2022/06 RACOCO/BLOG 

ビートルズ REVOLUTION

「許せない」二人 ???

2015年09月01日 | 日記
2人の「許せない」は、人なのか、やり方、なのか?
反対するデモに対して批判的な意見、は堀江貴文氏。
柿沢氏と松井氏を天秤にかけ、そのまま何もなしではと、松野氏を批判したのが橋下徹氏だ。


その時代が明治維新前や、太平洋戦争前昭和の人事混乱期だったら、暗殺リストに載った人物たちだ。誰がって、そりゃ挙げた人も挙げられた人もさ~。
互いに敵対しているが、自分たちが王道正道だと信じきっているしね。で、邪魔なやつらは殺してしまえ、というのが政権奪取のセオリーで、そのことは歴史書にしっかり書かれている。


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1871年、陸軍の資金を預かり生糸ファンドで大失敗し大穴をあけた山城屋和助の自害の理由と、実際それが自害だったのか。


1936年2.26事件の日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校による暗殺事件、高橋是清、斎藤実二名を殺した理由は「政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮」というが、実際の理由は、1932年高橋是清の政府発行の国債を日銀に直接売却する「日銀引受」が開始されたが、その目的は1931年9月に起こった満州事変、1932年3月満州国建国など満州建設が目的となっていた。そうした巨額事業と連動しないのか、といった疑問は、いまだ解明されていない。

民による政治、それが民主主義だと、云ったところで境界線引きのないネット世界では、まったくそれは通じない。
昨日書いた記事でも、ちょっとばかりキナ臭い煙をたてると、たちどころに、闇サイトから「ご案内状」が届く素早さには、度肝を抜かれる。
この日本が平和だといっても、いまやグローバルネット時代であるから、自由発言なんてのはありえない。他の方々も注意喚起を促したい。
 
【維新分裂】橋下氏「松野氏許せないですよ」 幹事長続投に怒り 新党代表は松井氏で調整20人超参加へ
産経2015年8月31日 19時17分 産経新聞
地域政党「大阪維新の会」代表の橋下徹大阪市長が10月中の結成を目指す新党は、代表に大阪維新幹事長の松井一郎大阪府知事が就く方向で調整が進んでいることが分かった。

 維新の党の大阪系国会議員12人を含め20人超が参加するとみられる。橋下氏が離党した維新の党の松野頼久代表は30日、新党結成について「寝耳に水でびっくりしている。簡単に党を割らないでほしい」と述べた。

 維新では、安倍政権との関係が深い大阪系と、民主党との接近を見据える松野氏らが対立。松野氏寄りの柿沢未途幹事長が山形市長選で特定の立候補予定者を応援したのを機に反発が深まり、橋下、松井両氏は27日に離党した。

 橋下氏は29日夜、松井氏や大阪系の国会議員10人と大阪府泉佐野市のホテルで会談。遠藤敬国対委員長代理によると、27日の記者会見で「党を割らない」と言明していた橋下氏がすぐに翻意した一因は「橋下、松井両氏の離党後も松野氏が柿沢幹事長を続投させたことだった」という。

 この席で橋下氏は怒りを抑えきれない様子で「許せないですよ。柿沢さんと松井さんを天秤にかけて、そのまま何もなしなんて」と松野氏を批判した。新党結成を正式表明する10月1日は維新の代表選の告示日で、松野氏らをけん制する狙いもありそうだ。
(記事一部引用)
 
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堀江貴文氏が安保法案の賛成派デモも一蹴「どっちにしろ時間の無駄」
2015年8月31日 19時35分 トピックニュース
30日、堀江貴文氏が自身のTwitterアカウントに、安全保障関連法案(安保法案)に対する賛成派のデモを一蹴する投稿をした。

堀江氏はかねてより、集団的自衛権の行使に反対するデモ参加者を挑発するような投稿をしたり、安保法案反対デモに参加する人を雇用しないと宣言したりと、安保法案に反対するデモに対して批判的な投稿を続けていた。
(記事一部引用)


