富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「人はうわべで判断し、神は心を見る。―ダビデ王の選び」 サムエル記上16章1~13節

2017-11-23 01:21:26 | キリスト教

               ↑  サムエル、ダビデに油を注ぐ

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    日本キリスト教 富 谷 教 会   週 報

年間標語 『キリストに結ばれて、聖霊によって、日々心を新たにされ、キリストに似た者に造り変えていただこう。』

聖句 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。これらすに加えて、愛を身につけなさい。キリストの言葉があなたがたの内に宿るようにしなさい。いつも感謝して心から神をほめたたえなさい。すべて主イエスの名によって行いなさい。」(コロサイ3:13~16の抜粋)

     降誕前第6主日  2017年11月26日(日) 午後5時~5時50分

     礼 拝 順 序

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21)  83(聖なるかな)

交読詩編   89、1節~30節(主の慈しみを)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) サムエル記上16章1~13節 (p.旧453)

説  教 「主はダビデを王として選ぶー神は心を見て選ぶ」 辺見宗邦牧師

祈 祷         

讃美歌    16(われらの主こそは) 

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷

後 奏  

                                 次週礼拝 12月3日(日)午後5時~5時50分

                                   聖書  イザヤ書51章4~11節  

                                   説教題    「主の来臨の希望」

                                   讃美歌(21)16 235 24 交読詩編82篇 

本日の聖書 サムエル記上16章1~13節

 1主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」2サムエルは言った。「どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。」主は言われた。「若い雌牛を引いて行き、『主にいけにえをささげるために来ました』と言い、3いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。」4サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。」5「平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。」サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。6彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。7しかし、主はサムエルに言われた。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」8エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」9エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。「この者をも主はお選びにならない。」10エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。「主はこれらの者をお選びにならない。」11サムエルはエッサイに尋ねた。「あなたの息子はこれだけですか。」「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」とエッサイが答えると、サムエルは言った。「人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。」12エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」13サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。

     本日の説教

 古代イスラエルの歴史を記す出エジプト記は、指導者モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、四十年もの長い年月シナイ半島の荒れ野を彷徨し、途中、モーセがシナイ半島の南端のホレブの山(シナイ山)で、神より十戒を授かったこと、モーセがヨルダン川東部のモアブの地にあるネボ山から約束の地カナンを眺めながら息をひきとり、 モアブの地に葬られたことを記しています。紀元前1280年頃の時代です。

 ヨシュア記は、モーセに代わってヨシュアがイスラエルの指導者となり、民と共にヨルダン川を渡り、カナンの町々を占領したこと、征服した土地を各部族へ分割したこと、ヨシュアがシケムに各部族の長老たちを集め、イスラエルの神を自分たちの神とする契約を結び、十二の部族に分かれながら、同じ神を信じる部族連合体を形成したことが記されています。紀元前1220年頃のことです。

 士師記は、カナン定着期のイスラエルの指導者ヨシュアの死の直後から、イスラエルの王政が誕生するまでの間、非常時に部族を指揮した士師たちの活動した歴史を記します。この時代は、紀元前1120年頃から1020年頃までの100年間です。

 サムエル記上は、士師時代から王国成立へと移行する時代の転換期に、イスラエルを指導した最後の士師・預言者サムエルの出生と、彼がサウル、続いてダビデに油をそそいで王に任命した彼の活動を記しています。ダビデ王の即位によりイスラエル統一王国が確立しました。サムエル記上は、紀元前1100年頃から1000年までの約百年の歴史です。サムエル記下は、ダビデ王即位後の40年間を出来事を記しています。

 サムエル記上の1章から7章までは、サムエルの奇跡的な誕生から、成長して預言者となり、イスラエルの霊的指導者になるまでのことが記されています。これと平行して、ペリシテ人の軍事的脅威が強まり、イスラエルは大きな打撃を受け、一時は神の箱さえ奪われたことが語られています。

 8章から12章までは、イスラエルの民がサムエルに王政の導入を要求し、サムエルは神の御心に従って、ベニヤミン族のサウルをイスラエルの初代の王に選ぶまでのことが記されています。

 13章から15章までは、王となったサウルのペリシテ人との戦いと祭儀的な問題の関するサムエルとの衝突が記されています。

 そして、いよいよ今日の聖書の箇所16章になります。

 「主はサムエルに言われた。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」(16・1)

 預言者サムエルは、「サウルを退ける」と神が言われ、自分が油を注いで王としたサウル王が神に捨てられたことを悲しみました。サウル王は、「罪を犯したアマレク人を」滅ぼし尽くせと神に言われたのに、アガク王生け捕りにし、羊や牛など上等なものは惜しんで、滅ぼし尽くさず、主の命令に背いたので、神はサウルを王位から退けたのです。「サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた(15・35)とあります。主は新しい王となる者がベツレヘムのエッサイの息子たちにいることをサムエルに語り、角の容器に油を入れて出かけ、その者に油をそそいで王に任命しなさい、と命じました。注ぐ油は、王となう者に与えられる主の御霊を象徴しています。

 「サムエルは言った。『どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう。』主は言われた。『若い雌牛を引いて行き、<主にいけにえをささげるために来ました>と言い、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい。』」(16・2~3)

 サウル王以外の者を王とすることは、サウロの怒りを招くことになります。サムエルのいるラマから、エッサイのいるベツレヘムへ行くためには、サウロ王の住んでいるギブァを通らなければなりません。サムエルはサウルを恐れて神の命令に反論しました。<どうしてわたしが行けましょうか。サウルが聞けばわたしを殺すでしょう>。神はサムエルに、若い雄牛を引いて旅をし、神に<いけにえ>ささげるために来ました、とサウロに伝えるようという大義名分をサムエルに与えました。そして、いけにえをささげるときになったら、エッサイを招いて、息子たちを呼びなさい。その時、主が告げる者に油を注ぐようにと、主なる神はサムエルに命じました。

