあり、また、京都の店は勤王の真っ只中となっていた。元禄以降これまで越後屋は、呉服業にしても両替為替業にしても幕府との密接な経済関係を築いてきたが、一方で京都と大坂の店は幕末の一時期、琉球通宝の引替えを通じた薩摩藩との交渉があった。両陣営と金銭的な深い関わり合いを持っていただけに、越後屋の立場は微妙であった。

しかし、両陣営の中枢に通じていたことは、戦いの趨勢(すうせい)を推し量る点で幸いした。三井越後屋が保身を図るためには混沌とした政局を素早く見極めなければならず、それには敏速で正確な情報収集が不可欠だったからである。その役割を担って活躍したのは、当時の三井総領家(北家)の若主人、三井高朗(たかあき)であったという。 

三井越後屋が倒幕側に加担する方向へと大きく舵を切ったのは、鳥羽・伏見の戦いが勃発する直前であった。入京した薩摩藩の軍隊は軍資金がまったく不足していたといわれる。そこで三井に千両の軍資金調達の依頼をする。高朗はこれを受け、配下に命じて京都中の両替屋から現金をかき集めて求めに応じた。鳥羽・伏見の開戦前夜のことであったという。その後三井越後屋は、財政基盤が不安定な新政府の東征軍の戦費調達にも大きな役割を果たしていく。

維新後、近代において三井財閥が大きく発展できた理由のひとつに、維新政府(=倒幕派)の成立に寄せた功績があったことは否定できない。しかしながら、呉服業としての越後屋は、明治以降時代から取り残されていく。
洋服が広く流通するようになって需要が減り、やがて明治5年(1872)には三井大元方から切り離され、後に三越として独立。日本初の百貨店として再生し、現代に至っていることは周知のとおりである。(三井越後屋物語・完)(三井グループ・コミュニケーション誌『MITSUI Field』vol.10|2011 Spring より)
 
会員会社ニュース2013年2月7日号
「18世紀・越後屋が世界最大の量販小売店と発表」
三井の歴史コラム「三井を読む」 第10回 駿河町の発展から三都における基盤を築
 

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