(2.26事件 リンク http://www.nikkei.com/article/DGXMZO83600550U5A220C1000000/ 
2.26事件権研究 クーデター阻止した意外な人物 
歴史豆知識 日経
日本史でよく知られているクーデター事件は大化の改新(=乙巳の変、645年)・本能寺の変(1582年)・二.二六事件(1936年)の3つだろう。

いまだ解けぬナゾが残っていることでも共通する。日本が本格的な戦争に突入していく際のターニングポイントとされる二.二六事件は、最近これまでの通説を覆す歴史書が出てきている。
関係者らへの直接インタビューなど約30年間研究を続けてきた近代政治史の筒井清忠・帝京大学教授に最新成果を聞いた。

筒井清忠・帝京大教授。「二.二六事件」は現在でも新しい研究進んでいるという。
 
二.二六事件は1936年(昭和11年)2月26日、陸軍の青年将校ら約1500人が「昭和維新」を目指して当時の岡田啓介首相らを襲撃。高橋是清・大蔵大臣や斎藤実内大臣らを殺害して首相官邸など東京中枢部を占拠した事件だ。

当時の日本は中国に進出する一方で国際連盟からは脱退、国内では農村部が極端に疲弊し貧富の格差が拡大していた。

二.二六事件の青年将校は、「天皇親政」を目的とする「皇道派」と呼ばれるグループの尉官クラスで、20~30歳代が中心。政界などの指導者らは腐敗しているとして一掃し、体制改造で逼塞(ひっそく)状況を打破することが狙いだった。

しかし昭和天皇と周辺の強いリーダーシップで翌27日には戒厳令が敷かれ、29日には反乱部隊が原隊復帰するなどして事件は終息した。
事件後は陸軍内の対立派閥だった「統制派」の政治力が強大になり、この事件が結局太平洋戦争への一里塚になったともいわれる。
近代日本が経験した最大のクーデターだけに関心は高く、これまで「二.二六産業」と皮肉られるほど、さまざまな視点や仮説による数多くの研究書が出版されてきた。

筒井教授は「黒幕説や謀略説は今では否定されている」と言う。よく黒幕になぞらえられるのが皇道派の首脳、真崎甚三郎陸軍大将だ。
青年将校は岡田内閣に代わる暫定内閣を主張し「真崎政権」を求めていた。しかし「当の真崎大将は事件前、海軍大将と緊密に連絡したり、陸軍他派閥との交流を図ったりと派閥工作に没頭していた」(筒井教授)。
クーデター当日の朝4時半ごろ、事件を知った真崎大将は「死人のような顔になり『万事休すだ』とつぶやいた」という

二.二六事件を起こした青年将校の心情そのものは、純粋に国のためを思ったことだと公式に認める――。
26日に発表された「陸軍大臣告示」がクーデターの意義を好意的に承認したかのような内容だったのは有名だ。この告示が近衛師団司令部に伝えられたのが早い時間の午前10時50分という記録があったため、あらかじめ皇道派上層部が作成していたのではないかと謀略説が唱えられたこともあった。
これも筒井教授は「二.二六事件の裁判記録の精査から実際は午後3時15分ごろだったと確定している」と指摘する。「青年将校は情報が漏れるのを恐れて事前の上層部工作はしていなかった」(筒井教授)。昭和天皇が皇道派に好意的だという誤った情報が伝わっていたことが、事態の推移を楽観的に見させていた。
晩年の木戸幸一・内大臣。若き昭和天皇の側近としてクーデター鎮圧に重要な役割を果たした。
しかし、その昭和天皇は終始鎮圧の姿勢を変えなかった。当時まだ34歳、若き君主の方針を支えたのは誰だったのか。

筒井教授は意外な人物の名をあげる。軍部に近いと言われ、戦後はA級戦犯として裁かれた木戸幸一・内大臣(事件当時は内大臣秘書官長)だ。
これまでは軍国主義の台頭を阻止するどころか、逆に促したひとりとみられており、一般的に木戸氏の歴史評価は芳しくない。
対米開戦につながった東条英機首相を実現させたのも木戸氏だ。しかし二.二六事件では「見事な対処策を起案した」と筒井教授は評価する。木戸氏は天皇の方針を2点に絞った。暫定内閣を許さないことと、反乱の断固鎮圧である。

