富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「真理の柱である、生ける神の教会」

2018-07-08 00:51:40 | キリスト教

            ↑ アルテミス神殿の想像図  アルテミス神殿は、現在のトルコ共和国の港町イズミルから南に50kmほど離れたところにあった古代都市エフェソスに建っていた、総大理石の神殿。世界の七不思議のひとつに挙げられているが、現在は原形をとどめていない。    ↓ 現在の遺構。

        

   アルテミス神殿の遺構   アルテミスの女神  アルテミスの大女神

         断片を重ねた円柱              エフェス博物館   国立考古博物館(ナポリ)      

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

   日本キリスト教 富 谷 教 会    週 報

 年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖 句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

      聖霊降臨節第8主日  2018年7月8日(日)     午後5時~5時50分 

     礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 227(主の真理(まこと)は)

交読詩編  119篇129~136節(主よ、あなたは正しく)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

司会者祈祷

聖 書(新共同訳)テモテへの手紙一、3章14~16節(p.386)

説  教     「真理の柱である、生ける神の教会」  辺見宗邦牧師

祈 祷                

讃美歌(21) 403(聞けよ、愛と真理の)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷             

後 奏 

                            次週礼拝 7月15日(日) 午後5時~5時50分

                              聖書 コリントの信徒への手紙二、6章1~10節

                            説教題  「神による完全な武器」

                            讃美歌(21) 497 411 24 交読詩編18篇

       本日の聖書 テモテへの手紙一、3章14~16節     

  3:14わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。 15行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。 16信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。

本日の説教

 「テモテへの手紙一」の差出人は1章1節の挨拶にあるように、使徒パウロとあります。使徒パウロの書とされているのは、新約聖書の目次によると、「ロ―マの信徒への手紙」から「フィレモンへの手紙」に至る13通の手紙です。

 「テモテへの手紙一」、「テモテへの手紙二」と「テトスへの手紙」の三通は、「牧会書簡」と呼ばれています。他の手紙は教会宛てに書かれているのに対して、この三通は、個々の牧会者に宛てられており、牧会者としての働きを指導するために書かれたものだからです。パウロの伝記的な個人的記述があります。牧会書簡はパウロの投獄、殉教以後の変化した状況、再臨への期待が薄らぎ、異端の脅威の増大の中におかれたパウロの伝統に立つ教会の文書です。牧会書簡は二世紀初期の著作で、エフェソを含む小アジア(現在のトルコ)で成立したと推定されています。

「テモテへの手紙一」の宛先人のテモテは、パウロの弟子であり、パウロの伝道旅行の同行者であり、また宣教の同労者でもあります。パウロはテモテを、「わたしの愛する子で、主において忠実な者であり、至るところのすべての教会でわたしが教えているとおりに、キリスト・イエスに結ばれているわたしに生き方を、あなたがたに思い起させることでしよう」(コリント一、4・17)と紹介しています。テモテは宣教と指導の務めを託されてパウロのもとから諸教会に派遣されています。

  「テモテの手紙一」の執筆の目的は、「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です」(3・14~15)と明確に述べられています。

 「テモテの手紙一」の1章3~4節によると、パウロはエフェソを離れてマケドニヤ州へ出発するときに、テモテをエフェソに残し、異端に対処するように命じたと書かれています。しかし、このような事情はパウロの真正の手紙にも、使徒言行録にも記されていません。これはパウロの使徒的権威をこの手紙に与えるための文学的手法であろうと思われます。

 1章3節以下11節までは、福音と異なる教え(異端)についての警告です。律法と福音を区別しています。12節から17節までは、パウロの回心と使徒としての召命について語られ、イエスにおいて現された神の絶大な愛の証です。キリストへの感謝で始まり、神への頌栄で終わっています。18節から19節にかけては、テモテに対し、異端から教会を守る戦いの中で、任職の時の預言を支えとし、教会的信仰と正しい良心とを持って、雄々しく戦いなさいと命じています。20節の「ヒメナイとアレクサンドロ」の二人は、牧会書簡成立時に活動していた異端グル―プの指導的人物であったと考えられます。彼らの処罰はパウロの名により使徒的権威をもって行われました。

  2章1節から3章6節には、著者の重視する教会の秩序の維持にたいする、テモテによって代表される教会指導者たちに対する教会指導の手引きです。最初にすべての人のための祈り(1節)、次に支配者たちのための祈り(2節)が勧められています。3~7節は、1節の勧めの根拠を示します。教会は内外から圧迫されて厳しい状況に置かれても、この世に対して閉鎖的でも妥協的でもなく、開かれていなければなりません。それは礼拝においてすべての人のための祈りとなって表されます。祈りについて基本的な勧めがなされた後に細かい具体的な注意が与えられます(8~15節)。男女別々に扱われているのは、教会の集まりにおける役割と危険がそれぞれ異なるとの考えからです。

 3章1~13節は、「監督の資格」と「奉仕者の資格」について述べます。初代教会は使徒を中心とする単純な組織でしたが、教会の発展につれて、役職の分化が生じてきたのです。監督(エピスコポス)は現代で言えば牧師にあたります。その基本的な役割は教えることです。「監督は、円満な人格と品位を保つことが望まれています。忠実な結婚生活を営み、自分の家をよく治め、金銭に執着せず、親切で思いやり深くあれと言われています。牧師の最大要件は完全であることではなく、キリストに根ざした愛です。                                                        奉仕者(デイアコノス)は元々、教会内の貧しい人や病人への奉仕をするものでした。現代で言えば、教会の代表役員にあたる指導者です。彼らもまた品位を持つ者であることが求められます。監督も奉仕者も仕える仕事です。人はキリストへの感謝なしに他者に仕えることはできません。神が人となって下さった。私たちの罪のために死んで下さった。このことだけが人が人に仕えることを可能にするのです。

