『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

徳川家康(とくがはいへやす)[15/18]

2018-05-19 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
徳川家康(とくがはいへやす)[15/18]

〔現代仮名遣い〕とくがわいえやす

※下線部は信長公記以外の記事によります。


1598年8月秀吉が伏見城で死去すると、家康ら

朝鮮からの撤兵を命じる。

1599年1月秀吉の死が公表され、秀頼と淀殿大

坂城へ移る。

同年2月家康と前田利家和睦。

同年3月石田三成、武将派の加藤清正らに襲撃

され、家康の邸に逃げ込む。

同年3月三成は居城の佐和山城へ帰る。

同年9月秀頼と家康、大坂城で会見。

同年9月家康、大坂城西の丸に移る。

同年蝦夷の蠣崎慶広、家康の勧めで松前氏に改姓。

1600年家康、「貞観政要」を版行。

同年5月家康、会津の上杉景勝討伐を公言。

同年5月豊後に3月漂着していたリーフデ号船員の

ウィリアム=アダムス、ヤン=ヨーステンら、家康

に謁見。

同年7月石田三成ら、上方で家康打倒を掲げ挙兵。

同年家康、下野小山で軍議を行なう。

同年8月豊臣方、徳川方の伏見城を攻略。徳川方、

豊臣方の岐阜城を攻略。

同年9月京極高次、徳川方に身を投じる。豊臣方、

大津城を攻撃。

同年9月豊臣方、美濃関ヶ原に布陣。

同年9月徳川方と豊臣方が関ヶ原で激突。傍観や

裏切りのため、豊臣方は大敗。



 ※いよいよ関ケ原の戦いです!もうこの段階

  になって徳川方につかない武将は相当不勉

  強な人、あるいは信義上反徳川で動く人、

  のどちらかだったでしょう。秀吉について

  いた人は朝鮮出兵で体力・財力使い果たし

  て疲弊し、家康に反対する余力はなかった

  でしょう。


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へにほんブログ村
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 徳川家康(とくがはいへやす... | トップ | 徳川家康(とくがはいへやす... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

信長公記の蔵:人物篇」カテゴリの最新記事