当時岡田首相の安否は定かでなく、残った閣僚らは昭和天皇に辞表をまとめて提出したものの受理されなかった。
暫定内閣を許せば取引の材料を与えることになり、実質的なクーデター成功につながると木戸氏が判断したからだった。その後皇族、大臣らが繰り返し天皇に暫定内閣を進言しても認められなかった。中には天皇に会うこと自体を阻止された重臣もいたという。事実、ここから青年将校の動きは頓挫してしまう。

高橋是清蔵相。無事であったならば後継首班に推される可能性があった。青年将校が避けたい展開だった。

筒井教授は木戸氏を「情報に精通した、機を見るに極めて敏な政治家」と分析する。明治の元勲、木戸孝允の孫である木戸氏には、さまざまな方面のエリート層から秘密情報のたぐいがもたらされていただろう。
参謀本部などの高級将校らとも交際していたため、陸軍内の事情にも精通していた。クーデター側の攻勢が長続きしないと読み切っていたのかもしれない。
近衛師団に連絡して皇居の安全を確認し、岡田首相抜きの閣議を宮中で開催させるなど着実に手を打っていった。
「非常事態にあっては危機管理のポイントを絞ることが重要。そのポイントに集中し徹底して青年将校側の排除に動いた」と筒井教授の評価は高い。木戸氏こそ二.二六事件を失敗に終わらせたキーパーソンだった。

日本独特の政治風土も影響したようだ。非常時には政治過程の中に必ず天皇の「御聖断(ごせいだん)を仰ぐ」ということが必要だとする「天皇型政治文化」が存在していた。筒井教授は「クーデターを成功させるにはスピードが大事だ。この文化が青年将校側に不利に働いた」としている。

元首相の高橋蔵相は、軍事予算の抑制をはかった言動で軍部から憎まれていたという。しかしそれだけが襲撃・殺害の理由だったのか。
「岡田内閣の後継首班に選ばれそうで、自分らの考えに合わない人を事前に排除したかったのではないか」と筒井教授は推測する。確かに岡田首相に万一のことがあった場合、後継の最有力候補は高橋蔵相だっただろう。
結果的には26日に殺害された指導者層の中でただひとり軍人出身でない犠牲者となった。
これは事件の印象を暗く悪いものにしてしまったようだ。身柄の拘束程度にとどめておけば、あるいは政界や軍部での支持勢力は増えたかもしれない。

通説とは正反対に実は二.二六事件に好意的だった大物幕僚もいる。満州事変(31年)の立役者、石原莞爾・参謀本部作戦課長(=大佐)だ。

事件当時、青年将校らに対して「言うことを聞かねば軍旗を持ってきて討つ」と面罵したと言われていた石原大佐だが、実際は26日には自主的に参謀本部の建物を青年将校側に明け渡していた。
その後も間接的に交渉を試みたり、有利になるような解決策を陸軍大臣に進言したりしていた。
「青年将校側が最後に信頼して頼みにしたのが石原大佐だった」(筒井教授)。
その石原大佐は事件終息後、陸軍「満州派」のトップとして統制派主流を受け継いだ東条英機首相派と激しい人事抗争を繰り広げた。
筒井教授は「事件終結後に統制派がすぐ政治的実権を握っていったという解釈は不正確」という。
さらに詳細な研究を進めていく上では、昨年完成した「昭和天皇実録」の影響が大きそうだ。これまで関係者の日記などでしか分からなかった事件の時系列的な経過が、より正確に把握できるようになったためだ。「親英米派の湯浅倉平・宮内大臣が早くから皇居にこもって天皇に助言しているなど、見過ごされがちだった点も明らかになっている」(筒井教授)。

事件から今年で79年。行為自体は決して許されないものの、国家改造を目指した青年将校の心情や人間性は純粋だったとして一部に根強い人気が残っている。
直接投票制や議会制民主主義が発達している政治体制では軍事テロは成功しにくいという。国民が体制の正統性に厳しい目を向けるからだ。

