『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

中野重吉(なかのしげよし)

2018-07-13 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
中野重吉(なかのしげよし)

〔現代仮名遣い〕なかのしげよし


又兵衛。信秀の臣。

1542年8月第一次あづき坂の戦いから活躍。

1570年8~9月野田・福島の戦いで大坂方との

    二番合戦を務める。

1572年11月信長が浅井攻めから退却した後、

    浅井七郎が足軽大将として信長の築い

    た築地を壊そうと出陣したとき、羽柴

    藤吉郎の手勢として追い崩す。

1578年12月伊丹城に火矢を放って攻撃。

1580年8月信長は佐久間信盛・信栄父子に対し、

    大坂で十九条にわたる折檻状を書き上げ、

    楠木正虎・宮内卿法印・中野重吉を使い

    として送り、国外退去を命ずる。始め高

    野山まで下るも許されず、熊野の奥に逐

    電する。

1581年2月京都の馬揃えで、平井久右衛門・中野

    重吉の二人が先払いをつとめる。


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