富谷教会ホームページ・礼拝説教

富谷教会は宗教法人の教会です。教会は礼拝室と二つの茶室からなる和風の教会です。ゴルフ場に接する自然豊かな環境にあります。

「十字架の勝利」 マルコによる福音書10章32~45節

2018-03-18 00:55:45 | キリスト教

      ↑ エル・グレコ(1541~1614)「十字架をもつキリスト」プラド美術館所蔵

981-3302宮城県富谷市三ノ関坂ノ下120番地12  TEL:022-358-1380 FAX:022-358-1403 

           日本キリスト教 富 谷 教 会    週  報

年間標語 『日々に、刻々と、肉の思いに生きようとする自分に死に、霊の思いに従って歩む者とされましょう。」

聖句 「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。」(コロサイ3・15)

 受難節第5主日 2018年3月18日(日) 午後5時~5時50分  

       礼 拝 順 序

                司会 田中 恵子姉

前 奏             奏楽 辺見トモ子姉

讃美歌(21) 436(十字架の血に)

交読詩編   26(主よ、あなたの裁きを望みます)

主の祈り   93-5、A

使徒信条   93-4、A

聖 書(新共同訳) マルコによる福音書10章32~45節(新p.82)

司会者祈祷

説  教   「十字架の勝利」     辺見宗邦牧師

祈 祷         

聖餐式    78(わが主よ、ここに集い)  

讃美歌(21) 535(正義の主イェスに)

献 金

感謝祈祷              

頌 栄(21)   24(たたえよ、主の民)

祝 祷  

後 奏 

                         次週礼拝 3月25日(日) 午後5時~5時50分

                          聖書 マルコによる福音書14章32~42節 

                          説教題   「十字架への道」

                          讃美歌(21)441 539 24 交読詩編24篇

       本日の聖書 マルコによる福音書10章32~45節

 10:32一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。33「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」35ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」36イエスが、「何をしてほしいのか」と言われると、37二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」38イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」 39彼らが、「できます」と言うと、イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。40しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。」41ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。42そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。43しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」

                       本日の説教

 「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。」(マルコ10・32)

  イエスと12弟子たちの一行が、フィリポ・カイサリアからガリラヤを通り、ガリラヤのカファルナウムに来ました。さらにそこを立ち去ってユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれました(9・33、10・1)。そして今日の聖書の箇所で旅の目的地が、エルサレムであることが明らかにされます。<一行がエルサレムへ上って行く途中>とあります。イエスは<先頭に立って進んで行かれ>ました。イエスは自分の受難の地エルサレムへ、決然と向い歩まれました。その姿を見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れました。弟子たちは受難のために先立って進むイエスを理解できなかったのです。そこでイエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められました。<再び>とあるのは、御自分が受ける受難について、前に二回も弟子たちに予告していたからです。第一回の予告はガリラヤでの伝道を終えて、いよいよ十字架に向かう新し段階となるフィリポ・カイサリアでのペトロの信仰の告白直後のことです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。」(マルコ8章31節)。このイエスの苦難と死、そして復活は神の計画に基ずく必然的な出来事であることを弟子たちに伝え、弟子たちがつずくことのなうように配慮して語られたのです。

 二回目の予告は、フィリポ・カイサリアの出来事から六日後の山上でイエスの姿が栄光に輝いた後、山を下り、悪霊に取りつかれた子をいやした後、一行がそこを去ってガリラヤを通って行ったときです。イエスは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(9章31節)と言われました。

 「『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。』」(10・33-34)

 この第三の受難予告は、より詳しく、具体的です。<今>と、受難の地エルサレム行きが強調されます。エルサレムに上るのは、イエスだけでなく<わたしたち>イエスに従う者たちです。イエスに従う者もまた、受難への姿勢を求められているのです。<人の子>イエスは祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告し、異邦人に引き渡す(異邦人とは、ローマ総督ポンテオ・ピラトとその兵卒たち)。異邦人は<人の子>侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、<人の子>は三日後に復活す、とイエスは弟子たちに伝えました。

 「ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。『先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。』イエスが、『何をしてほしいのか』と言われると、二人は言った。『栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。』」(10・35-37)

 この第三回の受難予告の後にすぐ後に、ヤコブと兄弟のヨハネはイエスの栄光の中で主要な地位に着かせてほしいとイエスに願いました。イエスの受難とは対照的に、立身出世を願う二人の弟子たちの無理解が描き出されています。弟子たちはイエスがエルサレムに到着すると、すぐにも新しい神の国が実現するかの如くに考えているのです。イエスが王座に就くとき、<一人を右>の名誉の座に、もう一人を次の左の座らせて欲しいと願ったのです。弟子たちはイエスの受ける苦難と死の意義について、十分な理解を持っていないことが明らかとなります。ヤコブとヨハネはイエスの受難を無視して、ただ神の国の栄光を考え、その中で高い地位を望むのです。マタイ福音書では、願い出る者として、弟子たちではなく、彼らの母親を登場させ、弟子たちへの批判を弱めています。