 今日の聖書の箇所、3章14~16節は、小見出しにもあるように「信心の秘められた真理」について述べています。

 「わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。」(3章14節)

 パウロとテモテはエフェソで一緒に活動したが、パウロはやがてマケドニアに出発し、テモテは異端から教会を守るためにエフェソに留まっています(1・3)。しかし執筆当時のパウロは、エフェソの諸問題を解決するために、すぐにもまたエフェソに行きたいと思いながら、この手紙を書いているのです。14節は、この手紙を使徒パウロの指示として読ませるためのものと思われます。

 「行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。」(3章15節)

 しかし、彼が書いている時、自分のエフェソ行きは遅れるだろう察知したのです。そして、この手紙の意図を端的に述べます。「神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたい」ためにこの手紙を書いていることを。その生活とは、神の家での礼拝、説教、教え、組織化、そして道徳的生活です。

 信じている者の集まりである教会は、「神の家」、神の家族です。教会(エクレシア)は、建物ではなく、神によって招かれ、キリストを信じている人々の集まりです。続いてパウロは教会を「真理の柱であり土台>である建物にたとえています。柱と土台の両方とも、真理の証人としての教会の機能をさしています。<真理>とは、神が人間にキリストによって啓示された真理です。<生ける神>は、旧約聖書では死せる偶像と対照的に用いられています。救いを与え、命を与える故に生ける神と呼ばれています。教会はキリストによって示された真理を柱とし、土台とする、生ける神の教会です。教会は神が建て、所有し、臨在され、神の力によって支えられているのです。

 「信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、キリストは肉において現れ、“霊”において義とされ、天使たちに見られ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」(3章16節)

 キリストによって啓示された真理を、「信心の秘められた真理」と言っています。<信心>は、神への畏敬とそれにふさわしい生活態度を指します。<信心の秘められた真理>とは、3章9節の「清い良心の中に信仰の秘められた真理を持っている人でなければなりません」とあるように、キリストは信心者に啓示された神秘であり、その真理は現に啓示されたが、以前として秘められたものです。「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」ものであり、聖霊によらなければ、誰も「イエスは主である」とは言えないのです。

 その秘められた真理が、確かに偉大であることを、初代教会のキリスト者たちがその中に彼らの信仰をあかししている讃美歌の引用によって示します。

 第一に、<キリストは肉において現れた(「彼は体で現れた」)>。神は人間として現れ、見られるようになり、われわれの人間の形で、われわれのひとりとして人間性をとられました(テモテ二、1・10、ヨハネ1・14)。受肉は救いの歴史のための比類のない新しい始まりです。

 次に、<彼は霊において義とされ>ました。彼は、聖霊により、正しさを立証され、とくにその復活により正当化されたのです。聖霊は、彼が御子であることを証明しました。イエスの洗礼に臨み、彼の職務に力を注ぎました。その同じ聖霊が、最後には彼を死者の中から復活させることによって、彼の正しさを立証したのです(ペトロ一、3・18)。彼は、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです」(ローマ1・4)。これらの節に、キリストが真の神であり、また真の人であることが宣言されています。

 この讃美歌の第三節は、現代的視点からは奇妙に見えます。キリストの地上における働きは、見えざる天使たちにより見守られたのです。この讃美歌によれば、受肉によって、人間同様、天使たちも肉体になった神を見ることができたのです。これらの天使たち(神に奉仕する霊)は、この誕生を讃え歌い、彼の誘惑の時に仕え、彼の墓を守り、彼の昇天を証明し、そして彼の帰ってこられるのを待ち望んだのです(エフェソ3・10)。これは実に神秘です。それゆえ、われわれは「神秘にふさわしく生きるように」招かれているのです。

 彼はさまざまの国で宣べ伝えられました。彼はいまやエルサレムから地の果てまでも宣べ伝えられてきています。良い知らせは世界中で信じられるようになりました(16節b)。この宣教の結果は信仰の生きた共同体(教会)により立証されているのです。

 最後には、彼は「栄光のうちに上げられた」。彼は到来し、彼の宣教の職務を果たし、死んだ死者の中からの復活させられ、天に上げられ、父の栄光に迎えられたのです。このようなことは、わたしたちの信仰の神秘であり、われわれの救いの啓示された秘義であります(詩篇19・2、ローマ16・25)。

 この手紙が送られたエフェソ(トルコのエフェス)には、紀元前7世紀から紀元3世紀にかけて存在した、世界の七不思議の一つに挙げられている、壮大で壮麗な異教のアルテミス神殿がありました。柱や土台も、全体が総大理石の神殿で、豊穣をもたらすアルテミスの大女神像が祀られていました。その壮麗さは多くの礼拝者もひきつけ、アルテミス崇拝を形成しました。パウロはこの異教の大神殿に比べて、エフェソに誕生した家の教会は、規模こそ小さいが、「真理の柱をもつ生ける神の教会」であることを信徒に知らせ、人を救う真理の福音は教会にあることを説き、信心深く、敬虔に生きるよう勧め、神の望む民となるように指導したのではないでしょうか。アルテミス神殿は、何度か崩壊と再建を繰り替えしたが、紀元3世紀頃には、エフェソスの人々の大多数はキリスト教に改宗し、アルテミス神殿はその魅力を失った。こうして、キリスト教徒によって神殿は完全に破壊されてしまった。その残骸の石は他の建物に使われ、神殿の跡地にはキリスト教の教会が建ちました。現在のトルコ共和国の人種はトルコ人80.0%、クルド人20.0%で、宗教別では イスラム教99.8%を占めています。キリスト教徒はごく少数です。

 

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