最近、コンサートの準備で
イライラさせられることが続き、
そうすると、生活の中にまでイライラが入り込み、
スーパーの野菜売り場のお兄さんの対応にもイラついたり、
あちこちで、きついトーンで会話している自分に気付きました;))

きっと、相手に不快感を与える表情をしていたと思います。。。
黙って順番を待っていると、
横入りされるのは日常茶飯事。
自己主張しなければ、相手は自分に都合よく受け止める・・・
そういう文化の中で、仕事をしてゆく、生活してゆくとなると、
どうしても自己主張する言葉数が多くなります。

でも、これって何か違うわ~
こういう時、私はウルトラマン(古い?)ならぬ
私のクリエーター=天のお父様に聞いてみます。
それは「祈り」と言いますが、
「祈り」は一方的に願いことを述べるのではなくて、
神様とのコミュニケーションのツールです。。。
語るより「聴く」ことが大切です。

祈っているときに、「伝道者の書」の言葉
「黙っているのに時があり・・・」が
心に浮かんできました。


伝道者の書3章は、とても有名な「神の時」
というテーマで書かれています。
一部を抜粋します。


天の下では、何事も定まった時があり、
すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、
死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、
植えたものを引き抜くのに時がある。
・・・
泣くのに時があり、
ほほえむのに時がある。
・・・
引き裂くのに時があり、
縫い合わせるのに時がある。

黙っているのに時があり、
話をするのに時がある。
・・・
神のなさることは、
すべて時にかなって美しい。
神はまた、人の心に永遠の思いを与えられた。
しかし、人は神が行う御業を、
初めから終わりまで見きわめることができない。


「黙っているのに時がある」
ということはどういうことかしら・・・

聖書の中で重要な場面で
「沈黙」が必要とされるときは、
神様に信頼する姿勢を表しているようです。

一番端的な場面は、
イエス・キリストが不当な裁判にかけられ、
偽証をでっちあげる人たちが騒ぐ中、
イエス様は、一言もお答えにならなかった・・・
とあります。
憎悪と偽りに取り囲まれても
静かな落ち着きを保って沈黙されておられた。


神様を信頼しているから
神様が私をどれほど愛しておられるかを知っているから、
不本意な状況でも
心落ち着けて、平安を保っていられる・・・

でも実際、現実の只中で苛立つこと、
不愉快になることに取り囲まれたとき、
私の心は波立つ~~

聖書の詩篇という箇所にある言葉

「静まって
 わたしこそ神であることを知れ。」


不思議なのですが、
聖書の言葉を素直に心に受け止め、
そうできない自分を、そのまま神様の前に差し出し

「あ~!!
もう自分ではどうすることもできないこの心に
平安を与えてください!」

と訴えるとき、
神様の側から・・・としか表現できない
穏やかな温かい安らぎが、心に満ちてきます。






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