『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

誠仁親王(さねひとしんわう)

2017-06-25 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
誠仁親王(さねひとしんわう)

〔現代仮名遣い〕さねひとしんのう

※下線部は信長公記以外の記事によります。


正親町天皇の東宮。母は万里小路秀房の女

藤原房子。

1579年11月新装なった二条御新造へ移住。

1582年6月京都二条妙覚寺にいた織田信忠は、

    本能寺の変のことを聞き現地に向か

    おうとしたが、村井貞勝父子から

    もはや本能寺は陥落し焼け落ちたこと

    を知る。村井の言にまかせ、二条新御所

    から誠仁親王・和仁王を内裏へと移し、

    立て籠もった上で切腹する。

1586年急逝。


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