朝日神明社〜将門、再び2015年06月01日 22時28分37秒


将門は分もわきまえず
掟を忘れ朝廷に反逆した
その科は重く
帝みづからが天誅を下す

国の公式な行政文書で
正式に反逆者として位置づけられた平将門
事の始まりは
単なる一族の内紛に過ぎなかった

父親が早世したのに付け込まれ
伯父達に不当に所領を奪われたりと
非道い扱いを受けたらしい

将門は強かった
待ち伏せされ戦いを挑まれた将門は
彼らを撃退し
その勢いで伯父の国香の本拠地を
国香もろとも焼き払ってしまう

国香の息子貞盛は
戦いを抜け出し京に上り
しゃあしゃあと
太政官に将門の所業を訴える
いい子ちゃんぶってすぐに先生にチクる
あの感じだな

朝日神明社は平貞盛が創建したと伝わる
中央で出世を狙ういい子ちゃん貞盛は
これはいいネタだと
有る事無い事吹聴し
ポジション向上を図ったのかもしれない
浪速の地に神社を建てましょうと
言ったかどうかまでは定かではないが

熊野街道の王子社であったとも伝わる
上町台地聖地ラインの
重要ポイントであった事は間違いない
そこにおける将門の伝承を
人々はどう受け止めたのだろうか

時代は下って秀吉の時代
秀吉は大阪城築城に当たって
暴力的に神社を移動させる
だがこの神明社は動かさなかった
それどころか篤く崇敬したとも伝わる
秀吉の朝廷へのアプローチを考えると
朝敵を調伏した神社ですよと
媚を売る材料だったのかもしれない

明治40年
神明社は他の神社と合祀され
場所も遠く移された
社運傾き維持困難という理由だが
今一つよくわからない
奇しくも同年
東京では渋沢栄一と織田完之による
将門復権が盛んとなっていた
大阪商人達が中央経済界へおもねいた
というのは考えすぎだろうか

誰にへつらうこともない将門の生き方
だけど大阪の商人文化には
まるで必要とされなかったようだ

突然に革新的なリーダーが現れて
必死で問題解決を叫んでも
彼らにはその問題が理解できないのだ
そもそもの前提を覆そうなんていう気質は
この商都には存在しないのかもしれない
そして今やそれは決して
この街に限ったことではない

朝日神明社

朝日神明社

朝日神明社
大阪市此花区春日出中1-6-21

朝日神明社

朝日神明社跡
大阪市中央区神崎町2-30南大江公園

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