tyakoの茶の湯往来

日常生活の中から茶道の事を中心に、花の事、旅の事、そして、本や写真の事など、気ままに書いて見ようと思ってます。

吉原宿から蒲原宿までを歩く・・・

2017-02-19 17:06:26 | 東海道五十三次の旅
2月19日(日)
青空ですが強い北風が吹いておりますので、気温よりずっと寒く感じられます。
昨日の疲れが足に出ているらしく、股関節や腿などが重く何となく痛さを感じております。

今日は昨日の「東海道五十三次散歩」の備忘録になりますので少し長くなってしまいました。
東海道五十三次散歩は前回のゴールの「鶴芝の碑」からのスタートです。

   
   本市場の一里塚

江戸から35番目の一里塚ですが、区画整理などで移動している事が多いいといわれ、この一里塚も動かされていて、年を経るごとに本来の場所が分からなくなっているそうです。

   
   雁堤(かりがねつつみ)

一里塚を見ながら、最初に訊ねたのは、「雁堤」と呼ばれているところです。
江戸時代初期の頃は、この辺一帯は幾筋もの川が流れている湿地帯でしたが、駿河代官の古都氏3代により、50年という歳月を要して完成させたのが「雁堤」でした。

全長2.5キロに及ぶ堤は、その形から「雁堤」と呼ばれるようになったそうです。
難工事でしたので、人柱を捧げる他に案が無くなり、人柱となった僧侶のための供養塔が建っておりました。
いかにも日本的な解決方法です。

   
   絵で見ると

「雁堤」を高い所から見るとこんな風に見えるそうです。
雁行に似た形をしているのがよく解ります。

人柱まで立ててやっと完成したこの堤も富士川の流れが変わり、今では市民の憩いの場になっております。

   
   富士川渡船場跡

慶長7年に富士川の渡船が開始され、川沿いの2キロに渡船場を作り、西側は1ヶ所だけだったそうで、大正期に身延線が開通するまでの300年間に渡り、甲信地方と東海道を結ぶ大動脈だったそうです。

   
   富士川

富士川を渡り対岸に行きます。

   
   富士川と富士山

この日は薄曇りでしたので、富士山は見えましたが、写真にはどうも写り難いようでした。スマホで撮っている方がほとんどでしたので多分こんなものでしょう。

   
   角倉了以の顕彰碑

京都の豪商角倉了以が、幕府から富士川の開削を命じられ、慶長12年に工事を始め慶長19年に完成させた、その距離は71キロだった。
下りは年貢米、上りは塩を運んだそうで、その功績を忘れないためにこの碑は建立されたそうです。

   
   昔のまま

昔のままの東海道を歩いております。

   
   常盤家

当時の岩淵村の名主でもありましたが、富士川渡船を控えて、脇本陣の機能を持って、大名の小休み本陣となっていたところで、今も黒塀に囲われ当時の面影を色濃く残しております。

     
   岩淵一里塚

日本橋から37番目の一里塚ですが、前の一里塚が35番目なので、本来なら36番目のはずですが、富士川を船で渡りましたので、川の幅を仮定して37番目にしたという面白い話を聞くことが出来ました。

東海道はここで大きく右に曲がります。

   
   坂を上り切ると

大雨のたびに東海道は通行不能になるため、天保14年に岩淵の一里塚を過ぎたところから山側に新道に付け替えられ、今の姿になっております。
坂を上り切ると、ご褒美のように綺麗な富士山が見えました。

   
   新豊院

曹洞宗の寺院で、開基以来840年という歴史ある寺院です。
このお寺さんは、縦40m横17mという巨大な観音像を裏山の斜面に掲げて例祭を行うことでも有名です。

本堂でご住職の講話を拝聴してちょっとの休憩です。

   
   義経硯水の碑

蒲原氏4代の墓と共に並んでいたのが、義経が墨を擦るために使った水がここから湧き出していたという伝承が、これほどまで立派な碑を建てさせております。

義経と浄瑠璃姫の悲話伝説もこの地に残されているそうですが・・・

   
   蒲原の一里塚

ここの一里塚も原型はほとんどなく、ここにお住いの方が、敷地の一部を一里塚に提供しているそうです。

   
   蒲原宿

到着する前から、ウオーキング・リーダーが、「蒲原宿はいい雰囲気の町並みを見る事ができますよ」と云い続けておりましたが、言っていた通り、中々情緒のある宿場でした。

   
   宿通り

車もあまり走ってはおらず、静かな宿場町と云う佇まいを今に伝えております。

   
   木屋三階建て土蔵

木屋の屋号も持つ渡辺家は、富士川舟運を利用した材木商であったそうで、当時では珍しい三階建ての土蔵が現存しておりました。
一階は天井が低く、最上階の三階に大切なものを保管するために作った土蔵だそうで、たび重なる地震で、宿場全体が倒壊してしまったのに、この三階建ての土蔵は、元の姿を保ったまま残ったそうです。

当時、財力を注ぎ込んで作った「四方転び」という柱組の技術力は凄いものだったのでしょう。

   
   蒲原夜之雪記念碑

広重がここから描いたであろうというところに、この碑は建っております。
この絵が国際文通週間の切手に採用されたのを機に建てられたそうです。

   
   蒲原本陣

ここ蒲原本陣は今でもご子孫が住んでいるそうで、広大な屋敷の管理も大変だと思います。

   
   蒲原宿

今回のゴールです。
夕闇迫る蒲原宿の西木戸に到着いたしました。

今回の東海道五十三次散歩は、12kの行程で、自宅を出た時からの歩数は22.500歩でした。
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2 コメント

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旅人気分になりました (上毛三さん)
2017-02-19 22:48:20
こんばんは。
今回も12km、お疲れ様でした。

今回の行程は、一里塚がきちんと残されているようですが、旧蹟の保存はやはり各自治体の姿勢によるのでしょうかね。それとも有志の心意気?

「蒲原夜之雪記念碑」
写真に写っている浮世絵には覚えがあります。それにしても、描いた場所の特定はどのようにして?
すごい興味があります。

最後の「蒲原宿」の写真、いいですねぇ。まさに旅人気分にさせてくれる写真です。
歩いてこそ見える (tyako)
2017-02-20 10:14:35
上毛三さんさま
今回も楽しく歩いて来ました。岩淵の一里塚以外は、碑がたっているだけでしたが、碑が無ければ全く分かりませんでした。

前回もそうでしたが、地震、津波で全壊している宿場を山側へ移して再建している話ばかりです。
昔から、災害と向き合い、戦いながら今を迎えているという事を思い出させてくれます。

最後の1枚は、狙って撮りました。
予定より到着が遅くなってしまったので、こんな写真が撮れましたのです・・・
ありがとうございました。

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