 「サムエルは主が命じられたとおりにした。彼がベツレヘムに着くと、町の長老は不安げに出迎えて、尋ねた。『おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか。』『平和なことです。主にいけにえをささげに来ました。身を清めて、いけにえの会食に一緒に来てください。』サムエルはエッサイとその息子たちに身を清めさせ、いけにえの会食に彼らを招いた。」(16・4~5)

 ベツレヘムの長老たちは不安げにサムエルを出迎え、彼の来訪が<平和なことのため>であるかどうかを確認しました。高名な預言者の突然の訪問に彼らに当惑と不安を引き起こしました。サムエルは彼らを安心させ、この長老たちをも会食に招きました。サムエルはエッサイとその息子たちを、神聖な儀式に出席させるため、身を清めさせ、会食に招きました。

 「彼らがやって来ると、サムエルはエリアブに目を留め、彼こそ主の前に油を注がれる者だ、と思った。しかし、主はサムエルに言われた。『容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。』エッサイはアビナダブを呼び、サムエルの前を通らせた。サムエルは言った。『この者をも主はお選びにならない。』エッサイは次に、シャンマを通らせた。サムエルは言った。『この者をも主はお選びにならない。』エッサイは七人の息子にサムエルの前を通らせたが、サムエルは彼に言った。『主はこれらの者をお選びにならない。』」(16・6~10)

 エッサイの息子たちが集まると、サムエルは<エリアブ>の美しく立派な男に強い印象を受け、彼こそ油を注ぐのにふさわしい人物だと判断しました。しかし神は、彼を退けました。<容姿や背の高さに目を向けるな>と戒めました。<人は目に映ることを見るが、主は心によって見る>と言われました。サムエルはエッサイの七人の息子を年齢順に試みたが、そのだれをも<主はお選びには>なりませんでした。

 「サムエルはエッサイに尋ねた。『あなたの息子はこれだけですか。』『末の子が残っていますが、今、羊の番をしています』とエッサイが答えると、サムエルは言った。『人をやって、彼を連れて来させてください。その子がここに来ないうちは、食卓には着きません。』」(16・11)

 サムエルは、他に<末の子が残って>いることを察知しました。こうしてついに、<羊の番>をしていた<ダビデ>が呼ばれてきました。ダビデは少年で、まだ未成年でした。エッサイがダビデを呼んでいなかったのは、この集まりが祭儀的会食のためのものと聞かされていたからでした。

 「エッサイは人をやって、その子を連れて来させた。彼は血色が良く、目は美しく、姿も立派であった。主は言われた。『立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。』」(16・12)

 末の子であるダビデが連れて来られました。彼は、美貌で<姿も立派>でした。<心>で選ばれた者は、必ずしも姿が悪いということにはなりません。神の決定はダビデに下りました。エッサイの子たち八人のうち、兄たち七人ではなく、最年少のダビデを、神はイスラエルの王になる者として選び、王とする任職のしるしの油をダビデの頭に注ぐように命じました。

 「サムエルは油の入った角を取り出し、兄弟たちの中で彼に油を注いだ。その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。サムエルは立ってラマに帰った。」(16・13)

 サムエルは神の言葉に従い、彼に油を注ぎました。この日以来、彼の上に主の霊が激しく降るようになりました。これは、かつてサウルに与えられた恵みでした。この神の恵みは、王として神に仕え、また人に仕えるために与えられました。しかし、ダビデがイスラエルの王として即位するのは、この十年後のことになります。ダビデの即位は、サムエル記下5章1節以下に記されています。

 主なる神は、祭司サムエルに、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」と言われました。「心によって見る」とは、外面的なことによるのではなく、その人の心を見るということです。人間は目に映るところ、外面的なことで人を判断してしまいます。しかし主は、その人の心を見ます。容姿、背の高さ、年齢ではありません。家柄、財産、学歴、職種でもなければ、性格、能力、経験でもありません。それらのものは表面に過ぎません。主はその人の心を見、その人を憐れみ、愛するゆえに選ばれのです。神の一方的な、自由な選びです。年下の弟、未成年のダビデが兄たちを追い抜いて、王として選ばれたのは、神の愛と選びの自由さと、神の摂理の不思議さを表しています。

 アブラハムは、主の御声に従う者として祝福されました。主はアブラハムを選び、恵みによって主の御声に従う者として、アブラハムを育てていったので、アブラハムは主の約束を信じ、主に御声に従ったのです。主がアブラハムに夜空の星を見るように言ったのも、彼に神の偉大さを伝えるためでした。

 神がイスラエルの民を神の民として選んだ理由モーセは民に語っています。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのはあなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちはどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主に愛のゆえに、、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守るゆえ」であると語っています(申命記7・7-8)。<ただ、あなたに対する主の愛のゆえに>とあります。

 主は、ダビデが、その心において正しく、正直であり、神様を信じる信仰を深く持っているからダビデを選んだのではありません。ただ、ダビデの心を見て、主が愛されたからなのです。神の選びは、ただ神の御心によるのであり、人の側には選ばれる条件も権利もないのです。

 使徒パウロも次のように言っています。「神は、その力を働かせてわたしに恵みを賜り、この福音に仕える者としてくださいました。この恵みは、聖なる者たちすべての中で最もつまらない者であるわたしに与えられました。」(エフェソ3・7-8)「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」(コリント一、15・9-10)

 私達の場合の救いも同じです。「兄弟たちよ、あなたがたが召されたときのことを、思い起してみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ」たのです」(コリント一、1・26-30)、とあります。私達が無に等しい存在だから、神は私達を救い、神の栄光を現すために選んでくださったのです。

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