 「イエスは言われた。『あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。』」(10・38)。

 これに対してイエスの最初の反応は、兄弟たちの野望を非難するのではなく、「あなたがたは自分が何を願っているのか、分かっていない」と忠告されました。もし彼らが御国の本質を理解しているなら、そこでの高い地位など求めるはずがないからです。もしメシヤの栄光にあずかいたいと願うならば、彼らは、イエスの苦難に参与する準備をしなければならないことを伝えます。<このわたしが飲もうとしている杯>とは、イエスの受難と死を意味します。この杯を飲むことは神がその人に定められた死を受け入れるということを意味しています。<バプテスマ>は、「水の中に浸す」との原意から死、または死に至るほどの苦難を意味します。イエスは、彼らにこの<バプテスマ>を受ける覚悟が出来ているのかと尋ねます。

「彼らが、『できます』と言うと、イエスは言われた。『確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることになる。しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ。』」(10・39-40)

 ヤコブとヨハネの二人は、イエスと共に死ぬ覚悟ができていると即座に応答しています。イエスは、ヤコブとヨハネの決意をそのまま受け止められました。イエスは彼らの生涯を見通され、確かに、イエスの十字架を負って従う者になる、と言われたのです。ヤコブは、教会の殉教者になりまりました(使徒言行録12:2)。ヨハネの殉教については不明です。

 神の国での地位は、弟子たちの受ける苦難と交換条件的に約束できるものではないことを、イエスは説きます。その地位は、イエスが決めることではなく、父なる神によって定められている人がゆるされているのだ、と説きます。イエスは常に、御自分を神の使命を果たすためのしもべの位置に置いています。イエスが「天においても、地においても、いっさいの権威が与えられた」と宣言するのは復活後のことです(マタイ28:18-20)。

「ほかの十人の者はこれを聞いて、ヤコブとヨハネのことで腹を立て始めた。」(10・41)

 後でこのことを知った他の十人の弟子たちは、自分たちを出し抜いて良い地位を得ようとしたこの二人の弟子のことで腹を立てました。これは弟子たちのすべてがまだ地位への関心から自由になっていないことを表しています。

「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。』」(10・42-44)

イエスは弟子たちを呼び寄せて、彼らを戒めました。この世の人々の間では、支配者たちが権力を振るって人々を支配している。そして、この世では権力ある地位につくことが名誉とされている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはなりません。御国においては、偉くなりたい者は、自らを低くし、他人に仕える者になり、一番上になりたい者は、皆のしもべとなって仕えなければなりませんと、イエスは弟子たちを諭されました。

「『人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。』」(10・45)

 イエスは弟子たちに、仕えることを求めました。それはイエス自身が仕える者としてこの世に来たからです。イエスは人々に仕えられるべきメシヤでしたが、かえって人々に仕えるべきしもべとなってこの世に来られました。それは、多くの人々を罪の裁きとしての死から救い出すために、身代わりとして十字架の死を遂げるためでした。<身代金として>とは、一般的には奴隷や捕虜を解放するために支払われる身代金のことです。ここでは宗教的な意味で使われ、赦しのための犠牲として用いられています。イエスが世に来られたのは人を愛し、人に仕えるためであり、私たちの罪を赦してくださるために、わたしたちの払えない贖いの身代金として、ご自分の命をもって十字架上で支払ってくださるためでした。イエスの十字架と復活は、私たちを罪と死の束縛と支配から解放し、私たちのために自由と救いの勝利を与えてくださるためでした。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に感謝しよう」(コリント1、15:57)とあります。

 <あなたがたの中で偉くなりたい者>は、また<いちばん上になりたい者は>とありますが、この言葉は立身出世や野心を認める言葉なのでしょうか。偉くなりたければ、人の役にたつように心がけることである、と間違った理解をする人たちがいます。主イエスは決して賢しこく人生に勝利する道をここで説いているのではありません。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9・23)と主が言われたように、<偉くなりたい者は>は、自分を捨てて、仕える者になりなさい、というのが主イエスの教えです。主イエスはこの世の誉れ、この世の与える報いを求めてはいませんでした。わたしたちキリスト者も、自分の利益、満足、報いを全く考えないで、ただ神のため、神の栄光のために、イエスに従うことを求められているのです。そのためには、主イエスの愛と恵みを豊かに受けて、主に似た者につくり変えられ、主に在って生きることです。その時に、主のように謙虚で人に仕える生き方をすることが出来る者とされるのではないでしょうか。

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