それでも「政治の中には投票結果だけでは測りきれない情念的なものがある。そうした要素にどう対処すべきなのか。二.二六事件の研究は今後も必要になってくるだろう」(筒井教授)という。(電子整理部 松本治人)
(産経記事引用)

二・二六事件梗概 (資料ウィキぺデア)
斎藤内閣は政友会と民政党から大臣を迎えた挙国一致内閣であった。経済恐慌に苦しむ農村の救済に一定の業績を上げたが、外交問題では軍部の要求に従い満州国を承認した。国内政治の安定を最大の眼目に置き、軍部との決定的対立は避けた。
斎藤の融和的な態度にもかかわらず、陸軍将校の一部は齋藤をリベラルであるとして嫌い、閣僚のスキャンダル暴きに従事した。
帝人事件においては大蔵次官らが逮捕され、内閣総辞職に追い込まれた。110数人が収監されながら、公判においては全員無罪となる異例の経過をたどった。検察内の平沼派、陸軍将校、政友会右派らが仕組んだ陰謀であると見られている。

その後内大臣に就任した斎藤は、天皇をたぶらかす重臣ブロックとして中堅、青年将校から目の敵にされ、二・二六事件において斎藤は殺害された。
2月26日未明に坂井直中尉、高橋太郎少尉、安田優少尉に率いられた150名の兵士が重機4、軽機8、小銃、ピストルなどを持ち斎藤邸を二手に分かれて襲撃した。
自室にいた斎藤は無抵抗で虐殺された。斎藤の遺体には47箇所の弾痕、数十の刀傷が残されていた。春子夫人は銃撃された際に斎藤の体に覆いかぶさり「私も撃ちなさい!」とさけび、斎藤の死を確認しようとする兵士の銃剣で負傷した。春子夫人はその後、長寿を全うし、1971年に98歳で逝去したが、最晩年に至るまで事件のことを鮮明に記憶し語っていたという。
斎藤実の養子である斎藤斉(ひとし)の妻の弟であった作家の有馬頼義は、事件当日に隣家の義兄邸に宿泊していた。春子から話を聞いた有馬によると、兵士らはベッドの上にあぐらをかいていた斎藤に軽機関銃を発射し、ベッドから転げ落ちた死体に更に銃撃した。信任していた重臣らを殺害された昭和天皇は激怒し、反乱軍の鎮圧を命じた。

二・二六事件の数日前、警視庁が斎藤に「陸軍の一部に不穏な動きがあるので、私邸に帰られないようにするか、私邸の警備を大幅に強化したらいかがでしょう」と言ってきた。二・二六事件は基本的には秘密裏におこなわれた計画だったが、それでも情報のいくらかは漏れており、警察は陸軍青年将校の一部が近々、何かの行動をおこすかもしれないと予想し、彼らの標的の筆頭格である齋藤に注意したのである。しかし斎藤は「気にすることはない。自分は別に殺されたってかまわんよ。殺されたっていいじゃないか」と落ち着いて答えたという。 
事件の前夜、斎藤はグルー大使の招きでアメリカ大使公邸で夕食をとった後、邸内でアメリカ映画『浮かれ姫君』を鑑賞した。当初は中座して別荘(上総一宮)に行く予定だったが、気心知れたグルーとの夕べに会話がはずみ、結局最後まで映画を観て夜遅く帰邸、別荘行きは翌日にした。もし齋藤が予定通りに東京を後にしていたら、事件の難を逃れることもできていたかもしれなかった。

昭和天皇は斎藤の葬儀に異例のお悔やみの言葉を遣わしている。生前の書簡、執務資料などは、岩手県奥州市水沢区の斎藤實記念館と、東京都千代田区永田町の国立国会図書館に分散して保存されている。
(資料記事〆)

2.26事件リンクhttp://idobatakaigicom.ldblog.jp/preview/edit/e8eb4ef4de72a848b9508d8437f2b4d3



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